表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

香奈

この小説は完全なフィクションです

 小さな鍋でお湯を沸かす。

 生のニンニクをスライスする。

 カップラーメンがパッケージされているラップに爪を立てるが、上手く破れてくれない。

「もう」

 包丁の先を、カップの底のへこみに突っ込み穴を開ける。

 中からかやくとスープの袋を取り出して、麺の上に開け、ニンニクをのせたら、やる事がなくなった。

 鍋を見つめて立ったまま、別れ際の麻衣子を思いだしていた。

 高いヒールを履いて、改札をくぐり抜ける。崩れのない体型に、厭味ないお洒落。

(さすがアパレル)振り返って、見送る私に笑顔で手を振った。向き直ると、携帯電話を耳に当てながら、階段を降りて行った。


「裕美、子供が熱出したって?」麻衣子は待ち合わせの喫茶店に現れるなり、そう言った。

「うん、メール来た」

「大変だよね……あ、私、アイスコーヒー」

 私達はもう十年来の友達だ。大学を出て、何とか就職したものの、OLの給料では生活が苦しく、居酒屋でバイトしていた。勤めている会社は違ったけれど、三人とも年齢も境遇も同じで仲良くなった。一年程バイトしていたが、区画整理で店が移転するのを機会に辞めた。

「久しぶりに会いたかったな……」心ない事を口にした。実は裕美が来られなくなった事にほっとしていた。

「そうね……」

 麻衣子の視線にドキリとする。麻衣子は昔からどこか鋭いところがある。

「まあ、でも子供の病気じゃ仕方ないじゃない」私は笑って頷いた。

 私は不倫している。

 もちろん二人には関係ない、会社の上司だが、それでも、今は裕美に会いたくない。結婚している彼女には、合わせる顔がない気がした。

「仕事どう?」

「まあ何とか」

「やるね、さすが主任」

「麻衣子だって店長じゃない」

「それでも現場よ?立ち仕事はいい加減辛い」

 麻衣子と話すのは楽しい。私達はまだ独身で一人暮らし。部下も出来て、責任は重くなったけど、やり甲斐も、給料も増えた。

 裕美は、三人の中で一番のんびりしていた。私と麻衣子が資格試験に躍起になっている時も

「私はお嫁さんになるからいいの」

 といい、二十六の時、本当にさっさと結婚してしまった。

 ふわふわのドレスを着て笑う裕美は、どこか愚鈍に見えた。

(自分の力で生きていけないんだね)そう思ったら、なんだか優越感を感じた。

「裕美のとこ、もうすぐ十年だね」

「そうだ……すごいよね」

「本当。危機っぽい事、聞いたことないもんね」

「麻衣子はないの?」

「何が?」

「恋バナ」

 麻衣子は秘密主義だ。特に恋愛に関して。それに昔から相談なんてしてきた試しがない。

「すぐ別れちゃうから……会うたび違う男の話してるの、格好悪いでしょ」そう言ってはぐらかす。三人の中で一番モテた。

「香奈はどうよ」やっぱり。

「私は……」

 話してしまおうか。迷った。

 課長は十歳年上だった。付き合い始めたのは半年前。不倫だが、半年前には既に離婚調停中で、慰謝料で揉め、裁判が長引いていた。

 もちろん今は秘密の関係だった。ストレスも溜まっている。

「残念ながら」

「本当にぃ?」

「本当だよ。あ、ねぇ、秋からハイウエストが流行るって聞いたんだけど……」

「そうそう。あれはね……」

 自分からはぐらかしてしまった。できれば誰かに打ち明けてしまいたいと思っていた。今朝、

『来月にも決着しそうです。そしたら、正式に結婚を前提に付き合ってください。決まったら、改めて申し込むので、考えておいて下さい』というメールが無ければ、麻衣子には話していただろう。

 鍋は、かたかたと音をたて始めていた。鍋肌から小さな水泡が表面に向かって立ち上る。まるで透明な藻が生えているようだ。


(どうして結婚を前提にしなくちゃいけないんだろう)

 確かに課長には充分な経済力がある。部下にも慕われている。顔も私好みの薄めの整った顔立ちだし、中肉中背で、白髪まじりの髪は薄くなりそうにはない。誠実で謙虚で優しい……恋人として一分の隙もない。

 課長の離婚原因は奥様の浮気だ。だが仕方ないと思う。仕事が佳境に差し掛かると、何日も帰れない事もある。まして部下思いとなると、家庭はかなりしわ寄せをくっていたはずだ。寂しくなって当然だろう。課長には子供はいない。

(子供いなくて仕事してなくて……毎日暇だろうな)

 麻衣子とは、仕事の話で盛り上がった。主に使えない部下と、頭の堅い上司の悪口だった。

「これから飲みにいかない?」

 二杯目のコーヒーを飲み終えた時に誘った。麻衣子は腕時計を確かめる。

「ごめん、裕美も来るはずだったから、遅くならないって思って予定入れちゃったんだ」

「仕事?」

「ううん。うちに彼が遊びに来んの」

「そう……なんだ。もう長いの?」

「一年くらいかなあ」

 麻衣子は淡々と彼の話をした。通っていたマッサージで知り合い、ナンパされ付き合いだした。バーテンダーで雇われ店長をしている。二つ年上で背はすらりと高いが麻衣子いわく、

「頭のあたりは少し早く歳をとってるみたいで、ちょっと淋しい感じ」らしい。

「秋には彼の実家に行く予定」と結婚を匂わせた。

「裕美の結婚十年のお祝い考えてなきゃね」

 喫茶店から駅に向かって歩く道すがら、裕美が結婚した頃の話になった。

「裕美が独身最後の夜遊びんときに、私には仕事に夢も才能もないから奥さんを頑張るって言ってたの、香奈覚えてる?」

「そんな事言ってたっけ?」

「言ってた、言ってた。しめのラーメン屋で。私その時、なんかものすごく優越感に浸ってたんだよね。私は裕美より能力の高い人間だぁみたいな」

「……」

「今は違う気がする。確かに仕事の能力は私の方が高かったかも知れないけど……裕美の方が、他人を愛する能力は遥かに高かった……」

麻衣子は複雑に顔を歪めていた。私には麻衣子の言っている意味がよくわからなかった。


(結婚前提じゃなく付き合っていられないかな)

 ぐつぐつと沸き上がった湯をカップに注ぐ。蓋がめくれ上がらないように箸を置いて押さえる。隙間から細く立ち上る湯気を眺める。

 頭の中に天秤が浮かぶ。左側には課長を乗せて、右側には今の生活を乗せていく。

 毎日が楽しい。

 仕事は充実している。

 週末には同僚と飲む。時には朝まで飲む。

 休みの日には友達と会ったり、一人でのんびりしたり、英会話に通ったり。

 秋には仕事関係の友達と旅行の予定がある。

 季節毎にバーゲンに行くようにしている。

 妊娠は怖い。

 子供は嫌い。

(真夜中にカップラーメン食べるのもきっとナシだよね)

 裕美ののんびりした顔がちらついて、罪悪感が加算される。天秤は音を立てて右側に傾き、皿の底が地面を叩いた。

「やっぱ、別れよう」

 押さえていた箸をのけ、紙の蓋を剥ぎ取ると、誰もいない部屋中に、ニンニクの匂いが広まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