表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弧律の継承者  作者: yoshiki


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

第二話 国境へ

灰が舞っていた。

それは煙で、粉で、そして——町の終わりの匂いだった。


アルトは歩いているのに、足の裏の感覚が薄かった。

目が見ているものが、自分のものじゃないみたいに遠い。


ノアは隣を歩いている。

顔が固く、指先だけが震えていた。


騎士——いや、甲冑の兵が叫ぶ。


「列を崩すな! 負傷者は前へ! 子どもは中央! 走るな!」


町はまだ燃えている。空には銀がいる。路地のどこかに魔獣が残っている。


列の先には馬車が並んでいた。

荷馬に引かれた屋根付きの輸送車。兵が誘導し、避難民を詰め込んでいく。乗る、というより押し込まれる。


兵の胸には見慣れない国章があった。

鋭い線で描かれた紋。誰かが掠れた声で言う。


「……プロイセン軍だ……」


その瞬間、列の中ほどで女が叫んだ。


「やだ……! 帰る、帰るの!」


髪は煤で固まり、頬に灰が貼りついている。腕の中は空っぽで、抱くものがないのに抱くように震えていた。


「うちの子が……旦那が、まだ……! 町に戻らなきゃ……!」


女は列を逆に押し返し、兵の腕を掴もうとした。

爪が甲冑に滑り、嫌な音を立てる。


「離せ!」


兵が腕を振りほどく。女がよろける。

それでも女は縋った。


「お願い、お願い……! 家に——家に戻して……!」


返事は、言葉じゃなかった。


兵が間合いを詰め、銃槍の柄が短く振られた。

女の肩口が鈍く鳴り、息が詰まったように膝から崩れる。灰が舞う。


「動け」


兵の声は淡々としていた。


「戻れない。ここは退避区域だ。列を乱すな」


誰かが近寄ろうとして、隣の兵に睨まれて止まった。

女は地面に顔を押しつけたまま、声にならない音を漏らしていた。


列が再び動き出す。

避難民は“護送”されていく。帰る場所を背中に置いたまま。


——そのときだ。


空が、裂けた。


「グオオオオオォォォ――――ッ!!」


獣の声だった。

なのに、耳だけで聞く音じゃない。胸の奥を掴まれ、心臓を握られるような圧が一緒に来る。胃の中がひっくり返り、視界が薄くなる。


人が止まった。

次に、崩れた。


悲鳴が上がる。

泣き声ではない。喉が勝手に裂けた音だ。


耳を塞いでしゃがみ込む者。

意味もなく笑い出す者。

子どもを抱いていた腕がほどけ、幼い身体が地面に落ちる。母親は拾うことすらできず震えていた。


アルトの視界が白く揺れた。

鼓膜の奥に釘を打たれる感覚。頭の奥に、見たくない光景が押し込まれそうになる。


ノアが歯を食いしばった。


「……来るな」


次の瞬間、列の後方で誰かが走り出した。逆方向へ。町へ。帰る、と叫びながら。


「止まれ!」


甲冑の兵の声が割って入る。

銃槍の石突きが地面を叩き、乾いた音が咆哮を切り裂いた。


「止まれ! 列を崩すな!」


走った男が兵に掴まれ、地面に押さえつけられる。

抵抗しようとした手は震え、力にならない。目が焦点を結べない。


「動け。暴れるなら縛る!」


別の兵が子どもの目を覆い、気を失った者を二人がかりで運ぶ。

泣き叫ぶ者には水をかけ、肩を叩いて正気に戻す。


乱暴だった。

けれど、あれがなければその男はここで崩れて、町へ戻って、死ぬ。


アルトは自分の指先を見た。震えている。

握ろうとしても力が入らない。歯が鳴る。


「乗れ!」


軍の声に押されるように、命令に従うように、馬車へ押し込まれる。


車輪が軋み、馬が踏み出す。

揺れが身体に来る。アルトは壁に肩を預けたまま、ただ揺れに耐えた。


ノアも同じだった。

膝を抱え、目だけが前を向いている。そこに何があるのか分からないのに、


しばらく、誰も喋らなかった。

馬車の中には他にも人がいる。すすり泣き、呻き、誰かの祈り。

けれどアルトとノアだけは、言葉を失ったままだった。


アルトの頭の中には、母さんの目が残っていた。

焦点のないまま開いた大きな目。あれが最後だと、理解してしまった目。


馬車が坂を登った。


隙間から、外の景色が見える。

町が少しずつ小さくなる。燃える屋根が、黒い煙の柱が、針みたいに細くなっていく。


——見えなくなっていく、俺たちの故郷。


あまりに失ったものが多かった。

アルトの喉が鳴った。何か言おうとして、言葉が出ない。


その時、ノアが初めて口を開いた。


「……アルト」


声が掠れていた。

泣き切った人の声だ。けれど、震えていない。


アルトは返事ができず、目だけを向けた。


ノアは町が見えなくなった方向を見たまま言った。


「あの銀のドラゴンは俺が殺す」


アルトの胸が、きゅっと縮む。

何も返事ができなかった。


アルトの拳がきしんだ。

爪が食い込み、痛みが遅れて来る。握り込んだ指の隙間から血が滲み、藁の上にぽた、ぽたと落ちた。


アルトの頭の隅に記憶がよぎる。

誰かに抱え上げられる感覚。血と煙の匂い。

そして遠ざかっていく女の人の輪郭。


——あの時も、こうだった。


アルトは、決めた。


ノアは俺が守る。


言葉にしないまま、胸の奥でだけ固める。

守れなかったものの重さが、いまはその決意の形をしていた。

読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