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もう戻らない駅 〜バージンロードの向こう側〜

作者: 舞茸 満
掲載日:2026/03/04

 その日、私は駅にいた。何編成もの急行列車が出発を待つ始発駅だ。しかし、どのようにしてこの駅に辿り着いたのか、全く記憶がない。昨夜飲みすぎたかな....私の視界は何となく、白く霞がかったように感じている。



 駅は多くの人たちで混雑していた。皆は一様にきれいな格好で、コンサートや旅行に行くかのようにめかしこんでいる。私はというと、いつもの通勤用のスーツ姿だ。



 どこに行くか分からない列車に乗るわけにはいかない。私は駅の中で目に入った喫茶室に入ることにした。木目の壁で覆われて格調高く、どこかレトロ調の雰囲気の良い店だ。昔の純喫茶を思わせ、悪くない。ただ、かなり混雑している。



 何とか空いている席を見つけた私に、ウエイトレスが注文を取りに来た。ブレンドコーヒーを頼むと、私に素敵な笑顔を見せた。マスターがカウンターでじっくりコーヒーを抽出している姿が見える。蝶ネクタイにベスト、白髪をオールバックにし、風格を感じさせる。



 この店にいる多くの客は落ち着いた雰囲気で、笑顔で会話をしている。旅行の前なら気持ちも高揚するだろう、私はそんな事を感じていた。



 コーヒーが運ばれてきた。抜群の香り高さで、口に運ぶと深い味わいが広がった。これほど美味しいコーヒーは初めてだった。香りも味も、程よく、しかし力強ささえ感じた。



 あまりの美味しさに感動していた私の前に、一人のご婦人が立っていた。薄いピンク色のスーツに帽子をかぶったお洒落な方だ。



「相席、よろしいかしら」



「どうぞどうぞ、おかけ下さい」



 笑みを浮かべて着席すると、婦人は私同様にコーヒーを注文した。



「これも何かの縁ね」



「はぁ…」



 何の縁だろうか。コーヒーが運ばれてくると、婦人は身の上話を始めた。お子さんが3人、お孫さんが5人いるそうだ。ご主人も健在とのこと。しかしご主人の姿は見えない。そこで私は聞いてみることにした。



「今日はお一人で?」



 ご婦人は少し不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに笑みを返した。



「そうよ。素敵な旅行ね」



「お召し物、とてもおしゃれですね」



「ありがとう、私のお気に入りなのよ。これを着て出発したいと、ずっと決めていたの。でも気楽な一人旅だけど、残してきた家族の事は、やっぱり気になるわね」



「皆様、ご一緒ではないのですか」 



 婦人は、コーヒーを一口飲んだ。



「年寄りの一人旅に付き合わせるわけにはいかないわ」



 相変わらず視界から霞が消えない。



「ご主人様、寂しがるのでは?」



「そうね…主人はとても優しい人でね。ここに来る前、泣きながら私の手を握っていたわ」



「愛されていますね、素敵なお話です」



「幸せなことよね」



 ご婦人が壁に掛かっている時計を見る。



「そろそろ汽車の時間。お話出来て楽しかったわ、ありがとう。あなたもご家族を愛して差し上げてね」



 私は妻と10歳になる子供がいる。

 


「家族を愛して…か」



 そう言うと、店を出ていった。婦人の姿は少しだけ若返ったように美しく見えた。今、壁の時計は2時を指している。ウエイトレスがコーヒーのおかわりを注ぎに来てくれた。



「相席、よろしいですかな」 



 今度はダンディな紳士だ。ビシッとスーツを着て、手にはステッキをもっている。70代後半くらいだろうか。



「出発前にコーヒーを、と思いましてね。大好きなんです」



「素敵なお召し物ですね」



「妻が買ってくれた、私の一張羅ですよ」



「ご旅行ですか?」



 そう聞くと、紳士は私を不思議そうな表情で見た。



「あなたは?」



「私は…分からないのです。なぜここに居るのか」



「まぁ、そういう方もおられるでしょうな。では、ご家族の事が気がかりでしょう」


 紳士はコーヒーカップを手に取り、ゆっくり飲み始めた。


「私はね、仕事仕事の毎日でほとんど家庭を顧みなかった。お金は稼げましたがね。でも、全てを妻に任せたままで...子どもの成長もろくに見られなかった。正直なところ、後悔していますよ」



