第一話 銀の翼
魔術×元素のファンタジーです。少し重い描写があります。よろしくお願いします。
朝は、いつも音が先に来る。
湯が沸く小さな唸り、木の床を踏む足音、鍋蓋が擦れる金属の鳴り。そういう生活の音の隙間に、ふっと知らない記憶が混じる。
「……母さん」
アルトは布団を跳ね上げて起きた。窓の外は白い光で、冬の朝の冷気が硝子を薄く曇らせている。
台所から、養親の声が飛んでくる。
「起きた? 顔洗ってきな。朝飯、冷めるよ」
この家の主であり、アルトの育ての親だ。血は繋がっていない。
けれどアルトは、この家の匂いと声と湯気に救われて生きている。
「はーい!」
洗面所へ駆けると、廊下の角から同年代の男が出てきた。黒髪で、目が細い。表情の温度が低く見えるのに、視線だけは鋭い。
ノア。アルトより少し背が高い。
「……うるさい」
「朝は元気が正義だろ!」
「正義じゃない。迷惑」
「はは、言うと思った!」
アルトが笑うと、ノアはため息をついて視線をそらした。
「お前、また変な夢見たのか」
「変じゃない。……母さんの夢」
ノアの眉がほんの少し動いた。何か言いかけて、飲み込む癖。
それから、いつもの調子で短く言った。
「……顔洗ってこい」
「気にしてくれてんの?」
「気にしてない」
「嘘つけ」
「……うるさい」
アルトが笑いながら洗面台に向かうと、背後から別の足音が近づいた。
重くて、温かい足音。
「おー、起きたか。二人とも」
ノアの兄——ルイだ。
弟と似た黒髪だが、雰囲気は柔らかい。笑うと場の空気が軽くなる。
ルイは手を伸ばしてアルトの頭を乱暴に撫でた。
「痛い痛い! 髪ぐちゃぐちゃ!」
「元気そうで何より。今日も生きてる。偉い」
「兄貴、甘やかすな」
「甘やかしてない。褒めてるだけだ」
「同じだろ」
ルイは笑って、アルトの肩を軽く抱くみたいに叩いた。
この手は、怖い夜に、眠れないときに、何も聞かずに湯を持ってきてくれる手だ。
台所に入ると、湯気が上がった味噌汁と、白飯と、簡単なおかずが並んでいた。
鍋の前に立つ女が振り返る。
母さん——リディア。
ノアの母で、この家の主。
二人の息子とは似つかないほど目が大きく、整った顔立ち、髪はノアとルイと同じ黒で胸まである。美人、という言葉がそのまま当てはまるのに、嫌味がない。そこにいるだけで、台所の光が少し増える。
「今日は大事な日だよ。忘れてないね?」
大事な日。
アルトは箸を持ったまま、口の中にある米粒の甘みを噛みしめた。
——元素の発現検査の日。
十二歳に行われるもので、
その年齢に達した者は、誰でも元素を操れるようになるとされている。
町の全員がそれを当然のこととして受け止めている。落ち着かないのは、発現するかどうかより——何が出るか、どの系統になるかが問題だからだ。
元素は遺伝により両親と同じ系統になることが多い。
ノアは平然と味噌汁を啜った。
「今さら緊張しても変わらない」
「変わる! 気合い!」
ノアは箸を止めずに言う。
「気合いで希少元素がでるなら苦労しない」
「でるかもしれないだろ!」
ルイが、アルトの背中を叩いた。
「いいぞ。気合いは大事だ。……ま、深呼吸しとけ。変に力むと変なクセつくぞ」
母さんがふっと笑って、ノアに視線を向ける。
「ノアは金属系統だろうね。うちは代々そうだし」
ノアは少しだけ目を細めた。
「……だからって同じとは限らない」
「そうそう。分かってる。けどね」
母さんは、味噌汁をよそいながら続ける。
「金属が出たら、あんたは『やっぱり』って顔するんだろうなって思って」
ルイが笑う。
「ノアは何が出ても『ふーん』って顔するよ」
「しない」
「する」
母さんはアルトにも目を向けた。
「アルトはどうだろ。なんの系統が出るんだろうね」
アルトは一瞬だけ詰まった。
「何が出ても。……ちゃんと帰っておいで」
アルトは頷いて、箸を強く握った。
「あったりめぇよ!」
