俺だけが聴いていた歌
子どものころ、知らない言葉を、知らないままにしておくのが苦手だった。
といっても、すぐ辞書を引くような子どもではない。
聞き取れなかった音や、意味の分からない言葉を、自分の知っている単語や景色につなぎ合わせて、勝手に辻褄をつけていたのだ。
英語の歌も古文も、俺の耳に入った時点で、少し別の物語になっていた。
たとえば、いろは唄。
「色は匂へど、散りぬるを。我が世誰ぞ、常ならん。有為の奥山、今日越えて。浅き夢見し、酔ひもせず」
本来は、この世の無常や、迷いからの目覚めを歌ったものらしい。でも中学生の俺に、そんな知識はなかった。
俺は「我が世」を、この世全体ではなく、文字どおり「私の世界」だと思っていた。
現実に確かに存在するものも、私の世界には永久にとどまらず、いつか散っていく。
遠い山の向こうには明日があり、私は今日と明日のあわいで、浅い夢にまどろんでいる。
そんな歌に聞こえた。
たった一語の受け取り方が違うだけで、悟りの歌は、個人的な喪失と時間の歌になった。
英語の歌でも、同じことをしていた。
Virginelleの「Fantasy」では、“played”を“prayed”だと思い、“you’re only mine”を“your only mind”だと思っていた。
文法として考えれば、かなり無理がある。
けれど当時の俺の耳には、そう聞こえてしまった。
本当の歌詞を読めば、そこにいるのは、相手を翻弄し、自分だけのものにしようとする女性なのかもしれない。
ところが俺の中では、彼女は誰かの心のそばで祈り、その内面を美しい旋律のように聴いている人だった。
俺は十五年近く、少し危うい恋の歌を、勝手に癒やしの歌として聴いていたことになる。
Stevie Nicksの「Edge of Seventeen」もそうだった。
“white-winged dove”は“light window”のように聞こえ、“sings a song, sounds like she’s singing”は、“sing song, sunrise, singing”のように耳に残った。
だから俺の中にあったのは、白い翼の鳩が鳴く情景ではなかった。
光の差し込む窓があり、その向こうから朝日が昇り、朝がまるで歌っている。
そういう歌だった。
後になって正しい歌詞を知ったとき、少し寂しかった。
昔の俺が聴いていた歌が、正解に上書きされて消えてしまうような気がしたからだ。
けれど、実際には消えなかった。
今では、白い翼の鳩も聞こえるし、光の窓と朝日も聞こえる。
気分によって、本来の歌詞にも、自分だけの歌詞にも切り替えられる。
さらに二つを重ねれば、白昼夢のような朝の光の中で、白い翼の鳩と少女が一緒に歌い始める。
一曲だったものが二曲になり、最後には、その二曲が重なった第三の曲まで生まれた。
「Fantasy」も同じだ。
相手を翻弄する女性と、相手の心のために祈る女性。
どちらか一方ではなく、誰かを傷つけるほど強く求めながら、本当は救いたいとも願っている人として聴くことができる。
正しい歌詞と間違った歌詞が重なることで、かえって人物が複雑になった。
昔の俺は、歌詞を間違えていた。
けれど、ただ間違えていたわけではない。
分からない言葉を、自分の持っている語彙と感覚だけで、必死に翻訳していたのだと思う。
そこで生まれた誤読が、何十年もたって、今の俺に隠しトラックとして届いた。
振り返ってみると、そこには、当時の俺が好んでいた景色がよく表れている。
祈り。
窓。
朝の光。
まどろみ。
誰かの心に耳を澄ませること。
そして、自分の世界から人が静かに去っていくこと。
昔の俺にしか聴けなかった歌を、今の俺は本当の歌と一緒に聴いている。正解を知って、一曲を失ったわけではない。昔の俺が残してくれた歌が加わって、一曲が三曲になった。
i only played as ever with your heart
i only prayed as ever with your heart
i only p-ayed as ever with your heart




