花を咲かすは美しき妃
日が傾き始め、花の色が淡い金を帯びる頃。
室内の水差しを替えるため、ひとりで宮に向かっていた時だった。
供も連れず、ただひとりで、桜麗が立っていた。
薄紅の衣の袖が、夕風にかすかに揺れている。
その足元には、咲きこぼれた花が散っていた。
桜麗は、そのうちの一輪をそっと拾い上げる。
まるで壊れ物に触れるように、やさしく。
ヒサギは声をかけることもできず、その場に立ち尽くした。
桜麗の横顔は、朝と変わらず美しかった。
変わらず穏やかで、静かだった。
(綺麗)
そう思った瞬間、庭の奥でまだ蕾だったはずの花が、ひとつ、ふつりと開いた。
ヒサギは目を見張った。
続けて、もうひとつ。
またひとつ。
夕暮れの薄闇の中で、眠るはずの花々が、静かに目覚めていく。
桜麗は気づいていないようだった。
あるいは、気づいていても見ないふりをしているのか。
やがて彼女は拾い上げた花を胸元へ寄せ、小さく息を吐いた。
その声音は聞こえなかった。
けれど、次の瞬間、いっせいに開いた花々から濃い香りが立ちのぼる。
甘く、やわらかく、どこまでも美しい春の匂い。
――そして、ひどく苦しい。
ヒサギは思わず柱に手をついた。
その物音で、桜麗がふと振り返る。
目が合った。
一瞬だけ、驚いたように見えたのは気のせいだったのかもしれない。
すぐに桜麗はいつもの微笑みを浮かべる。
「ヒサギ」
呼ばれて、背筋が伸びた。
「いたのね」
「……申し訳ありません」
桜麗は責めなかった。
ただ、手の中の花を見下ろし、それから静かに言った。
「謝らなくていいのよ。あなたも、もう部屋へ戻りなさい」
桜麗はそう言って、また庭へ視線を戻した。
ヒサギは深く頭を下げ、その場を下がる。
回廊へ出たあとも、心臓はひどく騒いでいた。
その夜、寝台に入っても、花の香りが鼻の奥に残っていた。
***
「ヒサギ。掃き掃除は終わったかしら?」
振り向くと、瑞寿が立っていた。
「はい、もうすぐ終わります!」
「急ぎなさい。今日は秋妃様がいらっしゃるかもしれないのよ」
ヒサギは思わず手を止めた。
「秋妃様が……?」
瑞寿は「ああ」と短く答える。
「そう、秋妃の紅琳<こうりん>様。時々あるの。四季の妃様同士で顔を合わせることがね」
それだけ言って、さっさと行ってしまった。
***
にわかに女官たちがざわめいたかと思うと、回廊の向こうにひとつの影が現れた。
秋妃の紅林だった。
深い紅を帯びた薄茶の衣。
秋の夕暮れを思わせる、静かで重たい色合い。
その姿は華やかなのに、不思議なほど温度がない。
歩みはゆるやかで、足音ひとつ立てない。
けれど、彼女が近づくにつれて、あたりの空気が少しずつ乾いていくように感じられた。
春の宮に満ちていた甘い香りが、ほんのわずかに薄れる。
ヒサギは知らず、息をのんだ。
(この人も……)
季節をまとっている。
紅林は廊に立つ女官たちを一瞥し、静かに目礼した。
それだけの仕草に、女官たちは一斉に頭を垂れる。
「春妃は?」
声は低くも高くもなく、澄んでいた。
「あちらでお待ちでございます」
瑞寿が進み出て応じると、紅林は「そう」とだけ答える。
やがて桜麗付きの女官が現れ、紅林を奥へ案内した。
瑞寿もそれに続き、ヒサギも後に続いた。