「働く者の宿命でしょうか」



「まぁ、そういうことですな。そんな私にも妻は優しかった。こんなスーツを着させてくれたのですから。それにね、これを見てください」



 お孫さんからの手紙が入った封筒を何通も私に見せてくれた。その後、壁の時計を見て、紳士は立ち上がった。



「では、私はこの辺で。どうもありがとう。ご家族を大切に」



 喫茶室の窓から、紳士が列車に乗り込むのが見えた。先程よりも少し若々しさが見える後ろ姿だった。



 何気なく壁に目を移すと、時計は1:45を指していた。おかしい…時計が逆回転している…そういう冗談が好きな店なのか。先程よりも霞が強くなってきた。私は何度も目を擦っている。一気にコーヒーを飲み干すと、いつの間にかウエイトレスがおかわりを注いでくれていた。



「相席、よろしいですか」



 今度は私と同じくらいの中年男性が立っていた。着席するとため息をついていた。多くの人が楽しそうに会話をしている中、この男性は全く浮かない表情だ。



「お忙しそう…ですね」



 私は声をかけた。



「まぁ…仕方ないですけど。家族と離れて暮らすことになろうとはね」



 そうか、単身赴任を命じられたのか。男性は運ばれたコーヒーをすぐに飲み干し、再び大きなため息をついた。



「もっと家族と暮らしたかったですよ。娘とバージンロード歩くのが、僕の夢だったんですよ」



「娘さん、おいくつなんですか」



「10歳です」



 私の息子と同じ歳だ…



「夢って…まだ先のことは分からないじゃないですか」 



「うん…まぁ、そうですよね。どこにいてもね…これから先は、ある意味身軽な立場ですよね」



 私は男性の話している内容が理解できなかった。身軽だとか、夢だとか…。



「でもね、妻にも娘にも、もっと優しくしておけば良かった。僕は多忙を理由にして感謝が足らなかった。後悔していますよ」



 そう言うと、男性は落涙していた。



「これから返せば良いではないですか。帰ってからでも奥さんと娘さんに返しましょうよ」



 男性は私に対して不思議そうな表情を隠さなかった。



「返すって言ってもね、もう遅いんですよ…私はこれで失礼します。あなたは、後悔しないようにね」



 男性が店の外に出た姿は、まるで少年のように見えた。時計は1:25になっている。

コーヒーに飽きた私は、他のものを注文しようとメニューを探した。ところが、テーブルには何もない。



 それだけではない。最初の夫人も次の紳士も、あるいはこの店の客全てが支払いをせずに店を出ていた。おかしな店というレベルではない。私は不安になり、店を出ることにした。マスターにお会計を申し出た。



「お代はいただきませんよ。ここから先は長いのですから」



 今、私が居るのは現実の世界なのだろうか。駅の時計は1時を指している。喫茶室の時計がおかしかったのではない。それどころか、喫茶室から出てくる人々が皆少しずつ若くなっている…。



「もしかしたら、なぜここに居るのかお分かりではないのかしら」



 振り向くと、先程の夫人が立っていた。いや、格好こそ同じだがかなり若い女性だ。隣には先ほどの紳士…青年が立っていた。



 私は何度も瞬きを繰り返し、目を擦った。



「ここはね、自分が人生で一番輝いていた時の姿になれる場所なのよ」



 女性は私に語った。



「まだあなたは姿が変わっていない。選択肢があるということだ」



 先ほどの中年男性は、大学生のように見えた。確かに、私の姿は何も変わっていない。



「私もそう思う。あなたが決める事だが、戻れるなら戻る選択肢もある。列車に乗ってしまったら、もう戻れない」



「そうよ。私たちはもう、戻りたくても戻れないの」



「ご家族がいるんだよね?」



 私はわけが分からなかった。戻るだの、若返るだの、何を言っているんだ。



その時、駅にアナウンスが流れた。



「間もなく1番線より、列車が発車します。この列車は、天国行きです」



 私は青ざめた。これは冗談ではない。若返ったあの三人の話が全て理解できた。ここは、天国行き列車の出発駅なのだ。ここから列車に乗れば、二度と戻ることは出来ない。



 三人が列車を背に揃って私を見ている。



「ご家族を大切にね」



「後悔しない決断をされてください」



 夫人と紳士が言う。青年になった彼は私のところに近づいてきた。



「あなたの息子さんが僕の娘と結婚したら…あなたには、僕の分までバージンロードを歩いて欲しい」



 照れくさそうに話していた。そして三人は列車に乗り込んだ。私は三人を追いかけようとした際、後ろから声が聞こえ振り返った。




「パパー!」




「先生、意識が戻ったようです!」




 気づくと私の視界に、妻と息子、そして医師がいた。








幼い頃に見た、いまだに忘れられない夢をベースに話を構築しました。お楽しみいただけたら幸いです。

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