Episode1:チャオプラヤ川氾濫
【Episode 1 チャオプラヤ川氾濫】
空が、腐っていた。
雨季の末期。青黒い雲の底で、雷が無音のまま痙攣している。一拍遅れて、腹の底に届く。そういう色をした空の下を、オレンジとネイビーのブラックホークが、紙飛行機のように煽られて飛んでいた。
コールサイン、ガーディアン・ワン。タイ王国統合即応救難司令部直轄第9特殊救助隊——通称SKY GUARDIAN。軍の広報用PR部隊として看板を掲げながら、その実、規律に問題のある連中が吹き溜まる掃き溜め部隊だ。
ローターがひと掻きするたび、金属が悲鳴を上げた。
機内の臭いは、ひどい。
燃料のJP-8、濡れた救難服のカビ、男たちの汗。基地のクリーニングに三回出しても抜けない、この部隊の体臭だった。
「……クソッ、押し戻される……!」
操縦桿を握るピーラット大尉の指が、蝋色になっていた。
三十代、空軍エリート一家の四男坊。名家のパーティーでシャンパンを捧げ持つべき端正な横顔が、計器盤の緑色のバックライトに照らされて強ばっている。制服のアイロンはこんな泥の現場に飛ばされる朝でもきっちり利いていた。
「アリン、これ以上は下がれん」
「下げろ」
「ローターが立ち木を叩いたら、俺たちは豚の餌だぞ」
「豚も拒否するわ、お前の泥だらけの脛なんて」
アリンは開放されたスライドドアの縁に片膝をついていた。185センチの長身が、機体が煽られるたびに大きく揺れる。
アリン・チャイプラシット曹長、二十九歳。父は日本人、母はウクライナ人。タイで生まれ、タイで育った。灰色の瞳と、くすんだ金髪。高い鼻梁に深い眼窩。見た目は完全に外国人だが、口から出るのはイサーン訛りの濁った土方タイ語だ。タイの日差しに焼かれ続けた肌は、本来の白さを失って赤茶けている。その顔が、眼下の屋根瓦を睨んだまま、一度も瞬きをしない。
下にあるのは、濁流の中に首だけ突き出した木造住宅だった。
茶色く見えるが、あれは水ではない。水牛の糞、下水、農薬、死んだ野犬、流出したガソリン、そして恐らく何人かの人間の腐りかけが、全部まとめて煮込まれた粘り気のあるスープだ。ここまでは臭わない。降りれば、口の中が粘つくことをアリンは知っていた。
インカムに、指揮所のウィチット中佐が割り込んだ。
『アリン、戻れ』
中佐の声は、いつも通り事務的だった。五十代半ば、小柄だが鋼のような男。彼が感情を声に乗せるのは、大抵、誰かの葬式のあとだ。
『風速は運用限界を二割超えてる。生存反応はゼロだ。地盤が崩落するまで、三分切った』
「中佐」
アリンは屋根瓦を睨んだまま、無線に声だけ乗せた。
「あそこに、います」
『根拠は?』
「母親の最後の足跡です」
沈黙。
三秒。
アリンは続けた。
「流木が北東から突っ込んで、台所をもぎ取っていきました。南壁は崩れてる。でも真ん中の梁はまだ生きてる。こういう時、子供を抱えた母親が取る選択肢はひとつしかない」
アリンは胸のカラビナを、掌でなぞった。
「抱えて走るには遅い。二階に上がれば屋根ごと浮く。地下はない。——床下収納に子供を突っ込んで、自分は蓋の上に覆い被さる。水圧で蓋が開かないように、体重で押さえる」
インカムの向こうで、誰かが息を吸った。ヌイ伍長の呼吸音だ。二十代前半の通信兵、髪を短く刈り上げた小柄な技術屋。タブレットを叩く指だけは驚くほど速いが、声は控えめだ。
「中佐。東側の屋根瓦が三枚だけ、泥の流れ方が違う。あの下に空洞がある。母親が最後に空気溜まりを作ったんです」
『……三分で崩れる』
「一分で十分です」
中佐は、もう止めなかった。
