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19「思ったより早かったね」


 その途中、この街には馴染み深い水音が聞こえた。

 小路の暗がり、絡み合う二つの影が見える。二人は抱き合い、口づけを交わしていた。それぞれの振袖が擦れあう様はまるで、蝶の交尾を思わせる。

 女は壁に押し付けるようにして、相手の口を執拗に吸っていた。相手の黒髪をわしづかみ、角度を変え、何度も深く舌を挿し入れる。

 そのうちに相手は嫌気がさしたのか、女の肩を押して体を離した。名残惜しげに手を伸ばす女の手を叩き落とす。

 仕方無しといった様子で女は離れた。女は体の影で隠れる位置で何かを受け取り、一言二言言葉を交わして踵を返す。

 すれ違う紫呉を気にもとめず、女はふらふらと表の通りへ歩んでいく。すれ違いざま、甘いような青臭いような、独特の香りがした。先程南方で嫌ほど嗅いだ香りだった。

「覗き見とか趣味悪いよ」

 女の紅が移った唇を手の甲でぐいと拭い、壁に背を預けたままの浅葱が言った。服装は先程と変わり、薄くだが化粧もほどこしていた。

「別に覗くつもりはなかったのですがね。あなたの情人ですか?」

「あんたも物覚えが悪いよね。ぼくからタダで情報買おうっての? 知りたけりゃ出すもん出しなってば」

 華美な振袖姿である事にも関わらず、浅葱は不遜な調子で腰に手を当てて、フンと鼻を鳴らした。

「にしても、無傷なんだ? へーえ、なかなかやるもんだね」

 浅葱は悪びれたそぶりをちらとも見せず、唇を弓なりに曲げて笑う。

「お褒めに預かり光栄です」

「あれ、もしかしてさっきのこと怒ってんの? ごめんねえ。ほら、ぼくも仕事だからさ」

 わざとらしく媚びた声で言い、浅葱は甘えた仕草で紫呉の手を取った。ひやりとした手の温度は、一瞬だけ夏の暑さを忘れさせてくれた。

 浅葱に会えば、嫌味の一つでも言ってやろうと思っていた。だが目の前で笑う浅葱はいつも通りすぎて、そんな子供じみた真似をするのをためらわせた。

「……怒っているというよりも、己の甘さに呆れました」

 確かに、浅葱の言う通りなのだ。浅葱は仕事をしただけだ。分かっている。裏切られた、など思う紫呉が馬鹿で甘いだけだ。

「何いまさら言ってんのさ。あんたは甘いよ。甘すぎて、反吐が出るくらいだ」

 ハ、と嗤って、浅葱は紫呉の手を振り払った。その手には、以前会った際に見えた傷は無い。紫呉の渡した薬が効いたのだろうか。

「怪我、マシになったようですね」

「……ほんっと、あんたって腹立つよね」

 浅葱は舌を打ち、憎々しげな様相で顔を背けた。

「いまさら薬返せったって返さないよ?」

「言いませんよ。あれはあなたに差し上げたものです」

「ならまあ、良いけどさ」

 興ざめだ、と言いたげな顔で浅葱は息を吐く。

「で? あんたが今ここにいるってことはさ、あいつらはどうなったんだよ」

「教えません」

「あっは、ちょっとは利口になったみたいだね」

「槙は死にましたよ」

「……へえ」

 くつくつと肩を揺らして笑っていた浅葱だが、紫呉の告げた事実に目を丸くして見せた。

「薬物の中毒症状のようでした」

 と、紫呉は先程の女が去っていた方をちらりと見やる。

「……へえ、そう。良い金ヅルだったんだけどな」

「……浅葱も、しているのですか」

 何を、とは言わなかったが、浅葱は察したようだった。

「しちゃいないさ。阿片はただの手段だ。金と情報を得る為のね」

 それを聞いてほっとした。浅葱も槙のように、中毒で突然死にやしないかと心配に思っていたのだ。

 そう思っていた事に、紫呉は自分自身僅かなりとも驚いた。どうやら自分は思っていた以上に浅葱の事を気に入っているらしい。

 く、と喉を鳴らした紫呉を、浅葱は不審げな顔で見てくる。

「何だよ」

「いえ。……手下の二人も、もしや中毒なのでしょうか」

「さあね」

「僕は薬物の類が嫌いでしてね。もしもそうなら、手遅れになる前に止めてさしあげたいのですよ」

 適当な嘘を並べ立て、紫呉は浅葱に蒼貨を握らせた。

「どこに行けば会えるか、ご存知ですか?」

「……あいつらがぼくに会いにきた時は、華芸町の話をしていたよ。家賃もっと安くならねえもんか、とかね」

「ありがとうございます」

 家賃の話、という事は、ねぐらは華芸町である可能性が高い。それを知れただけでも、蒼貨をはたいた甲斐がある。

 浅葱は受け取った蒼貨を親指で弾き上げ、ぱしんと握りこんだ。

「まいどあり。これからもご贔屓に」

