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HONEY MAN  作者: 鮎川 了
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十六、桃の木が枯れた事、吉報があった事



 其れからは何事も無く時は過ぎたというか、忙しさで何も気にする余裕がなかったと云うか、気が付くと私が張酒家の若旦那になってから半年が経とうとしていた。

 新緑が眩しい季節。例年ならその年の作付けで頭を悩ます季節だ。しかし、今年はそんな事を悩まずに済む。

 あの農地は義父が云ったように人を雇い、私はたまに出向いて少しばかりの指示を出すだけだ。

 鋤や鍬を持つ訳ではなく、光沢の有る繻子の胴着を着て畑の隅に立ち、自分よりずっと歳上の農夫にあれこれと横柄に物を云うのだ。

 農夫はそれを「へい、若旦那様の仰る通りに」と曲がった腰を更に曲げて素直に聞いている。

 こんな若造に偉そうにされて悔しいだろうに顔には出さず。

「若旦那様」ある日農夫は畑の北の方を指差し、云った。

「彼処の桃の木なんですが、枯れてるんですかねえ? もし何でしたらっておきますが……」

 桃の木……

 あの両親が私の為に植えた桃の木。

 季節外れの実をつけて、それが今の私の地位を作ってくれた桃の木。

 それが枯れたと云うのか?

「いや、いい。そのままにしておいてくれ」

「若旦那様の仰る通りに」

 何かが、“終わった”ような気がした。其れが何なのか判らないのがもどかしい。


 美花がここ数日、具合か悪いようなのは知っていた。

 食事は勿論、好きな甘い物も一切口にしない。

 日に日にやつれ、弱っていく彼女はそれでも白い柳の一枝のように優美だが、余りにも痛々しく見るに耐えなくなって来た。

「美花、医者を呼ぼう。いくら君の体が弱いからと云って、これはあまりにも心配だ」

 使用人に、医者を連れて来るように命じていると美花が「待って」と弱々しい声で云う。

 夜鳴鶯も気息奄々としたその声を聞いて待ってなど居られない。使用人が駆け出したその途端、美花は私の袖を象牙の箸のように細くなってしまった指で掴み、その頬は幽かだが赤みがさしている。

「聞いて、虞淵、私ね」

 少しばかり微笑んでさえいる。何故? こんなにも弱っているのに。

「どうしたんだい? 辛いのだろう? きっとお医者様が治してくれるよ」

「ううん、違うの、これは病気ではないの」

 病気ではないとしたら何だと云うのだ?

 美花はなぜそんな風に笑っていられるのだ?

「……私ね、赤ちゃんが出来たの」

 次の瞬間、私は宙を舞っていた。

 嬉しさの余り、恥も外聞も無く小さな子供のように飛び跳ねていたのだ。


 

 



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