香奈
この小説は完全なフィクションです
小さな鍋でお湯を沸かす。
生のニンニクをスライスする。
カップラーメンがパッケージされているラップに爪を立てるが、上手く破れてくれない。
「もう」
包丁の先を、カップの底のへこみに突っ込み穴を開ける。
中からかやくとスープの袋を取り出して、麺の上に開け、ニンニクをのせたら、やる事がなくなった。
鍋を見つめて立ったまま、別れ際の麻衣子を思いだしていた。
高いヒールを履いて、改札をくぐり抜ける。崩れのない体型に、厭味ないお洒落。
(さすがアパレル)振り返って、見送る私に笑顔で手を振った。向き直ると、携帯電話を耳に当てながら、階段を降りて行った。
「裕美、子供が熱出したって?」麻衣子は待ち合わせの喫茶店に現れるなり、そう言った。
「うん、メール来た」
「大変だよね……あ、私、アイスコーヒー」
私達はもう十年来の友達だ。大学を出て、何とか就職したものの、OLの給料では生活が苦しく、居酒屋でバイトしていた。勤めている会社は違ったけれど、三人とも年齢も境遇も同じで仲良くなった。一年程バイトしていたが、区画整理で店が移転するのを機会に辞めた。
「久しぶりに会いたかったな……」心ない事を口にした。実は裕美が来られなくなった事にほっとしていた。
「そうね……」
麻衣子の視線にドキリとする。麻衣子は昔からどこか鋭いところがある。
「まあ、でも子供の病気じゃ仕方ないじゃない」私は笑って頷いた。
私は不倫している。
もちろん二人には関係ない、会社の上司だが、それでも、今は裕美に会いたくない。結婚している彼女には、合わせる顔がない気がした。
「仕事どう?」
「まあ何とか」
「やるね、さすが主任」
「麻衣子だって店長じゃない」
「それでも現場よ?立ち仕事はいい加減辛い」
麻衣子と話すのは楽しい。私達はまだ独身で一人暮らし。部下も出来て、責任は重くなったけど、やり甲斐も、給料も増えた。
裕美は、三人の中で一番のんびりしていた。私と麻衣子が資格試験に躍起になっている時も
「私はお嫁さんになるからいいの」
といい、二十六の時、本当にさっさと結婚してしまった。
ふわふわのドレスを着て笑う裕美は、どこか愚鈍に見えた。
(自分の力で生きていけないんだね)そう思ったら、なんだか優越感を感じた。
「裕美のとこ、もうすぐ十年だね」
「そうだ……すごいよね」
「本当。危機っぽい事、聞いたことないもんね」
「麻衣子はないの?」
「何が?」
「恋バナ」
麻衣子は秘密主義だ。特に恋愛に関して。それに昔から相談なんてしてきた試しがない。
「すぐ別れちゃうから……会うたび違う男の話してるの、格好悪いでしょ」そう言ってはぐらかす。三人の中で一番モテた。
「香奈はどうよ」やっぱり。
「私は……」
話してしまおうか。迷った。
課長は十歳年上だった。付き合い始めたのは半年前。不倫だが、半年前には既に離婚調停中で、慰謝料で揉め、裁判が長引いていた。
もちろん今は秘密の関係だった。ストレスも溜まっている。
「残念ながら」
「本当にぃ?」
「本当だよ。あ、ねぇ、秋からハイウエストが流行るって聞いたんだけど……」
「そうそう。あれはね……」
自分からはぐらかしてしまった。できれば誰かに打ち明けてしまいたいと思っていた。今朝、
『来月にも決着しそうです。そしたら、正式に結婚を前提に付き合ってください。決まったら、改めて申し込むので、考えておいて下さい』というメールが無ければ、麻衣子には話していただろう。
鍋は、かたかたと音をたて始めていた。鍋肌から小さな水泡が表面に向かって立ち上る。まるで透明な藻が生えているようだ。
(どうして結婚を前提にしなくちゃいけないんだろう)
確かに課長には充分な経済力がある。部下にも慕われている。顔も私好みの薄めの整った顔立ちだし、中肉中背で、白髪まじりの髪は薄くなりそうにはない。誠実で謙虚で優しい……恋人として一分の隙もない。
課長の離婚原因は奥様の浮気だ。だが仕方ないと思う。仕事が佳境に差し掛かると、何日も帰れない事もある。まして部下思いとなると、家庭はかなりしわ寄せをくっていたはずだ。寂しくなって当然だろう。課長には子供はいない。
(子供いなくて仕事してなくて……毎日暇だろうな)
麻衣子とは、仕事の話で盛り上がった。主に使えない部下と、頭の堅い上司の悪口だった。
「これから飲みにいかない?」
二杯目のコーヒーを飲み終えた時に誘った。麻衣子は腕時計を確かめる。
「ごめん、裕美も来るはずだったから、遅くならないって思って予定入れちゃったんだ」
「仕事?」
「ううん。うちに彼が遊びに来んの」
「そう……なんだ。もう長いの?」
「一年くらいかなあ」
麻衣子は淡々と彼の話をした。通っていたマッサージで知り合い、ナンパされ付き合いだした。バーテンダーで雇われ店長をしている。二つ年上で背はすらりと高いが麻衣子いわく、
「頭のあたりは少し早く歳をとってるみたいで、ちょっと淋しい感じ」らしい。
「秋には彼の実家に行く予定」と結婚を匂わせた。
「裕美の結婚十年のお祝い考えてなきゃね」
喫茶店から駅に向かって歩く道すがら、裕美が結婚した頃の話になった。
「裕美が独身最後の夜遊びんときに、私には仕事に夢も才能もないから奥さんを頑張るって言ってたの、香奈覚えてる?」
「そんな事言ってたっけ?」
「言ってた、言ってた。しめのラーメン屋で。私その時、なんかものすごく優越感に浸ってたんだよね。私は裕美より能力の高い人間だぁみたいな」
「……」
「今は違う気がする。確かに仕事の能力は私の方が高かったかも知れないけど……裕美の方が、他人を愛する能力は遥かに高かった……」
麻衣子は複雑に顔を歪めていた。私には麻衣子の言っている意味がよくわからなかった。
(結婚前提じゃなく付き合っていられないかな)
ぐつぐつと沸き上がった湯をカップに注ぐ。蓋がめくれ上がらないように箸を置いて押さえる。隙間から細く立ち上る湯気を眺める。
頭の中に天秤が浮かぶ。左側には課長を乗せて、右側には今の生活を乗せていく。
毎日が楽しい。
仕事は充実している。
週末には同僚と飲む。時には朝まで飲む。
休みの日には友達と会ったり、一人でのんびりしたり、英会話に通ったり。
秋には仕事関係の友達と旅行の予定がある。
季節毎にバーゲンに行くようにしている。
妊娠は怖い。
子供は嫌い。
(真夜中にカップラーメン食べるのもきっとナシだよね)
裕美ののんびりした顔がちらついて、罪悪感が加算される。天秤は音を立てて右側に傾き、皿の底が地面を叩いた。
「やっぱ、別れよう」
押さえていた箸をのけ、紙の蓋を剥ぎ取ると、誰もいない部屋中に、ニンニクの匂いが広まった。