『サコーン、ウィンチ行け』
『はい、中佐』
サコーンがビンロウの葉をもう一度噛み、赤茶けた唾液をジュラルミンの床に吐き捨てた。五十代、勤続三十年。節くれ立った大きな両手に、幾度もの現場で刻まれた皺。口の中が常に赤いのは、ビンロウを噛み続けているせいで、口角には紫がかった染みが残っている。見た目の動きは緩慢だが、この男がウィンチのレバーに指をかけた瞬間だけは、指先が精密機械になる。
油圧ポンプの低い唸りが、キャビンの床を通してアリンの膝に伝わった。
「チャイヤ」
アリンはメディックを振り返った。
「医療パックは——いや、いい。防水布を広げて待ってな」
「言われんでも分かってる」
チャイヤ軍曹は既に、銀色のサバイバル・ブランケットを膝の上で畳み直していた。
二十代後半、元ムエタイ選手。中肉中背だが、全身にムエタイで鍛え上げた鋼のような筋肉が鎧のように張り付いている。鼻梁は現役時代の打撃でわずかに曲がっていた。言葉が少ない男だ。超合理主義者で、アリンの「死者まで連れて帰る」やり方とは、いつもどこかで衝突する。
だが今、チャイヤの手は無駄なく動いていた。
どんな結末になってもそれを受け入れる準備ができている男の瞳と、それでも手を動かし続ける職業的な律義さが、同じ顔の中に同居している。
「……今日は、連れて帰れそうか?」
チャイヤが、低く訊いた。
「さぁな」
アリンは、口角を片方だけ上げた。
「連れて帰るよ。生きてても、死んでても」
チャイヤは、何も言わなかった。ただ、目を伏せただけだ。
アリンは腰のハーネスを両手で強く引いた。
テンション、良し。
ナイフ、右太腿。止血帯、左の大腿内側。予備カラビナ、胸の二連。
「行くぞ!」
ピーラットが機体を滑らせ、ホバリングへ入った。
前進速度がゼロになった瞬間、機体から「余裕」が消えた。ヘリは今、自分自身のダウンウォッシュが作った乱気流の真ん中に座り込んで、ローターだけで四トン半の鉄塊を空中に吊り下げている。コレクティブ・レバーはほぼ最大、エンジントルクは九四パーセント。ピーラットの左手が、レバーの上で微細に震えている。
「……ホバリング、安定。高度四十フィート。風、右前方から息つぎあり」
ピーラットの声から、感情が完全に抜け落ちていた。
「降下、許可!」
サコーンがアリンのハーネスにフックを叩き込んだ。二重ロック。
カチリ、カチリ。
二つの金属音。
「……三分だ、ファラン」
サコーンが歯の隙間から、囁くように言った。
「それ以上は、俺の腕がもっても、このワイヤーが熱でもたん。三分で戻ってこい」
「一分で十分ですよ、サコーンさん」
アリンは、不敵に片方の口角を上げた。
「メシの時間に遅れたら、あんたに俺のガパオまで喰われちまう」
「……抜かせ」
サコーンが、口の中でビンロウを鳴らしながら、顎で下をしゃくった。
アリンは、身体を機外へ投げ出した。
ダウンウォッシュが首筋を真下へ叩きつけてくる。熱風と冷雨が混ざった、気温も方向も滅茶苦茶な風が、耳の穴と襟元と、救難服のあらゆる隙間に一斉に侵入してきた。
瞼を開けていられない。
アリンは顎を引き、バイザーを下ろし、両手でワイヤーの動きを感じ取った。
五メートル。
三メートル。
屋根瓦に、ブーツの爪先が触れた。
瓦の表面に積もった苔が、雨と泥で滑る。
次の瞬間、両足首が、泥の中に吸い込まれた。
氷のような冷たさと、猛烈な水圧。
水面下は、想像より深い。
膝。腰。そして胸まで、一瞬で沈んだ。
「……ッ、深えな」
