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春愁秋思〜巫女妃は恋を知らない  作者: 桔梗


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1/7

香る花は深く深く

花が、咲きすぎている。


新米女官のヒサギは思わず足を止めた。


春妃の宮。

そこに広がる庭は、まるで季節という概念を忘れたかのようだった。


白、薄紅、淡い紫。

幾重にも重なる花弁が、風に揺れている。

香りは濃く、甘く、息を吸うたびに体の奥まで染み込んでくるようだった。


(……おかしい)


まだ春の盛りには早い。

それどころか、今年は寒の戻りが続き、開花は遅れるはずだった。

それなのに、ここだけが、すでに春で満ちている。


ヒサギは、無意識に袖口を握った。


案内役の女官が、くすりと笑う。


「驚いたでしょう」


声はやわらかいが、どこか誇らしげだった。


「ここは春妃様のお住まい。四季の妃様の宮のうちで、最も華やかな宮ですもの」


沈澪は曖昧に頷いた。


華やか――たしかにそうだ。

けれど、胸の奥に引っかかるものがある。


美しいのに、どこか息苦しい。

まるで、逃げ場のないようなーー。


「ヒサギ」


名を呼ばれ、顔を上げる。


「これより先は、粗相のないように。春妃様はお優しい方だけれど、それでも……特別なお方ですから」


“特別”。


その言葉に、ヒサギはほんのわずか眉を寄せた。


後宮において、その響きは決して一つではない。

寵を受けているという意味でも、権力を持つという意味でも使われる。


だが、四季の妃に対して使われるそれは、どちらとも違う。

もっと静かで、もっと重いものだ。


「……承知しております」


短く答えて、ヒサギは歩みを進めた。


玉砂利を踏む音が、やけに響く。

花の香りはますます濃くなり、頭の奥がぼんやりと霞んでくる。


(こんな場所で、ずっと暮らしているの……?)


思った瞬間、前方の簾が静かに揺れた。


女官が一歩下がり、深く頭を垂れる。

ヒサギもそれに倣い、膝を折った。


足音は、ほとんど聞こえない。

それでも、そこに誰かが立っていることだけは、はっきりとわかった。


空気が変わる。

春の気配が、ひとつに集まったように感じた。


「顔を上げて」


やわらかく、静かで、どこまでも穏やかな声音が降ってきた。


ヒサギはゆっくりと顔を上げる。


そこにいたのは――ひとりの女だった。


黒髪は艶やかに流れ、肌は花弁のように淡い。

その姿は、この庭のどんな花よりも春めいて見えた。


そして何より、その人は笑っていた。

誰に対しても向けられる、欠けることのない微笑み。


(……ああ)


ヒサギは、その瞬間に理解した。


この人が春妃様だーー。


「あなたが、新しく来た女官ね」


春妃・桜麗<おうれい>は、静かに言った。


その声音には、歓迎も、警戒も、好奇もない。

ただ、決められた通りに言葉を話しているようだった。


「はい。ヒサギと申します」


深く頭を下げる。


「ここは少し、息苦しいでしょう」


ふいに、桜麗が言った。

ヒサギは顔を上げる。


「……え?」


問い返すより先に、桜麗はわずかに目を細めた。


「花が多すぎると、そう感じる人もいるの」


言いながら、庭を振り返る。


その仕草はあまりにも自然で、何の違和感もない。

けれどヒサギは、ぞくりとした。

この人は、自分の感じた違和感を、当たり前のように言い当てた。


「でも、すぐに慣れるわ」


桜麗は、再び微笑む。


ヒサギは彼女をとても美しいと思った。

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