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春愁秋思〜巫女妃は恋を知らない  作者: 桔梗


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3/7

課せられた戒め

春の宮での朝は、花の香りで始まる。


まだ夜明けの白さが空に残る頃には、庭の花々が風に揺れるたび、甘やかな匂いを春の宮全体に運んでくる。

その香りは日が高くなるにつれ濃くなり、昼には肌にまとわりつくほどになる。


後宮に上がって四日目。

ヒサギはようやく、この宮の息苦しさが気のせいではないのだと知った。


香りが強すぎる。

色も、光も、空気までもが“春”で満ちすぎている。


春は本来、やわらかく訪れるものではなかっただろうか。

冷たさの名残を残した土の下から、少しずつ芽吹いてくるものではなかったか。


「ヒサギ。手が止まってるわよ」


低い声に、はっと我に返る。


振り向くと、年嵩の女官・瑞寿<ずいじゅ>が腕を組んで立っていた。

細身で目元の鋭い女で、口調はきついが、仕事に無駄がない。

春の宮で十年以上仕えているのだと、昨日ほかの女官が教えてくれた。


「申し訳ありません」


慌てて頭を下げ、ヒサギは卓上の花器を持ち直した。

朝の支度として、室内の花を替える役目を任されていたのだ。


だが、どこを見ても花ばかりで、何を替え、何を残すべきか、まだよくわからない。


「わからないなら勝手に触らない。まず見て覚えなさい」


瑞芳は花器の一つを指先で示した。


「その白梅は西の廂に。桜は触れなくていいわ。春妃様がお決めになるから」


「……はい」


春の宮の主は桜麗だ。

ならば桜をどうするかを桜麗が決めるのは当たり前のはずなのに、瑞芳の口ぶりは、それ以上の何かを含んでいた。


まるで、桜は飾りではなく、桜麗そのものの一部であるかのようにーー。


ヒサギが黙って花器を抱え直すと、瑞芳は小さく息を吐いた。


「そんなに緊張しなくてもいいわ。春妃様はお優しい方よ」


「……優しすぎるお方、と言ったほうが正しいかもしれないけれどね」


ヒサギは顔を上げる。


「それは、どういう……」


瑞芳はすぐには答えなかった。

代わりに、開け放たれた簾の向こうを見た。


庭では、白い花弁がひとひら、ふわりと浮かんでいた。

風に吹かれたようでいて、風はない。


「この後宮にいらっしゃる四季の妃様は、ただ美しく飾られているだけの方じゃない。

国の四季を安定させるために選ばれた、巫女妃様たちなの」


それは、昨日の案内役の女官が口にしたことと、ほとんど同じ意味の言葉だった。

けれど瑞芳の声には、それを長く見てきた者だけが持つ厳しさがあった。


「春妃様が春を、夏妃様が夏を、秋妃様が秋を、冬妃様が冬を留める。

花が咲くのも、雨が降るのも、稲が実るのも、雪が降るのも――全てあのお方たちがいるおかげよ。

だから、何事も普通の後宮の理では測れないの」


ヒサギは無意識に庭へ目をやった。


「だから、妃様方には戒めがあるの」


瑞芳は声をさらに落とした。


「戒め……?」


「そう、戒め。誰か一人を、強く想ってはならないというね」


ヒサギは思わず聞き返した。


「……なぜですか」


瑞芳の目が、わずかに細くなる。


「心がひとりに傾けば、その季節は国のものではなくなるからよ」


短く、けれど言葉を切らずに瑞芳は続けた。


「恋をすれば、季節の巡りは乱れ、人の暮らしに災いが及ぶかもしれないからよ。

だから四季の妃様は、誰か一人を強く想ってはならないの」


言葉にしただけで、ひやりとするような話だった。


では桜麗は――

あれほど穏やかに見える春妃は、ただ儚く静かな人なのではないのだ。


きっと、何かを強く想えば壊してしまうから、何も想わないように生きているのだ。


瑞芳はヒサギの顔を見て、小さく肩をすくめた。


「まあ、これは、今のはおまえが知っておくべき最低限のことよ」


「最低限……」


「ここで仕えるなら、自分の感傷で妃様を見ないことね。可哀想だとか、そういう顔をされるのを、いちばん嫌う方もいるから」


誰のことを言っているのか、ヒサギにはすぐにはわからなかった。

桜麗ではない気がする。

あの人は、自分がどう見られるかに頓着していないように見えた。


ならば、ほかの妃だろうか。

そう思った時だった。


強い風が吹き抜けた。

いや、風というより、熱に近い。


ひやりとした春の空気の中に、そこだけ夏の気配が混じる。


思わずそちらを見ると、遠くの渡殿の先で、幾人もの女官たちが慌ただしく頭を下げていた。

その中心を、ひとりの女が歩いてくる。


鮮やかな青緑の衣。

背筋の伸びた、烈しいほどにまっすぐな歩き方。

歩くたび、腰の飾りがしゃらりと鳴る。


「……あの方は……」


ヒサギが呟くと、瑞芳が頷く。


「夏妃、清蘭様よ」


その名にふさわしい、蘭のように美しい姿だった。

けれど静かな花ではないように見えた。


清蘭は、ほんの一瞬だけ春の宮の方角へ目を向けた。

まるで、ここにある春そのものを見定めているような眼差しだった。


やがて清蘭の姿が渡殿の向こうへ消えると、熱もまた、すっと引いていった。


「……なんだか……すごく雰囲気のあるお方ですね」


「ええ、そうね」


瑞芳は淡々と答える。


「夏妃様は、四季の妃様方の中でも、いちばんお心を隠すのが苦手なお方だから」


それは誉め言葉なのか、そうでないのか、ヒサギには判断がつかなかった。


「どの妃様も、皆それぞれに難しいお方だわ」


そこで話は終わった。

瑞芳はまた花器へと視線を戻し、手を動かし始める。


だが手を動かしながらも、頭の中ではさっきの言葉が何度も響いていた。

誰か一人を、強く想ってはならない。

それは後宮のしきたりというより、呪いに近いものだと思った。


昼を過ぎても、その言葉は胸のどこかに引っかかったままだった。

そしてその日の夕刻、ヒサギはもうひとつの異様さを知ることになる。

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