 そのぞんざいな扱いを不思議に思った。金銭に執着しているくせに、さして大事には思っていなさそうだ。

 守銭奴、という印象を抱いていたのだが、何となくその言葉は浅葱に似合わない気がした。

「高いよ」

 考えている事が目に映ったのか、浅葱は紫呉が何か言う前にそう言った。

「仮にあんたの身をぼくに売っぱらったところで、それは教えやしないさ」

 紫呉を覗きこむようにして、嗤う。

「じゃあね、翔太サン」

 振袖をひらりと翻し、浅葱は小走りに去って行く。

 その背が夜闇に消えるのを見送り、紫呉は華芸町へと続く十五橋を目指した。

 まだ夜は始まったばかりだ。辺りは街の奥を目指す人々で溢れている。その流れに逆らい、紫呉は歩く。

 浅葱はいったいどこまで紫呉の事を知っているのだろう。もし仮に紫呉が如月の血に連なる者だと知っているのなら、それは事だ。

 青官長の子である雪斗や紗雪に知られるのとは違う。二人は青官長自身が目を光らせているし、紫呉たちとも交流が盛んだ。目も配りやすい。それに信を置いている。

 だが浅葱は、金次第で敵にも味方にもなる。

 仮に紫呉が何者かを知っていると仮定しても、浅葱とて馬鹿ではない。紫呉が如月紫呉だと知っているなら、その情報を売る恐ろしさも知っているはずだ。だからきっと知っていたとしても、口外はしないだろう。

 それならば良いのだ。浅葱を斬る必要は無い。そんな破目になるのはごめんだ。

 それにしても、情報屋と軽々しくつながりを持った己の浅はかさを詰りたい気分だ。それとも、腕利きを捜し当てた己の目を褒めるべきだろうか。

 橋を渡れば、途端に夜が深まったようだ。華芸町に香具師たちの姿はすでになく、夜闇の底にしんと静けさが落ちている。

 向こう岸から聞こえる三味の音、嬌声、笑い声。岸辺の柳が夏の風に揺れ、こちらに来いと手招きしている。

 紫呉は一つくしゃみをした。脂粉に阿片、普段はあまり接する事のない香りに、鼻の奥がむずむずする。

 鼻をぐずらせながら、紫呉は欲の街に背を向けた。

 さて、昭夫たちはどこにいるのだろうか。華芸町をねぐらとしているだろう事は分かったのだ。この付近にいる可能性は高い。

 壱班に応援を呼びに行こうか。範囲は絞られたにせよ、一人で歩きまわるにはやはり広い。自分が蒔いた種なのだから自分で刈り取りたいが、捕縛するにはそんな考えは邪魔にしかならない。

 よし、と頷く。壱班への道筋には香具師たちが多く住まう長屋もあることだ。その付近に目を注ぎつつ行く事にしよう。

 しかし夜の華芸町に人の気配は無い。周囲に目を配るものの自分以外に道を行く者は無く、遠くに聞こえる愛染街の華やぎが妙につぶさに感じられた。

 そういえば、雪斗の住まいもこの辺りだったか。

 次に会う時は、涼を感じさせる菓子でも持っていこうか。主食を買えぬほどに雪斗の懐は逼迫していない。しかし贅沢はひかえて暮している。特に菓子などの嗜好品は切り詰めているらしい。手土産に菓子を持参すると、喜んでくれる。

 雪斗が喜んでくれるのは嬉しかった。一緒に楽しんでくれるのも嬉しい。そして同時に、心のどこかに引っかかりを覚える。

 楓に言われた。

 何故こんなに簡単に人を殺せるのだ。

 そのくせどうして、お前は普通に暮しているのだ、と。

 楓に言われるまでもない。刀を手にしてからずっと、自問してきた問いだ。

 それでも、求めてしまう。手を伸ばしてしまう。欲してしまう。どうしようもない。

 嘆息する。それでどうにかなるわけでもないが、自然と息が漏れてしまった。

 もう雪斗は眠っているだろうか。まだ夜は更けていないが、不規則な生活をしている男だ。彼の生活様式は掴めない。

 ちょうど、雪斗の住まう長屋の前に差し掛かった時だ。

 ふ、と独特の臭気が鼻を掠めた。

 嗅ぎなれたにおいだった。生臭く鼻をつく、鉄錆のような。

 汗が滲む。まさかと首を振る。遠くに笑い声が聞こえる。乾いた唇を舐めて湿す。

 だが、そのにおいは近づくにつれ濃度を増していく。

 長屋の戸に手をかけた。夏であるというのに背が冷たい。

 そろりと、戸を引く。

「雪斗」

 名を呼んだ。

 返る声は無い。

 雪斗は部屋の中央に伏していた。その側にはいつもと変わらず嬢や坊の姿と、傀儡の衣装がある。

 ただ、雪斗の腕から流れる血だけが、異質だった。

「思ったより早かったね」

 背後から声がした。

 振り返る。

 彼の、蜜色をした髪が風に揺れていた。紅緋の目が、紫呉を見ている。

 まるで燃え盛る、紅い炎のような。


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