口に入った泥水を吐き捨てる。ガソリン混じりの、口の粘膜にへばりつく味。吐きそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
頭上でブラックホークが咆哮している。ダウンウォッシュに叩かれた濁流が、アリンの周囲で小さな渦を作っていた。
視界、ほぼゼロ。
聴覚、ローター音で潰れている。
残るのは、指先の感覚と、父から叩き込まれた、現場を読む筋肉の記憶だけだった。
胸まで沈んだアリンは、一度、深く息を吸った。
口に入るのは、泥と、ガソリンと、腐った何かの味。奥歯の裏にへばりつく。普通なら吐く。この部隊二配属されて最初の半年はアリンも吐いていた。三年目で吐かなくなった。五年目の今は、味の種類で川の状態を読む。
——上流で、燃料タンクがひっくり返ってる。
JP-3じゃない。ディーゼルだ。農協の発電機タンクか、小型トラクターか。火種がなければ引火はしない。だが粘膜を焼く。目は開けない方がいい。
アリンはバイザーの下から、目を細く開けて周囲を探った。
ブラックホークのサーチライトが濁流の表面を斜めに撫でている。その反射光の向こうに、屋根瓦の稜線が見えた。距離、三メートル。
ウィンチのワイヤーが、ピンと張ったまま真上へ伸びている。
「サコーンさん。水面下、一・五メートル。屋根まで距離三」
『……聞こえてる、ゆっくり行け』
インカムの声は、水を通すと薄く聞こえる。ヘルメットの中、骨伝導のマイクだけが辛うじて機能している状態だ。
アリンは、片手でワイヤーに張力をかけ、身体を引き寄せるようにして屋根の稜線に取り付いた。
濡れた瓦。
爪先が滑る。
次の足の置き場を決める前に、瓦が一枚、ずるりと外れて濁流に消えた。
「……っ、くそ」
アリンは体勢を立て直し、屋根の棟木を跨ぐようにして、瓦の上に四つん這いになった。膝と肘で体重を分散する。
東側、三枚だけ流れが違っていた場所。
指先で瓦を一枚、剥がした。
その下に、薄い木板。
更にその下は——暗い空洞。
——ビンゴ。
空気が、かすかに吹き上がってくる。温かい。誰かの呼吸がまだ残っている温度。
「チャイヤ」
『聞いてる』
「空気溜まりを確認。生きてるかもしれん」
『……ゼロじゃないのか』
「サーマルは腐りかけの水牛でも反応する。生存反応ゼロってのは、見つからなかったってだけだ」
『……続けろ』
アリンは腰のナイフを抜き、木板をこじった。
板は、釘が濡れて膨張していた。一枚目、二枚目、三枚目。四枚目で、刃先が何かに当たった。
金属じゃない。
木でもない。
布の、柔らかい抵抗。
アリンは手を止めた。
——人の背中。
アリンは板をもう一枚剥がし、暗闇に右腕を肩まで突っ込んだ。
指先が、濡れた布に触れる。
更にその下——皮膚。
冷たい。
水温より、更に低い冷たさだ。
アリンは、その背中をゆっくりと撫でた。肩甲骨の位置。大人の女。俯せ。両腕を、身体の下に畳むようにして、何かを抱え込んでいる。
「……いるか、母ちゃん」
アリンは呟いた。返事はない。
返事があるとは、最初から思っていない。
だがアリンは現場に降りた瞬間から、相手を「遺体」と呼ばないことにしている。呼んだ瞬間に手の動きが雑になるからだ。握り方、支え方、指の力の入れ方。人は自分が何を扱っているかで、無意識に動きを変える。
この女はまだ母親だ。
だから、アリンは母親に話しかける。
「娘さんは下か?」
指先を母親の腹の下へ滑り込ませる。
——いた。
細い腕。子供の細い腕だ。
手首の脈を探る。指先に集中する。水圧でほとんど何も感じない。アリンはグローブを脱ぎ捨て、素手でもう一度触れた。
……。
……あるか?
あるのか?
