憂いを帯びた微笑み
「妃らしい妃……?」
思わず聞き返すと、瑞寿は面倒そうに眉をひそめた。
回廊を曲がりながら、瑞寿は淡々と続ける。
「妃というのはね、感情を表に出さないものなの」
「感情……」
「そうよ。泣きたい時に泣かない。怒りたい時に怒らない。欲しいものがあっても、他人にそれを悟らせない。
紅琳様は、それが誰より上手くお出来になるの。だから、妃らしい妃」
ヒサギは黙ってその言葉を聞いていた。
紅琳の静かな笑みが脳裏に浮かぶ。
やわらかく見えて、その実、決して踏み込ませないあの瞳。
「……桜麗様とは、違うのですね」
ぽつりと漏らした声に、瑞寿は少し寂しそうに微笑んだ。
***
春の宮の庭は、朝と昼と夕で表情を変える。
朝は露に濡れてやわらかく、昼は香りが濃く息苦しく、
そして夕方には、咲き誇る花々の輪郭が少しずつ曖昧になる。
「ヒサギ」
不意に名前を呼ばれてヒサギは慌てて振り返り、頭を下げた。
声の主が誰かわかっていたからだ。
「よければ話し相手になってくれるかしら?」
桜麗が微笑みながらヒサギを見ていた。
「もちろんです」
ヒサギは即答する。
桜麗は、ふっと安心したように目を細めた。
「ありがとう。……少しだけでいいの」
桜麗はやわらかくそう言って、庭へと続く回廊をゆっくり歩き出した。
ヒサギは一歩遅れてその後ろにつく。
桜麗は、ひときわ花の密な場所で足を止めた。
「ここ、風が通るから気持ちがいいの」
たしかに、ほんのわずかに空気が動いている。
それでも、甘い香りは濃いままだった。
「ヒサギは、この宮をどう思う?」
不意の問いだった。
「……とても、美しいと思います」
選んだ言葉は、半分は本心で、半分は無難なものだった。
桜麗はくすりと笑う。
「春妃様」
「なあに?」
「春妃様は好きなものは、ございますか?」
問いかけた瞬間、自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
だが口にしてしまったものは戻らない。
桜麗は少しだけ黙った。
やがて桜麗は、ひどく穏やかな声で言った。
「昔は、たくさんあった気がするわ」
“ある”ではなく、“あった気がする”。
「でも、今は……」
そこまで言って、桜麗は言葉を切った。
視線は庭に向いたまま、まるで自分の言葉の続きを、咲きすぎた花の中へ探しているようだった。
「今は、何かを好きになりすぎないことのほうが大切なの。それが役目のようでもあるし……」
好きになりすぎないこと。
それはつまり、好きになってしまうことがある、ということだ。
「……それは、おつらくないのですか」
またしても、口にしてから遅いと思う。
さすがに今度は不敬だったかもしれないーーヒサギは慌てて顔を伏せた。
「申し訳ありません、差し出がましいことを――」
「いいのよ」
桜麗は、思ったよりもずっと近い声でそう言った。
はっとして顔を上げると、いつの間にか彼女がこちらを見ていた。
夕暮れの淡い光が、桜麗の瞳の奥に浮かんでいる。
「つらいかどうかを考える前に、そうあるべきだと教えられてきたのよ」
そういうと桜麗は微笑んだが、その微笑みはいつものように完璧ではなかった。
ほんのひとかけらだけ、憂いが滲んでいるように見えた。
「だから、たぶん――慣れてしまったのね」
その一言が落ちた瞬間だった。
庭の奥で、まだ色づききっていなかった花が、ふつりと開いた。
ひとつ。またひとつ。
「春妃様……」
「……誰にも言ってはだめよ」
ふいに、桜麗が言った。
ヒサギは目を見開く。
桜麗は庭を見たまま、静かな声で続ける。
「今のことを」
その声音に、脅しはなかった。
けれど、決して逆らえないものがあった。
春妃としての命ーーあるいは、それとは別の、もっと個人的な願いだろうか。
目の前で花が開いている。
夕暮れの薄闇の中で、咲くはずの時を越えて、なお咲こうとしている。
その光景はとても美しかった。
けれど、ひどく苦しかった。
まるで、ひとりで堪えきれなくなった感情が、花の形を借りて溢れているようだった。
「……はい」
やっとのことで、それだけ答える。
桜麗はようやくこちらを振り向いた。
その顔にはもう、いつもの笑みが戻っている。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉。
けれどヒサギは、その時初めて、桜麗という人を少しだけ近くに感じた。
春妃ではなく。
春を司る巫女妃でもなく。
ーーひとりの人間として。




