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赤い空

掲載日:2026/03/13

 私はこの世の当たり前から逃げるため、あの広く美しい青い空を、逃げ場のない恐ろしく赤い空と呼ぶことにした。


 死刑執行の日を延々と先延ばしているような、そんな人生だった。明日こそは死のうと思っていた。でも、自殺してしまうのは、あまりにも私の人生が悲劇となってしまうようで嫌だった。結局は踏みとどまる、その毎日だった。私の趣味は、強いていえば、SNSを覗くことだ。SNSを見れば、私よりも惨めな人生を送る人がたくさんいた。日々の憂鬱さから少しだけ抜け出せた気がした。自殺掲示板が特に好きだった。あの鬱っぽくて常にお通夜のような雰囲気が、私のために用意された特別な居場所のようだった。しかし、そうした自殺掲示板も、やがて封鎖されていった。きっと、あいつらは私の心配なんぞ、少しもしていないだろう。奴らは当たり前を振りかざし、私の居場所を奪いたいだけだ。私は、その当たり前に報いを受けさせたかった。


 私は一つ思いついた。奴らは、上を向いて歩いている。広く美しい青い空、それを日々の当たり前のように眺めている。私はその常識を壊そうと思い、外に出て空を見上げ、口を開いた。

「あれは青空ではない!赤い空だ!広くも美しくもない、逃げ場のない恐ろしく赤い空なんだ!」

自分でも驚くほどに大きな声で叫ぶ。久しぶりに声を出したからか、喉が急激に痛む。しかし、その痛みすらも忘れて、そのままふらりと散歩へと出かけた。恐ろしく赤い空の下、小銭も持たず、吸い寄せられるように近くの本屋に入る。前までは本屋の前を通り過ぎることすら嫌だった。本を自ら買おうと思える、そんな知的な人間が嫌だった。およそ、私の人生には合わない存在だった。だが、今は違う。世界の中心が私にあるかのような、そんな根拠のない全能感に突き動かされ、自信に満ち溢れながら入店し、棚に並ぶ本を、片っ端から手に取ってみては、ページをめくる。そこに並んでいる文字の群れは、私にとっては何の関係もない、ただの記号の羅列に過ぎなかった。何が書いてあるのか、さっぱりわからない。一文字として、私の頭に浸透してくる言葉なんて、どこにも見当たらなかった。しかし、かえってそれは、私の胸を得体の知れないワクワクとした高揚感で満たし始めた。わからない。何ひとつわからない。その事実が、今の私には、最高に贅沢で、滑稽なほどに楽しい遊びのように思えた。何冊も手に取った本を、全くデタラメな場所に戻した。私は指先一つで、世界の秩序を自分の手で書き換えた。堪らなく楽しい。この無意味な時間が、私にとっては唯一の救いのように思えた。


 帰りに赤信号が私の行く手を阻んだ。ボタンを押し、青になるまで待つ。やがて信号は青になった。あぁ、素晴らしい。何という気持ちの良さだろう。私の意志が、世界を動かした瞬間である。私のために、車どもが列をなして一斉に沈黙し、立ち止まる。そうして私は、まるでショーを完璧に締めくくったマジシャンのような微笑みでその青色のスポットライトが輝く舞台を後にする。車の中の当たり前を享受する人間たちにはわからないことだろう。全く可哀想な奴らだ。少し時間が経つとスポットライトは消え、私はまた、群衆の中に溺れるただの通行人へと逆戻りした。この世の当たり前が、再び足元から這い上がってくる、それでも、私はこの滑稽なまでの自意識を捨てるつもりはない。


 最後に一言。私の人生は、決して惨めなものなどではない。そう信じたい。せめて、そうした言い訳を一つさせてはもらえないだろうか。世間というものは、私を冷笑し、指をさして通り過ぎていく。しかし私は、自分の中に飼っている、たった一つの言葉だけを杖にして、この盲目の夜道を歩き続けているのだ。人間、狂ってからが本番である。


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