アリンは、息を止めた。
自分の心臓の音が邪魔をする。それを奥歯で噛み殺し、指先の三点——橈骨動脈の上——にだけ、意識を集める。
——トクン。
遠い。
一度。
また、沈黙。
……トクン。
脈はあった。
恐ろしく、遅い。
「……チャイヤ」
アリンの声が、微かに震えた。
「脈がある。微弱、極端な徐脈。体温は低下しきってる」
『……マジかよ』
チャイヤの声が、初めて上ずった。
『何歳だ』
「小学生くらいだ。痩せてる」
『低体温反射で、心拍が落ちてる可能性がある。引き上げろ!!急げ!!防水ブランケットと温生食を用意してある!!』
「母親が——」
アリンは、そこで言葉を切った。
娘の細い手首を握ったまま、母親の方の腕を探った。
母親の両腕は娘を抱え込んだまま、胸の前で組まれていた。指が娘の背中側で固く組み合わさっている。
死後硬直だ。
だが、それだけじゃない。
母親の腕は床下収納の梁に挟まれていた。
——上から。
アリンは、顎を引いた。
上から何かが落ちてきて、母親の背中を梁ごと押し潰している。母親はその一瞬、娘を自分の腹の下に抱え込み両腕で守った。
そして、そのまま動かなくなった。
母親の身体は――娘の「屋根」になっていた。
『アリン、時間だ』
サコーンの声がインカムに割り込んだ。
『ワイヤーが発熱してる。……残り、九十秒』
「……サコーンさん」
「なんだ」
「母親の腕が娘に絡まってる。梁と自分の体重で固まってる」
サコーンは、一拍黙った。
そして、ため息のような声で静かに言った。
『……切れ、アリン』
「……」
『切らなきゃ、両方置いてくことになる』
アリンは、目を閉じた。
一瞬だけ。
母親の指が娘の背中で、ぎゅっと組まれたままだった。
最後の一瞬、この指は何を信じていたのか。
誰かが来ると信じていたのか。
それとも、誰も来ないと知っていたのか。
知っていて尚、この指を組んだのか。
——考えるな。
アリンは奥歯を噛んだ。
今は手を動かす時間だ。
考えるのは飛行機の中でやる。基地に帰ってからやる。報告書の前でモニターの光を浴びながら、何時間でもやればいい。
今じゃない。
アリンはナイフを持ち直した。
右手で母親の左手首——娘の背中側で組まれているその関節。
切る、というより、外す。
刃先を手首の腱の隙間に当てる。死後硬直した筋肉は生きている筋肉より硬い。刃は一度、跳ね返った。
「……すみません、お母さん」
アリンは囁いた。
「ちょっとだけ、痛いです」
刃先を今度は強く、関節の隙間に押し込んだ。
ゴリッと骨に沿う感触。
母親の左手首が、娘の背中から離れた。
アリンはすぐには右手に移らなかった。左手首を一度、自分の胸ポケットに——救難服の防水内ポケットに——そっと、差し込んだ。
「置いてきません。必ず一緒に連れて帰ります」
どうせ、ここから上には運べない。
本流が来ればこの家ごと濁流に持っていかれる。母親の身体は、ほぼ確実に見つからなくなる。
だから、せめて指先だけでも。
娘の元に返す。
アリンは、同じ作業を右手首にも繰り返した。
今度は迷わなかった。
刃先が一度で関節を割った。
ゴリッ。
母親の両腕から娘が外れた。
アリンは、娘の身体を泥の中から引きずり出した。
軽い。
水を含んで倍の重さになっているはずなのに、それでも軽かった。
六歳か、七歳。頬が泥で黒い。唇が紫色をしている。瞼は閉じていた。
アリンは、娘の小さな口元に自分の頬を寄せた。
——かすかに、あった。
息が。
本当に、かすかに。
「生きてる!!」
アリンは、インカムに叫んだ。
「生きてる!チャイヤ、温生食と保温、急げ!」
『——っ、了解!!上げろ、サコーン、上げろッ!!』
チャイヤの声が、初めて、感情を剥き出しにした。
『アリン、上がるぞ掴まれ!』
サコーンの野太い声。
アリンは、娘の小さな身体を自分の胸に引き寄せ、タクティカル・ベルトで自分の胴に固く固定した。母親の両手首は内ポケットの中。
頭上からワイヤーが引き上げられる衝撃。
アリンの足が泥から引き抜かれた。
その直後だった。
『——本流来るッ!!』
