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春愁秋思〜巫女妃は恋を知らない  作者: 桔梗


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6/7

憂いを帯びた微笑み

「妃らしい妃……?」


思わず聞き返すと、瑞寿は面倒そうに眉をひそめた。

回廊を曲がりながら、瑞寿は淡々と続ける。


「妃というのはね、感情を表に出さないものなの」


「感情……」


「そうよ。泣きたい時に泣かない。怒りたい時に怒らない。欲しいものがあっても、他人にそれを悟らせない。

紅琳様は、それが誰より上手くお出来になるの。だから、妃らしい妃」


ヒサギは黙ってその言葉を聞いていた。


紅琳の静かな笑みが脳裏に浮かぶ。

やわらかく見えて、その実、決して踏み込ませないあの瞳。


「……桜麗様とは、違うのですね」


ぽつりと漏らした声に、瑞寿は少し寂しそうに微笑んだ。


***


春の宮の庭は、朝と昼と夕で表情を変える。


朝は露に濡れてやわらかく、昼は香りが濃く息苦しく、

そして夕方には、咲き誇る花々の輪郭が少しずつ曖昧になる。


「ヒサギ」


不意に名前を呼ばれてヒサギは慌てて振り返り、頭を下げた。

声の主が誰かわかっていたからだ。


「よければ話し相手になってくれるかしら?」


桜麗が微笑みながらヒサギを見ていた。


「もちろんです」


ヒサギは即答する。


桜麗は、ふっと安心したように目を細めた。


「ありがとう。……少しだけでいいの」


桜麗はやわらかくそう言って、庭へと続く回廊をゆっくり歩き出した。

ヒサギは一歩遅れてその後ろにつく。


桜麗は、ひときわ花の密な場所で足を止めた。


「ここ、風が通るから気持ちがいいの」


たしかに、ほんのわずかに空気が動いている。

それでも、甘い香りは濃いままだった。


「ヒサギは、この宮をどう思う?」


不意の問いだった。


「……とても、美しいと思います」


選んだ言葉は、半分は本心で、半分は無難なものだった。

桜麗はくすりと笑う。


「春妃様」


「なあに?」


「春妃様は好きなものは、ございますか?」


問いかけた瞬間、自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。

だが口にしてしまったものは戻らない。


桜麗は少しだけ黙った。

やがて桜麗は、ひどく穏やかな声で言った。


「昔は、たくさんあった気がするわ」


“ある”ではなく、“あった気がする”。


「でも、今は……」


そこまで言って、桜麗は言葉を切った。


視線は庭に向いたまま、まるで自分の言葉の続きを、咲きすぎた花の中へ探しているようだった。


「今は、何かを好きになりすぎないことのほうが大切なの。それが役目のようでもあるし……」


好きになりすぎないこと。

それはつまり、好きになってしまうことがある、ということだ。


「……それは、おつらくないのですか」


またしても、口にしてから遅いと思う。

さすがに今度は不敬だったかもしれないーーヒサギは慌てて顔を伏せた。


「申し訳ありません、差し出がましいことを――」


「いいのよ」


桜麗は、思ったよりもずっと近い声でそう言った。


はっとして顔を上げると、いつの間にか彼女がこちらを見ていた。

夕暮れの淡い光が、桜麗の瞳の奥に浮かんでいる。


「つらいかどうかを考える前に、そうあるべきだと教えられてきたのよ」


そういうと桜麗は微笑んだが、その微笑みはいつものように完璧ではなかった。

ほんのひとかけらだけ、憂いが滲んでいるように見えた。


「だから、たぶん――慣れてしまったのね」


その一言が落ちた瞬間だった。


庭の奥で、まだ色づききっていなかった花が、ふつりと開いた。

ひとつ。またひとつ。


「春妃様……」


「……誰にも言ってはだめよ」


ふいに、桜麗が言った。

ヒサギは目を見開く。


桜麗は庭を見たまま、静かな声で続ける。


「今のことを」


その声音に、脅しはなかった。

けれど、決して逆らえないものがあった。


春妃としての命ーーあるいは、それとは別の、もっと個人的な願いだろうか。


目の前で花が開いている。

夕暮れの薄闇の中で、咲くはずの時を越えて、なお咲こうとしている。


その光景はとても美しかった。

けれど、ひどく苦しかった。


まるで、ひとりで堪えきれなくなった感情が、花の形を借りて溢れているようだった。


「……はい」


やっとのことで、それだけ答える。


桜麗はようやくこちらを振り向いた。

その顔にはもう、いつもの笑みが戻っている。


「ありがとう」


たったそれだけの言葉。


けれどヒサギは、その時初めて、桜麗という人を少しだけ近くに感じた。


春妃ではなく。

春を司る巫女妃でもなく。


ーーひとりの人間として。

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