春妃付きの女官
その日の夜、ヒサギは床に入り考えていた。
『誰にも言ってはだめよ』
その言葉は、命じるようでいて、縋るようでもあった。
春妃としての言葉なのか、桜麗というひとりの女の言葉なのか、ヒサギにはもうわからない。
ただ、あの一瞬、桜麗を少しだけ近くに感じたことだけは確かだった。
ヒサギは寝返りを打つ。
薄い帳の向こうでは、夜気に触れた花の香りがまだ漂っていた。
(お可哀想、だなんて)
そう思ったのではない、とヒサギは自分に言い聞かせる。
可哀想だと決めつけるのは、違う。
桜麗は、憐れまれることなど望んでいない。
今日のあの眼差しを思い出せば、それくらいわかる。
考えながら、ヒサギはようやく眠りに落ちた。
***
翌朝、春の宮はいつも通りの顔をしていた。
けれどヒサギには、もう昨日までと同じようには見えなかった。
「ヒサギ」
瑞寿に呼ばれ、はっと顔を上げる。
「何をぼんやりしているの。春妃様のお茶を替えて」
「あ!はい」
ヒサギは急いで盆を取る。
手を動かしながらも、胸のざわめきはおさまらなかった。
簾をくぐると、桜麗は窓辺に座っていた。
朝の光を受けた横顔は、昨日と少しも変わらない。
やわらかく、美しく、手を伸ばせば壊れてしまいそうなほど静かだ。
「春妃様、お茶をお持ちしました」
ヒサギが膝を折ると、桜麗は振り返った。
「ありがとう」
その微笑みを見た瞬間、ヒサギは妙な違和感を覚えた。
ほんのわずかだが、目の下に影がある。
唇の色も、いつもより少しだけ薄いように見えた。
昨夜、よく眠れなかったのだろうか。
そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
なぜ痛むのか、自分でもわからない。
わからないまま、茶器を差し出す。
「……春妃様」
思わず声が出た。
「……昨夜は、よくお休みになれましたか?」
気づけば、そう尋ねていた。
桜麗は少し驚いた顔をした。
「どうして?」
「……少し、お疲れのように見えましたので…」
言った瞬間、しまったと思った。
また踏み込みすぎたかもしれない。
けれど桜麗はすぐには何も言わなかった。
ただ茶器を手の中であたためるように持ち、窓の外を見た。
庭には、朝の光を受けた花々が揺れている。
咲きすぎた春は、今日も変わらず美しかった。
「あなたは……本当に、よく見ているのね」
ほんの少しだけ――嬉しそうに聞こえた。
「……申し訳ありません」
ようやくそう言うと、桜麗は少しだけ目を見開いて、それからくすりと笑った。
「どうして謝るのよ」
それから、ふっと息を吐き、「そういう人が、一人くらいいてもいいのかもしれないわね」と言った。
ヒサギは返す言葉を見つけられず、ただ黙って頭を下げた。
「ヒサギ」
「……はい」
「あなた、今の仕事は雑務だったわね」
不意の問いに、ヒサギは顔を上げる。
「はい。まだこちらにきて日が浅いので……」
「そう」
桜麗は短く頷いた。
それから、ほんの少しだけ考えるように視線を落とす。
「なら、今日から私のそばについてもらおうかしら」
ヒサギは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
「身支度やその他のことも、あなたに任せることが増えると思うわ」
やわらかな声だった。
まるで特別なことではないかのように、あまりにも自然に告げられる。
だがその内容は、決して軽いものではない。
「そばにいる時間が長くなるから……その分、よく見てしまうかもしれないけれど」
桜麗は、ほんのわずかに目を細めた。
「それでも、いい?」
まるで試すかのように問われ、ヒサギの胸が、どくりと鳴る。
「……恐れ多いことにございます。未熟者ではございますが、精一杯、務めさせていただきます」
桜麗はゆっくりと頷く。
「ええ。よろしくね」
それだけのやり取りだったが、ヒサギは、ひどく重く感じられた。
***
その日の昼過ぎ、ヒサギは瑞寿に呼び出された。
「……聞いたわよ」
開口一番、ため息まじりに言われる。
「え?」
「春妃様付きになるんでしょう?」
ヒサギは目を見開いた。
「ご存じなのですね……」
「当たり前でしょ。あの方が人をそばに置くなんて、珍しいことなんだから」
瑞寿は腕を組んだまま、じっとヒサギを見た。
その視線には、呆れと、わずかな警戒が混じっている。
「でも、浮かれないことね。何か困ったことがあれば言いなさい」
「……はい。ありがとうございます」
***
その後、春の宮の奥で、ヒサギはある女官と顔を合わせることになる。
「……あなたが、新しく春妃様付きになるというヒサギ?」
冷ややかな声だった。
振り向くと、そこに立っていたのは、背の高い女官だった。
整った顔立ちだが、表情には一切の愛想がない。
「……はい。ヒサギと申します」
ヒサギは深く頭を下げた。
女はしばらく何も言わず、そのままヒサギを見下ろしていた。
やがて、ふっと口元を歪める。
「春妃様は……ずいぶんと幼い子を選ばれたのね」
その言葉に、空気がぴんと張る。
「あなた、何日ここにいるの?」
「……まだ一週間ほどです」
「でしょうね」
即答だった。
「立ち居振る舞いも、話し方も、何もかもまだまだ未熟だもの」
一歩、距離を詰められる。
「そんな状態で、春妃様のおそばに立つつもり?」
その声は静かだったが、容赦がなかった。
ヒサギは言葉を失う。
正論だった。
すべてが事実だった。
「くれぐれも勘違いだけはしないことね」
女官は、わずかに身をかがめる。
「私は、芙蓉<ふよう>。春妃様が入宮された頃から、春妃様にお仕えてしているわ」
「……よろしくお願いいたします」
かろうじてそう返すと、芙蓉は興味を失ったように視線を外す。
「まあ、せいぜい足を引っ張らないことね」
ヒサギはその場に立ち尽くした。