ヌイの悲鳴のような声。
アリンの真下、百メートル上流で堤防の残存部が崩れた。
腹に響く重低音。
壁のような茶褐色の水が周囲の立ち木をマッチ棒のようになぎ倒しながら、凄まじい速度でこちらへ迫ってくる。
「サコーンさん——ッ!!」
『黙ってろ、ファラン!』
サコーンの声が、怒号になった。
『捕まってろ!!』
ウィンチ・モーターが、悲鳴を上げる。
アリンの身体が、娘ごと垂直に引き上げられた。
G(重力)が、娘の体重を倍に変える。ベルトがアリンの脇腹に食い込み肋骨が軋んだ。
本流がアリンがさっきまで立っていた家屋の屋根を飲み込んだ。
屋根瓦が粉々に砕けて、茶色い水龍の胃袋の中へ消えていく。
母親の身体も……あの家の中心で粉砕されていく。
アリンの内ポケットの中で、母親の両手首だけが娘の方へ——娘の方へと運ばれていた。
「上昇!! 上昇!!」
ピーラットが叫んだ。
ブラックホークが、急上昇を開始する。
アリンの足の下、濁流の表面が遠のいていく。
娘の頭が、アリンの肩に預けられていた。
泥まみれの頬。紫の唇。凍えるような冷たさ。だが、その小さな肺は確かに一定のリズムでアリンの胸を押し続けていた。
「……大丈夫だぞ、お嬢ちゃん」
アリンは空中で激しく揺れながら、娘の背中を寝かしつけるように大きな掌で何度も叩いた。
「お母さんも一緒だ。一緒に帰ろうな」
ブラックホークのキャビンに引き上げられた瞬間、アリンの視界が一度、白く飛んだ。
脇腹に食い込んだベルトの痛み。肋骨の軋み。水を吸った救難服の凄まじい重さ。全身の筋肉が引き攣けたように硬直している。
だが、胸に抱えた小さな体温だけは離さなかった。
「確保!!」
チャイヤがアリンの襟首を両手で掴み、キャビンの奥へと強引に引きずり込んだ。
ムエタイで鍛えた鋼の腕が、アリンを濡れた布切れのように引っ張り上げる。
「ピーラット、上昇ッ!! 離脱!!」
『上昇中ッ!!』
ブラックホークの機首が一気に持ち上がった。
機体は傾いたまま、急角度で高度を取っていく。キャビンの床のジュラルミンが重力に押されて軋む。
アリンは娘の身体を自分の胸から剥がすように外し、チャイヤが広げていた防水ブランケットの上に慎重に横たえた。
「低体温だ。脈、微弱、極端な徐脈。瞳孔はまだ見てない。呼吸あり、ごく浅い」
アリンは、早口で伝えた。
チャイヤはもう答えなかった。
手だけが動いている。
まず、娘の濡れた衣服をナイフで一気に切り裂いた。背中から胸、腕、脚まで縫い目を無視して容赦なく。冷えた濡れた布は体温を奪い続ける。一秒でも早く剥がす。それが先だ。
剥がした布を機外へ投げ捨てる余裕はない。チャイヤはぼろ布をそのまま自分の肘で機外側へ押しやり、乾いたサーマルブランケットを娘の胴体に被せた。銀色のシートがキャビンの暗がりの中で鈍く光る。
「アリン、頭側を持て。顎を引かせて気道確保」
「ああ」
アリンは娘の後頭部を両手で支えた。
六歳か、七歳か。髪の毛が泥と血で固まっている。耳の後ろに小さなホクロがあった。
娘の顎をわずかに持ち上げる。
気道は通っていた。
「呼吸は維持してる。弱いが」
「温生食を流すぞ」
チャイヤはキャビンの側壁に固定されていた保温ボックスから、輸液パックを引き抜いた。生理食塩水は三十八度に温めてある。通常、輸液は点滴で静脈から入れる。だが低体温の末梢血管は収縮しきっていて、針が刺さらない。
チャイヤは迷わなかった。
娘の左腕、橈骨動脈の真下——手首の骨——にドリルの先端を当て引き金を引いた。
骨を穿つ、歯科医の電動ドリルのような音。
骨髄内輸液(I/O)。
骨の中に直接輸液を叩き込む。末梢血管が潰れた低体温・ショック状態の患者に救命救急で使う、最後の手段だ。
チャイヤの手際は無駄がなかった。針を刺し、シリンジで骨髄の逆流を確認し、温生食ラインを接続する。この一連の動作を機体が揺れ続ける中で、十五秒で終えた。
「入った」
チャイヤの声は、いつもの冷たいトーンに戻っていた。
「アリン、モニター取れ」
「ああ」
