もう戻らない駅 〜バージンロードの向こう側〜
その日、私は駅にいた。何編成もの急行列車が出発を待つ始発駅だ。しかし、どのようにしてこの駅に辿り着いたのか、全く記憶がない。昨夜飲みすぎたかな....私の視界は何となく、白く霞がかったように感じている。
駅は多くの人たちで混雑していた。皆は一様にきれいな格好で、コンサートや旅行に行くかのようにめかしこんでいる。私はというと、いつもの通勤用のスーツ姿だ。
どこに行くか分からない列車に乗るわけにはいかない。私は駅の中で目に入った喫茶室に入ることにした。木目の壁で覆われて格調高く、どこかレトロ調の雰囲気の良い店だ。昔の純喫茶を思わせ、悪くない。ただ、かなり混雑している。
何とか空いている席を見つけた私に、ウエイトレスが注文を取りに来た。ブレンドコーヒーを頼むと、私に素敵な笑顔を見せた。マスターがカウンターでじっくりコーヒーを抽出している姿が見える。蝶ネクタイにベスト、白髪をオールバックにし、風格を感じさせる。
この店にいる多くの客は落ち着いた雰囲気で、笑顔で会話をしている。旅行の前なら気持ちも高揚するだろう、私はそんな事を感じていた。
コーヒーが運ばれてきた。抜群の香り高さで、口に運ぶと深い味わいが広がった。これほど美味しいコーヒーは初めてだった。香りも味も、程よく、しかし力強ささえ感じた。
あまりの美味しさに感動していた私の前に、一人のご婦人が立っていた。薄いピンク色のスーツに帽子をかぶったお洒落な方だ。
「相席、よろしいかしら」
「どうぞどうぞ、おかけ下さい」
笑みを浮かべて着席すると、婦人は私同様にコーヒーを注文した。
「これも何かの縁ね」
「はぁ…」
何の縁だろうか。コーヒーが運ばれてくると、婦人は身の上話を始めた。お子さんが3人、お孫さんが5人いるそうだ。ご主人も健在とのこと。しかしご主人の姿は見えない。そこで私は聞いてみることにした。
「今日はお一人で?」
ご婦人は少し不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに笑みを返した。
「そうよ。素敵な旅行ね」
「お召し物、とてもおしゃれですね」
「ありがとう、私のお気に入りなのよ。これを着て出発したいと、ずっと決めていたの。でも気楽な一人旅だけど、残してきた家族の事は、やっぱり気になるわね」
「皆様、ご一緒ではないのですか」
婦人は、コーヒーを一口飲んだ。
「年寄りの一人旅に付き合わせるわけにはいかないわ」
相変わらず視界から霞が消えない。
「ご主人様、寂しがるのでは?」
「そうね…主人はとても優しい人でね。ここに来る前、泣きながら私の手を握っていたわ」
「愛されていますね、素敵なお話です」
「幸せなことよね」
ご婦人が壁に掛かっている時計を見る。
「そろそろ汽車の時間。お話出来て楽しかったわ、ありがとう。あなたもご家族を愛して差し上げてね」
私は妻と10歳になる子供がいる。
「家族を愛して…か」
そう言うと、店を出ていった。婦人の姿は少しだけ若返ったように美しく見えた。今、壁の時計は2時を指している。ウエイトレスがコーヒーのおかわりを注ぎに来てくれた。
「相席、よろしいですかな」
今度はダンディな紳士だ。ビシッとスーツを着て、手にはステッキをもっている。70代後半くらいだろうか。
「出発前にコーヒーを、と思いましてね。大好きなんです」
「素敵なお召し物ですね」
「妻が買ってくれた、私の一張羅ですよ」
「ご旅行ですか?」
そう聞くと、紳士は私を不思議そうな表情で見た。
「あなたは?」
「私は…分からないのです。なぜここに居るのか」
「まぁ、そういう方もおられるでしょうな。では、ご家族の事が気がかりでしょう」
紳士はコーヒーカップを手に取り、ゆっくり飲み始めた。
「私はね、仕事仕事の毎日でほとんど家庭を顧みなかった。お金は稼げましたがね。でも、全てを妻に任せたままで...子どもの成長もろくに見られなかった。正直なところ、後悔していますよ」
「働く者の宿命でしょうか」
「まぁ、そういうことですな。そんな私にも妻は優しかった。こんなスーツを着させてくれたのですから。それにね、これを見てください」
お孫さんからの手紙が入った封筒を何通も私に見せてくれた。その後、壁の時計を見て、紳士は立ち上がった。
