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HONEY MAN  作者: 鮎川 了
26/32

二十六、道鑑が張逹を制し、李が変わり果てた姿になる

 ※張の語り 三



 妻と、その兄が迎えに行っても李の決心は変わらなかった。

「あんたは逃げてるだけさ! 農夫の何が悪いっていうのさ! さあ、なけなしの金で作物の種を買ったから早く帰って仕事しな!」

 男のようにぶっきらぼうだが、夫が帰って来る事を心から望んでいる。そんな細君にも李は首を縦に降らない。

 静かに眼を閉じてはいるがあまりの喧しさに怒りを圧し殺しているように見える。

 そして、蜜の匂い。

 それは李の身体から匂って来ていた。もうすっかり蜜が染み渡っているのだろう。

「兄さん、この人を担いで帰ろう! 張さんも手伝って!」

 彼女が叫ぶと、兄と私は同時に頷き、李の枯れた身体に手をかけた。

 ぬるぬるとした甘い液体……汗で手が滑る。いっそのこと布でくるんで担ぎ上げようとしたその時、数名の僧侶と道鑑が現れた。

「何事だ?」

 李はゆっくり眼を開き道鑑に云う。

「道鑑様、この者逹は私が蜜人になるのを邪魔しようとしてるのです。追い払って下さいませんか?」

「うぬ」

 私逹は若い僧侶逹に寺の外へ引き摺り出されそうになった。

「道鑑様! お金でしたら返します。どうか李を家族のもとへ返してやって下さい」

 私がそう叫ぶと道鑑のこめかみの辺りがひきつっているのが見えた。

 そうか、道鑑は僧侶逹には金の話は一切していないのだ。

 大僧正と云う立場上、普通ではない程の暴利を貪るのは僧としての道に反している。私は僧侶の手を振りほどき道鑑に駆け寄り、その耳元で囁いた。他の僧侶逹に聞こえないように。

「李を返して貰えなければどんな噂が立つか解りません。どうかここはひとつ、穏便に……」

「ならぬ!」その太く響く声に私と李の妻や兄は勿論、僧侶逹もその場で固まった。

「もう、この者は蜜しか受け付けぬ。他の食物を口にすれば死ぬぞ」

 そう道鑑が云うと李の妻は口に両の手を当て眼を見開く。

 もう、李は人として生きられなくなったのだ。このまま蜜だけを喰らい、それが骨の髄まで染みわたるのを待っていなければならない。

 そうしてやがて死に、今度は蜜に満たされた寝床で百年間眠るのだ。

 どうする事も出来ない。もう、後戻りは出来ないのだ。

「どうせ死ぬなら家で死なせてやる。連れて行くぞ!」

 李の義兄が彼を羽交い締めにしたが、李は抵抗も出来ない程弱っていた。

「そうさ、私逹に相談も無しにこんな事を! せめて人間らしく死んだらどうだい?」

「やめろ……」

 義兄が李の枯れ枝のような身体を肩に担ぎ上げた時、か細い叫び声が聞こえた。あまりにも幽かで、およそ人間の……大の男の声とは思えない、虫か鳥の声のような……その瞬間、李の義兄は自分の担ぎ上げているものがふいに軽くなった事に気付いた筈だ。

 それと同時に甲高い女の悲鳴が響き渡った。それは怒りと哀しみと絶望が混じりあった李の妻の声だった。

 李の身体は、蜜ですっかり脆くなっていたのだろう。義兄が担いでいる胴体から糸を引いて床に転がっているのは、李の首だ。

 蜜の血をどろどろと流し、恨めしそうな顔で私逹を見上げていた。


 実は、この後李の死体がどうなったのか私は知らない。

 李の妻は気を失い、李の義兄は暴れまわり、道鑑と僧侶逹は私逹を責め、手の付けられない状況になったのだけは覚えている。

 後に道鑑に訊いても“首の取れた禍々しい死体など蜜人に出来る訳が無い”などと云う。

 ならば、李の妻と義兄……つまり、虞淵、君の母と叔父が持って帰ったのかもしれないが、その後私は彼等に会う事は無かったので真相は解らないままだ。

 

 


 

 

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