アリンは娘の胸に電極パッドを貼り付けた。チャイヤがスイッチを入れる。小型モニターに心電図の波形が浮かび上がった。
極端な徐脈。
心拍、三十二。
普通の大人なら意識を失う水準。
子供なら心停止の一歩手前だ。
だが、波形は一定のリズムで刻まれていた。
「……ギリギリだな」
チャイヤが呟いた。
「低体温、深部体温で二十八度切ってる。心室細動に移行したらここじゃ手の打ちようがない」
「基地まであと何分だ?」
「十八分」
コックピットからピーラットの声が割り込んだ。
「追い風に乗せた。……だが、もう少し伸ばす。ロッブリーの医療班に到着前処置の準備をさせる」
ピーラットの声が、わずかにいつもより早い。
この男は、焦っている時ほど饒舌になる。
「……お坊ちゃん」
アリンは、モニターから目を離さずに口を開いた。
「お前の操縦、今日は丁寧だったな」
「当たり前だ。……VIPが搭乗してるからな」
ピーラットは、それだけ言ってあとは黙った。
機内が静まり返った。
聞こえるのはローターの爆音、タービンの甲高い唸り、モニターの電子音。そしてチャイヤが輸液ラインを監視する指の規則的な動き。
アリンは、自分の救難服の胸ポケットにそっと手を当てた。
内側の防水ポケットに、母親の両手首が入っている。
重さはほとんど、ない。
だが、そこに何かが確かにあるという感覚だけは、胸骨を通して心臓のすぐ近くにずっと存在していた。
「……チャイヤ」
アリンは、小声で呼んだ。
「なんだ」
「母親の腕を切り離した」
「分かってる」
「両手首が内ポケットにある」
チャイヤの手が一瞬だけ、止まった。
そして、また動き出した。
「……基地に着いたら、俺が検分する。指紋、血液型、DNA。身元確認のために必要だ。遺族の元に返す」
「頼む」
「お前、馬鹿だな」
チャイヤは、モニターを見たまま、低く言った。
「置いてくれば、報告書に書かずに済んだ」
「置いてけば、この娘が大人になった時、母親を捜すことになる」
アリンは娘の顔を見た。
紫の唇にわずかに、赤みが戻り始めていた。
「この子の世界に『お母さんの墓がない』って事実だけは、残したくなかったんだよ」
チャイヤは何も言わなかった。
ただ、ため息のような呼吸を一度だけ漏らした。
そのため息の意味を、アリンは追及しなかった。
この部隊で三年、チャイヤと組んできた。こいつがため息を漏らすのは反論を諦めた時か、納得した時か、そのどちらかだ。見分ける必要はない。
どちらでも結果として、手を貸してくれる男だから。
「……アリン」
不意にキャビンの後方から、サコーンの声がした。
ウィンチ・コンソールの前で、節くれ立った手でレバーをゆっくりと定位置に戻しながら、サコーンはアリンを見ていた。ビンロウの葉を噛む顎の動きが止まっている。
「……お前、親父さんに顔向けできるな」
アリンは一瞬、息を止めた。
親父。
日本人の元刑事。タイ王国警察に出向した合同捜査の専門官。二十年以上前にこの国の片隅で死んだ男。
アリンが救助の道に入った時には、父はもういなかった。
サコーンは父を知っている。
どういう経緯で知り合ったのか、何度組んだのか、いつ話を聞いたのか。アリンは、一度も訊いたことがない。
サコーンも一度も語らない。
ただ、時々こういう時にぽつりと言う。
「親父さんに、顔向けできるな」と。
それだけを。
「……どうも」
アリンは、それだけ返した。
サコーンは頷かなかった。ただ、またビンロウの葉を噛み始めた。
赤茶けた唾液が、ジュラルミンの床に小さく落ちた。
機内はまた静寂に戻った。
モニターの電子音。心拍、三十四。わずかに上がってきている。
アリンは、娘の顔の泥を救難服の袖口でそっと拭った。
この子の名前をまだ知らない。
家族構成も、住所も、何を食べるのが好きかも。
それでも今、この子の命は確かにアリンの手の届く場所で――鼓動を刻んでいた。
ブラックホークがロッブリー航空基地の滑走路に侵入した頃には、雨は勢いを弱め始めていた。
夕闇のバンコクの空は、西側だけが薄く赤く染まっている。嵐の抜け道だ。雨雲の切れ間から、夕日が滑走路の水溜まりに一瞬だけ反射した。
