課せられた戒め
春の宮での朝は、花の香りで始まる。
まだ夜明けの白さが空に残る頃には、庭の花々が風に揺れるたび、甘やかな匂いを春の宮全体に運んでくる。
その香りは日が高くなるにつれ濃くなり、昼には肌にまとわりつくほどになる。
後宮に上がって四日目。
ヒサギはようやく、この宮の息苦しさが気のせいではないのだと知った。
香りが強すぎる。
色も、光も、空気までもが“春”で満ちすぎている。
春は本来、やわらかく訪れるものではなかっただろうか。
冷たさの名残を残した土の下から、少しずつ芽吹いてくるものではなかったか。
「ヒサギ。手が止まってるわよ」
低い声に、はっと我に返る。
振り向くと、年嵩の女官・瑞寿<ずいじゅ>が腕を組んで立っていた。
細身で目元の鋭い女で、口調はきついが、仕事に無駄がない。
春の宮で十年以上仕えているのだと、昨日ほかの女官が教えてくれた。
「申し訳ありません」
慌てて頭を下げ、ヒサギは卓上の花器を持ち直した。
朝の支度として、室内の花を替える役目を任されていたのだ。
だが、どこを見ても花ばかりで、何を替え、何を残すべきか、まだよくわからない。
「わからないなら勝手に触らない。まず見て覚えなさい」
瑞芳は花器の一つを指先で示した。
「その白梅は西の廂に。桜は触れなくていいわ。春妃様がお決めになるから」
「……はい」
春の宮の主は桜麗だ。
ならば桜をどうするかを桜麗が決めるのは当たり前のはずなのに、瑞芳の口ぶりは、それ以上の何かを含んでいた。
まるで、桜は飾りではなく、桜麗そのものの一部であるかのようにーー。
ヒサギが黙って花器を抱え直すと、瑞芳は小さく息を吐いた。
「そんなに緊張しなくてもいいわ。春妃様はお優しい方よ」
「……優しすぎるお方、と言ったほうが正しいかもしれないけれどね」
ヒサギは顔を上げる。
「それは、どういう……」
瑞芳はすぐには答えなかった。
代わりに、開け放たれた簾の向こうを見た。
庭では、白い花弁がひとひら、ふわりと浮かんでいた。
風に吹かれたようでいて、風はない。
「この後宮にいらっしゃる四季の妃様は、ただ美しく飾られているだけの方じゃない。
国の四季を安定させるために選ばれた、巫女妃様たちなの」
それは、昨日の案内役の女官が口にしたことと、ほとんど同じ意味の言葉だった。
けれど瑞芳の声には、それを長く見てきた者だけが持つ厳しさがあった。
「春妃様が春を、夏妃様が夏を、秋妃様が秋を、冬妃様が冬を留める。
花が咲くのも、雨が降るのも、稲が実るのも、雪が降るのも――全てあのお方たちがいるおかげよ。
だから、何事も普通の後宮の理では測れないの」
ヒサギは無意識に庭へ目をやった。
「だから、妃様方には戒めがあるの」
瑞芳は声をさらに落とした。
「戒め……?」
「そう、戒め。誰か一人を、強く想ってはならないというね」
ヒサギは思わず聞き返した。
「……なぜですか」
瑞芳の目が、わずかに細くなる。
「心がひとりに傾けば、その季節は国のものではなくなるからよ」
短く、けれど言葉を切らずに瑞芳は続けた。
「恋をすれば、季節の巡りは乱れ、人の暮らしに災いが及ぶかもしれないからよ。
だから四季の妃様は、誰か一人を強く想ってはならないの」
言葉にしただけで、ひやりとするような話だった。
では桜麗は――
あれほど穏やかに見える春妃は、ただ儚く静かな人なのではないのだ。
きっと、何かを強く想えば壊してしまうから、何も想わないように生きているのだ。
瑞芳はヒサギの顔を見て、小さく肩をすくめた。
「まあ、これは、今のはおまえが知っておくべき最低限のことよ」
「最低限……」
「ここで仕えるなら、自分の感傷で妃様を見ないことね。可哀想だとか、そういう顔をされるのを、いちばん嫌う方もいるから」
誰のことを言っているのか、ヒサギにはすぐにはわからなかった。
桜麗ではない気がする。
あの人は、自分がどう見られるかに頓着していないように見えた。
ならば、ほかの妃だろうか。
そう思った時だった。
強い風が吹き抜けた。
いや、風というより、熱に近い。
ひやりとした春の空気の中に、そこだけ夏の気配が混じる。
思わずそちらを見ると、遠くの渡殿の先で、幾人もの女官たちが慌ただしく頭を下げていた。
その中心を、ひとりの女が歩いてくる。
鮮やかな青緑の衣。
背筋の伸びた、烈しいほどにまっすぐな歩き方。
歩くたび、腰の飾りがしゃらりと鳴る。
「……あの方は……」
ヒサギが呟くと、瑞芳が頷く。
「夏妃、清蘭様よ」
その名にふさわしい、蘭のように美しい姿だった。
けれど静かな花ではないように見えた。
清蘭は、ほんの一瞬だけ春の宮の方角へ目を向けた。
まるで、ここにある春そのものを見定めているような眼差しだった。
やがて清蘭の姿が渡殿の向こうへ消えると、熱もまた、すっと引いていった。
「……なんだか……すごく雰囲気のあるお方ですね」
「ええ、そうね」
瑞芳は淡々と答える。
「夏妃様は、四季の妃様方の中でも、いちばんお心を隠すのが苦手なお方だから」
それは誉め言葉なのか、そうでないのか、ヒサギには判断がつかなかった。
「どの妃様も、皆それぞれに難しいお方だわ」
そこで話は終わった。
瑞芳はまた花器へと視線を戻し、手を動かし始める。
だが手を動かしながらも、頭の中ではさっきの言葉が何度も響いていた。
誰か一人を、強く想ってはならない。
それは後宮のしきたりというより、呪いに近いものだと思った。
昼を過ぎても、その言葉は胸のどこかに引っかかったままだった。
そしてその日の夕刻、ヒサギはもうひとつの異様さを知ることになる。