「では、私はこの辺で。どうもありがとう。ご家族を大切に」
喫茶室の窓から、紳士が列車に乗り込むのが見えた。先程よりも少し若々しさが見える後ろ姿だった。
何気なく壁に目を移すと、時計は1:45を指していた。おかしい…時計が逆回転している…そういう冗談が好きな店なのか。先程よりも霞が強くなってきた。私は何度も目を擦っている。一気にコーヒーを飲み干すと、いつの間にかウエイトレスがおかわりを注いでくれていた。
「相席、よろしいですか」
今度は私と同じくらいの中年男性が立っていた。着席するとため息をついていた。多くの人が楽しそうに会話をしている中、この男性は全く浮かない表情だ。
「お忙しそう…ですね」
私は声をかけた。
「まぁ…仕方ないですけど。家族と離れて暮らすことになろうとはね」
そうか、単身赴任を命じられたのか。男性は運ばれたコーヒーをすぐに飲み干し、再び大きなため息をついた。
「もっと家族と暮らしたかったですよ。娘とバージンロード歩くのが、僕の夢だったんですよ」
「娘さん、おいくつなんですか」
「10歳です」
私の息子と同じ歳だ…
「夢って…まだ先のことは分からないじゃないですか」
「うん…まぁ、そうですよね。どこにいてもね…これから先は、ある意味身軽な立場ですよね」
私は男性の話している内容が理解できなかった。身軽だとか、夢だとか…。
「でもね、妻にも娘にも、もっと優しくしておけば良かった。僕は多忙を理由にして感謝が足らなかった。後悔していますよ」
そう言うと、男性は落涙していた。
「これから返せば良いではないですか。帰ってからでも奥さんと娘さんに返しましょうよ」
男性は私に対して不思議そうな表情を隠さなかった。
「返すって言ってもね、もう遅いんですよ…私はこれで失礼します。あなたは、後悔しないようにね」
男性が店の外に出た姿は、まるで少年のように見えた。時計は1:25になっている。
コーヒーに飽きた私は、他のものを注文しようとメニューを探した。ところが、テーブルには何もない。
それだけではない。最初の夫人も次の紳士も、あるいはこの店の客全てが支払いをせずに店を出ていた。おかしな店というレベルではない。私は不安になり、店を出ることにした。マスターにお会計を申し出た。
「お代はいただきませんよ。ここから先は長いのですから」
今、私が居るのは現実の世界なのだろうか。駅の時計は1時を指している。喫茶室の時計がおかしかったのではない。それどころか、喫茶室から出てくる人々が皆少しずつ若くなっている…。
「もしかしたら、なぜここに居るのかお分かりではないのかしら」
振り向くと、先程の夫人が立っていた。いや、格好こそ同じだがかなり若い女性だ。隣には先ほどの紳士…青年が立っていた。
私は何度も瞬きを繰り返し、目を擦った。
「ここはね、自分が人生で一番輝いていた時の姿になれる場所なのよ」
女性は私に語った。
「まだあなたは姿が変わっていない。選択肢があるということだ」
先ほどの中年男性は、大学生のように見えた。確かに、私の姿は何も変わっていない。
「私もそう思う。あなたが決める事だが、戻れるなら戻る選択肢もある。列車に乗ってしまったら、もう戻れない」
「そうよ。私たちはもう、戻りたくても戻れないの」
「ご家族がいるんだよね?」
私はわけが分からなかった。戻るだの、若返るだの、何を言っているんだ。
その時、駅にアナウンスが流れた。
「間もなく1番線より、列車が発車します。この列車は、天国行きです」
私は青ざめた。これは冗談ではない。若返ったあの三人の話が全て理解できた。ここは、天国行き列車の出発駅なのだ。ここから列車に乗れば、二度と戻ることは出来ない。
三人が列車を背に揃って私を見ている。
「ご家族を大切にね」
「後悔しない決断をされてください」
夫人と紳士が言う。青年になった彼は私のところに近づいてきた。
「あなたの息子さんが僕の娘と結婚したら…あなたには、僕の分までバージンロードを歩いて欲しい」
照れくさそうに話していた。そして三人は列車に乗り込んだ。私は三人を追いかけようとした際、後ろから声が聞こえ振り返った。
「パパー!」
「先生、意識が戻ったようです!」
気づくと私の視界に、妻と息子、そして医師がいた。
終
幼い頃に見た、いまだに忘れられない夢をベースに話を構築しました。お楽しみいただけたら幸いです。