『ガーディアン・ワン、着陸許可』
管制からの声。
ピーラットは返事をしなかった。代わりに、機体が、重力を忘れたように滑らかに降下した。
着地。
車輪が滑走路に触れた瞬間の衝撃すら、乗っている娘に配慮したように最小限に抑えられていた。
ローターの回転が落ちる。
機体がゆっくりと自重を取り戻す。
ハッチが開いた。
雨の匂い。湿った熱帯の空気。そして、滑走路の遠くに赤色灯を回す救急車とストレッチャーを構えた医療班の姿が見えた。
走ってくる、ではなかった。
整列して待っていた。
その中央に、一人。傘も差さずに立っている男がいた。
ウィチット中佐。
軍服が雨で完全に濡れている。肩章の金モールが水を吸って黒く変色していた。五十代の小柄な身体は微動だにせず、ただ、ハッチの開く方向を静かに見つめている。
アリンは、防水ブランケットに包まれた娘をそっと両腕で抱え上げた。
チャイヤが、輸液ラインを持ったままアリンの後ろに付く。
タラップを降りた。
ブーツの下で、滑走路の水溜まりが跳ねる。
ウィチット中佐の前で、アリンは止まった。
中佐は、何も言わなかった。
ただ、アリンの腕の中の小さな包みを見つめた。
雨が、中佐の白髪交じりの頭を叩き続けている。
「……中佐」
アリンは、口を開いた。
「少女一名、生還。低体温、深部体温二十八度未満、推定。心拍三十四、上昇中。機内で骨髄輸液を実施。詳細、機内で——」
「アリン」
中佐が短く遮った。
「報告は後でいい」
「……はい」
「引き渡せ」
医療班がストレッチャーを押して駆け寄ってきた。アリンは、娘を慎重に彼らの手に委ねた。
輸液ラインを引き継いだチャイヤが、医療班の主任に早口で状況を伝える。
ストレッチャーが救急車へ向かって、走り去っていく。
赤色灯が遠ざかる。
滑走路にアリンと、ウィチット中佐だけが残った。
雨音。
遠くでブラックホークのエンジンが冷却サイクルに入る音が聴こえる。
「母親は」
中佐が、短く訊いた。
「……梁と土砂に挟まれていました」
アリンは、灰色の瞳をわずかに伏せた。
「彼女の指は、最後まで娘を離さなかった。俺が、それを切り離した」
中佐は、無言でアリンの顔を見上げた。
五十代の男の眼は、疲れていた。
だが、怒ってはいなかった。
「母親の遺体は」
「……本流に飲まれました。……回収、できませんでした」
アリンはゆっくりと、救難服の内ポケットに手を入れた。
濡れた防水シートの中から、小さな包みを取り出す。
小さな軍用の透明袋。
中に母親の両手首。
滑走路の街灯の光の下で、その皮膚はもう、人間の色をしていなかった。
アリンはそれを、中佐に差し出した。
「彼女の身体から切り離しました。この部分だけは……連れて帰りました」
中佐は、その袋を受け取った。
受け取る前に一度、アリンの顔を見た。
「……」
「……」
中佐は、何も言わずに両手で袋を受け取った。
そして、自分の軍服の、内側——アリンと同じ胸の内ポケット——にそっと、収めた。
「預かる」
それだけを言った。
「……はい」
「お前は医務室で、身体を見てもらえ」
「はい」
「——アリン」
中佐が去り際に、振り返った。
「報告書は明日の朝までだ」
「はい」
「感情で書け」
アリンは、瞬きを忘れた。
「理屈で書けば、俺はお前を軍法会議にかけなきゃならん」
中佐はそれだけ言って、医務棟の方へ歩き去った。
雨の中。小さな背中が、遠ざかっていく。
肩章の金モールがまた、鈍く光って消えた。
アリンは、滑走路の真ん中に一人で立っていた。
雨が、顔を叩き続けている。
さっきまで、胸に娘の体温があった。
さっきまで、内ポケットに母親の手首の重みがあった。
今はどちらも、ない。
手の感触だけが、両方残っていた。
アリンは空を見上げた。
雨雲が東へ流れていく。
西の空が少しずつ、開いていく。
夕日の最後の赤が、滑走路の端で消えようとしていた。
「……ただいま」
アリンは、誰にも聞こえない声で呟いた。
口の中に、まだ泥とガソリンの味が残っていた。




