裕美
夜中にやっている映画を見ながらうとうとしていた。玄関で鍵が開く音がする。
「あれ?」旦那の声に気付いて、のろのろと迎えにでた。
「お帰りなさい」
少し上気した顔は申し訳なさそうだ。
「ただいま。お義母さんのところ、行かなかったの?」
「うん。ママ都合悪くなったみたい」
「そう。泊まるって言ってたから飲んできちゃった」
「みたいね。いい匂いがする」スーツの上着を脱がせる。
(焼鳥屋だな)燻ったような匂いがする。
「じゃあ、居酒屋バイト時代のお友達にも会わなかったの?」
「……うん」
「そう、残念だったね」
「……まあ、独身貴族たちだから、またの機会に」
もう習慣になってしまった、スーツをハンガーにかける動作をしながら、軽く受け流した。
「ママ、ごめん。やっぱり今日はいいや」
断ったのは私の方だった。午前中は出掛けるつもりだった。昼にはじまるワイドショーを見るまでは。
「ラーメン、食べる?」
「うん。半分でいいや」
子供部屋を覗いている旦那に声をかける。飲んだ後には必ずラーメンを食べる。始めからラーメン屋で飲めばいいものの、必ず家に帰って来てから食べる。だから乾麺の買い置きは欠かさない。
キッチンにたち、大きな鍋に湯を沸かす。野菜を取り出そうと冷蔵庫を開ける。きちんと整頓された内部に我ながら惚れ惚れする。
(貴女たちではこうはいかないでしょう)
香奈と麻衣子の顔を思い浮かべる。
子供達を迎えに行くまでの短い時間、今日二人に会うための洋服も選び終わり、ワイドショーを見ていた。よくある不倫の再現VTR。愛人に正妻が仕返しし、亭主関白を気取っていた旦那とも立場が逆転する、胸のすくようなストーリーだった。
コメンテーターの一人はカリスマ主婦。二児の母親でありながらファッション雑誌のモデルをもこなす。彼女が苦言を呈した。
「内容はいいんですけど……どうして専業主婦って、必ずといっていい程、テレビの前でお煎餅食べながら、お尻を掻くって表現されちゃうんですか?そんな主婦、今どき少ないですよ」
(その通りよ)
VTRに描かれていた主婦は、不思議な形のウエイブがでるパーマをかけていた。大きいけれど垂れ下がった胸。それよりも迫り出していそうなお腹。愛人よりも逞しく、意地が悪そうな顔の表情。
「それに、伸びたカットソーと色味のあってないチェックの微妙な長さのスカート、あれも定番ですよね?今どきそんな……」
今日着て行くための洋服を見た。姿見の横にかけてあるそれは薄いブルーのカットソー。赤いタータンチェックのスカート。丈は膝より下、くるぶしからは多少の距離……
(どうしよう)
姿見のところまで行って悩む。これと決めてしまっていたから、他にはもう思いつかない。せめてもう少し膝に近い丈のスカートでもと、黒いフレアスカートに足を通してみる。
(……)
ホックは閉まったがチャックが上まであがらない。前に回してもう一度チャレンジする。その姿が映る鏡を見てはっとした。
もともとふくよかな方だった。男性の視線が痛かった胸は元気なく、垂れ下がっていた。無理矢理にスカートに詰め込まれたウエストは赤ん坊の手首のように不自然に括れている。スカートの裾から覗く足には足首が見当たらない。私はホックを外し、母親に電話した。
今の生活にまったく不満はない。優しい旦那はそこそこに出世して、安定しているし、浮気の気配もない。子供達も驚く程優秀、とはいかないけれど、病気もせず明るく育っている。姑にもつかず離れず、可愛がられている。
(不満なんてない)ぎゅっと目を閉じて二人の友達を考える。
香奈は、昔は私と似たような体型をしていた。子供を産んでいない体は昔とさほど変わらない。字は昔から綺麗で斜めに書く数字が几帳面そうだった。
(でも本当は違う)
客が帰った後のテーブルを片付ける時、食べ残しがある皿の上に皿を重ねていた。
(それにずるいところがあった)
つまみ食いをしていた事、オーダーを忘れてた時にすぐ社員に甘えるように救いを求めていた事を思い出す。
(恋愛だってうまくいかなくなったらすぐ投げ出してた)
自分が飽きたり、結婚の気配が近付くとやれ、年収が自分より少ないだとか、子供を作るならもう少し体格がいい人でないととか、私には理解できない理由を並べては別れていた。
『ごめん、子供が熱だしちゃって……また誘って』
断りのメールに香奈は、
『わかった〜残念だけども。お大事にね』とチカチカするほどの絵文字で装飾された返事を送ってきた。
(麻衣子は……もっとずるい)
スレンダーでいつも真っ直ぐな背筋を思い出す。オーダーをとるときに見せる笑顔は少年のように爽やかだった。それでも厨房の前に戻って来ると、嘘のように冷ややかな顔をしている事がしょっちゅうだった。
(割り切りを通り越して二面性があった)
友達面をしておいて、恋の話をしたことがない。アパレルなのに洋服をすすめた事がない。
同じ断りのメールに、
『了解。報告したい事があったけど急がないからまたの機会に。お子様、お大事に』と文字だけの返事を寄越した。
(冷たい人なんだわ)
麻衣子の弱みをみた覚えがない。昔からの隙のない雰囲気がメールからでも伝わってしまう。
有り合わせの野菜を刻んだ。一定のリズムが体に響いて小気味よい。旦那がカウンター越に覗く。
「半分こするの?」
「うん」
「卵も半分こしようか?」
目尻を下げていう。私が頷くと、食器棚から出した小鉢に、不器用に卵を割入れる。
「黄身、割れちゃった……」
「混ぜるんだから平気よ」
たっぷりの野菜を付属のスープの元を絡めて手早く炒め、茹で上がった乾麺にのせる。その上からお湯をかける。食卓に向かい合い、旦那が割ってくれた卵を半分注ぎ入れる。
「この器、居酒屋友達がくれたやつじゃない?」
「……」
「これ、絶対に割れないのよ」
香奈が力をこめて言った。独身最後の夜遊びと称して飲み歩いた。私たちはずいぶん酔っ払っていて、最後のラーメン屋で、お祝いにくれた包みを開けてしまっていた。
「絶対かどうかはわからないけど……この小花の柄は裕美っぽいでしょう」
麻衣子は少し苦笑いしながらも、小さなピンクの花を嬉しそうに眺めていた。
彼の気持ちが見えなくなって不安だった時も二人は一緒にいてくれた。くだらない助言をするわけでもなく、的外れな励ましをするわけでもない。ただつまらないおしゃべりをして、コーヒーを飲んで。結婚してからは回数こそ減ったけど、内容はかわらなかった。二人がする仕事の話はつまらなかったし、劣等感も覚えたけれど、私がする子供の話も彼女たちにとってはそれと同じだったんじゃないか。
「伸びるよ」旦那はからかうようにいう。
「……少ないから、大丈夫だよ」的外れな返事をする。
「お友達に会いに行っておいで。僕だってラーメンくらい作れるんだから」
にっと笑う顔が愛おしい。
(私は幸せだ……)
喉の奥が痛くて声がでなかった。
私は旦那に頷いてみせて、もうすっかりはげてしまった小花があった場所を見つめた。




