麻衣子
キッチンのあかりだけつけて、スーパーの袋を作業台に置き、スーツの袖を捲って手を洗う。取っ手の取れる鍋に大量の浄水を流しこむ。
「よいしょ」コンロにかけて火を点ける。
体中が軋んでいる。ただでさえ仕事で鞭打っているのに、昨日は友達に会うために、見栄をはっていつもより高いヒールを履いてしまった。ストッキングの中、足の裏に貼った冷却シートの端っこが丸まって、少し気持ち悪いけれど、気付かぬ事にして冷蔵庫を開ける。
オリーヴとピクルスの瓶詰と中華だしの缶詰を除けて、奥にあるラーメンの生麺を取り出す。
「よかった。賞味期限きれてない……」
買って来たばかりの有頭海老を袋から出して眺める。二十四時間のスーパーで目が合って一目惚れして衝動買いした。
食道楽は昔からだ。家事の中で唯一、料理だけは好きだし、得意だった。お掃除サービスやクリーニングはフルに活用しているけれど、食事だけは自炊の方が多い。
洋服は売るのが仕事だから、深い好奇心は持てない。ギャンブルにも興味はない。酒も強い方だが、居酒屋のバイトで何人もの酔っ払いを見てからは、自ら好んで飲もうとは思わない。旅行も億劫だし、第一そんな友達もいない。
しっかりしているように見られがちだが、実のところ、不器用で不細工な人生だった。大勢に気を遣う事ができない。彼氏ができれば友達との交流は極端に薄くなる。モテない方ではないから、男がいない時期の方が少ない。基本的に友達は少なくなる。
(おいしそうに食べてたな)
昨日の彼の顔を思い出す。立ち仕事で全身にあらわれる凝りをほぐすためのマッサージ店で、客同士として知り合った。何度か顔を合わせていたが、電話番号をきかれた時は正直面食った。
(ナンパなんて……)
それでもちょうど彼氏もいなかったし、軽い気持ちでOKした。
「あれ?」
三尾入りだと思っていた海老は、四尾目が後ろに隠れていて、しかも卵をもっている。オレンジとピンクの間の色で光る節だった足に挟み込まれた紫色の粒を眺めた。
彼とは本当に軽い気持ちだった。もとより既に結婚には夢がない。何度か同棲もしてみたが、上手くいかなかった。
「仕事、いつまで続けるの?」
一番恋が醒めるその一言を何度も聞いてきた。その度に私は言葉を飲み込んだ。
仕事をしてる私が好きだって言ったじゃない。忙しいのは始めからわかっていたでしょう?どうして男って自分は
「仕事と私、どっちが大切?」ってきかせないくせに、女には自分をとれっていうの? それに私が仕事を辞めても、今の生活を維持出来るの? 仮に維持出来たとしても私たちは本当に一生一緒にいられるの? 別れちゃったりしたら私のキャリアはどうなるの?
声にするかわりに一層仕事に打ち込んだ。男が去っていくまで。
彼は違った。長い腕で頭を支えながら、まるでそれが当然のように
「産休と育休はどれくらい取れるの?」と聞いた。
「わからないけど結構長く取れるはず」
「そう」
軽く答えて、私を抱きしめると寝言でもいうように言った。
「夏休み、俺の実家に行こうか」
大きな鍋に沸いたお湯をスープの分だけ小鍋に移し、海老の頭をちぎって入れた。四尾目の頭をちぎる。指に卵が絡み付く。
彼に対して今までの男よりも特に深い愛情を持っているわけではない。OKした時の軽さは今もかわらないくらいだ。
(いつかは別れるんだろうな)
静かな予感さえする。それでも……
「子供が欲しい」
別れるかも知れない相手の子供が欲しいなんて、子供にとっては迷惑な話かも知れない。私の家は両親が不仲で、物心ついた時から、罵声の飛び交う中で育った。その環境の方がよっぽどひどい事を知っている。子供がいたとしても、別れる事自体には躊躇はない。
一度妊娠した事がある。
妊娠に気付く前に流産した。気付いていたとしても産む選択はしなかったと思う。仕事が面白くて仕方なかった。その過酷な労働が命を奪った事を、当時の男は無言で責め続け、離れて行った。
子供が産まれなかった事で気持ちが離れるなら、逆もあるかも知れない。だから静かな予感も変わるかも知れない。
(結局私は私の子供が欲しいのね)
白髪ねぎを作り終えて鍋の中で縮んで踊る、黒い粒を眺めた。
(他人を、愛せないのかも知れない……)
そんなふうに思っていつから恋愛に冷静だったかと思い返す。
初めて付き合った彼氏とも冷静だった。それどころか、小学生の頃の淡い初恋ですら、恋をしている自分が好きだっただけな気がしてならない。
ちょっとぞっとして、首を振る。
(その点では香奈も同類か……)
香奈は惚れっぽい。特にステイタスのある男が好きだ。職場での恋愛の話も、実は自分を引き上げてくれる相手が多い。だが本人はそんなことには気付いていない。
(そこが可愛いんだよね……って事は私よりよっぽど純粋だな)
今はワケアリの恋愛でもしているんだろう。昨日会った時、
「恋バナないの?」とふってきた。香奈がそういう時は実は自分の話をしたい時だ。そしてはぐらかす時は、たいていワケアリか、別れたい時だ。
「変わらないなあ」
もっと変わらないのは裕美だ。彼女は一貫して愛に生きている。結婚して、子供を産んで……妻になり、母になったのに、ともすれば愚鈍にさえみえる可憐さというか、かわいらしさを失っていない。なにもかもが計画通りにすすんだ平凡で、最も難しい成功者の余裕を昔から携えていた。
私は……
「変わったな……」
顔かたちは一番変化がないはずだ。若い後輩たちに負けるのが嫌で、執念のように体型の維持に努めている。肌の手入れもぬかりない。
でも時々、こうして真夜中にラーメンを食べてしまうようになった。半透明になった麺に生のまま海老をのせて、海老みそを加えたスープをかける。白髪ねぎの上から熱した胡麻油をかけただけのシンプルなもの。
そしてそれを一人で食べている事が寂しいと思うようになった。産む選択をしなかったであろう子供が、もし産まれていたら、どんな生活をしていたのだろうと想像するようになった。
そしてそんな自分の気持ちを女友達に相談してみたくなった。
気弱になってしまった私を彼女たちはどう思うのか。絶対に話そう。ありのままを話そう。私がどれだけだめで、どれくらいずるくて汚い人間なのか。今まで言えずにいたすべてを。
きっと少し驚く。裕美は怒るかも知れない。香奈も怒るかな?それでも受け入れてくれるに違いない。そして何事もなかったように、つまらないおしゃべりが始まるに違いない。
キッチンのあかりだけの暗い部屋で食べた海老味のラーメンは裕美が独身最後の夜遊びの時に食べたラーメンの味に少し似ていた。
それよりも少しだけさっぱりしていて、少しだけ、しょっぱかった。
時に欝陶しくもあり、時にブレーキにもなり……詰まってからわかる鼻の存在のありがたみのように、当然そこにあるもの。夜中にカップラーメンを作りながら構想を練りましたが、筆者は麻衣子に近いです。読者の皆様は誰に共感を覚えますか?