窓の外で風が鳴った。
薄い光が揺れて、朝が少しだけ眩しくなる。
その眩しさが、なぜか怖かった。
⸻
検査会場へは、アルトとノアの二人で向かった。
ルイは用事で同行できず、出がけに二人の背中を叩き、「帰りは寄り道するな」とだけ言った。
ルイは何かあるたび叩いてくる。
母さんは「遅くなったら心配する」と笑い、二人の襟元を直した。
道中、古い区画を通る。
十数年前の襲撃で焼け落ちた場所。新しい木材と石で継ぎはぎにされ、壁の色が傷跡みたいに残っている。修復した家の間に、いまも更地が混じる。そこだけ風が通り抜けて、冷たい。
アルトは視線を落とした。
胸の奥が沈む。理由は分からない。分かりたくない。
ノアが短く言う。
「……行くぞ」
アルトは頷いて、足を速めた。
会場前は人で埋まっていた。
同年代の少年少女が並び、大人たちが壁みたいに見守っている。口数は少なく、笑っているのは、緊張をごまかしたい奴だけだ。
列に並ぶ直前、肩を乱暴に押された。
「おい、金髪」
一般元素の使い手として“それっぽく”振る舞う連中だった。
相手を見て絡む。弱そうなら笑う。そういう種類の目。
「検査で希少とか出ると思ってんの? 無理だろ」
「お前らみたいなのは、せいぜい光の火花で終わりだ」
笑い声が上がる。
アルトが言い返そうとした瞬間、ノアが前に出た。
「邪魔」
目の細い視線が、まっすぐ刺さる。声は低くて静かだ。
「順番だ」
相手は一瞬、言葉を詰まらせた。
絡んでも面白くない、とでも言うように舌打ちして去っていく。
アルトは小さく息を吐いた。
「ありがとな、ノア」
「面倒が増えるのが嫌なだけ」
⸻
会場の中は静かで、中心に黒い測定器が据えられていた。
石と金属と、見たことのない透明な素材が組み合わさった装置。上部の盤面が薄く光り、そこへ手をかざす。
室内の端——さっき絡んできた連中が、列の外からこちらを睨んでいた。
笑ってはいない。目だけが熱い。
先に呼ばれたのはノアだった。
ノアは淡々と台に手を置く。
盤面が反応し、光が細い線になってノアの腕へ走った。
係員が盤面を覗き込む。
一拍置いて、声が変わる。
「元素、希少」
室内の空気が、少しだけ張った。
「系統……裂け……断。希少元素:断裂」
端の連中の目が細くなる。
悔しそうに、でも否定できないという顔。ノアはそれを見ない。
アルトの番が来た。
台に手を置いた瞬間、盤面が淡く反応した。
一般元素より明らかに強い——けれど、さっきのノアほど場を揺らさない。
光が安定しきらず、薄い層を何枚も重ねるように揺らいでいる。
係員が眉を寄せる。
「……元素、希少。確定」
ざわめきが起きる。
反応の“強さ”と、判定の“希少”が、噛み合っていないように見えるからだ。
「系統……重力…。希少元素:重力核」
端の連中が唇を噛む。
さっきまでの余裕が消える。睨みが、怒りの形に変わる。
アルトは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
胸が熱くなるはずなのに、どこか遠い。自分の結果が、手の届かない場所で決まったみたいだった。
ノアが小さく言う。
「お前も希少か」
「……らしい」
「よかったな」
アルトは頷けなかった。
よかった、と思う前に——
ドン、と。
会場のどこかが震えた。
床下から突き上げるような鈍い衝撃。石の壁がきしみ、天井の梁が短く鳴る。
室内の空気が一瞬で止まる。
次に、ざわめきが走った。
「今の……?」
「外か?」
係員が顔を上げ、誰かが入口の方を見る。
アルトとノアも反射的に顔を見合わせた。
「……行くぞ」
ノアが先に動く。
アルトも頷いて、二人は人の流れを割るようにして外へ出た。
⸻
外の匂いが、もう違っていた。
人波が、変な方向へ押し流されている。
走る足音。叫び声。
遠くで黒煙が上がり、空がゆっくりと暗くなる。
銀が見えた。
太陽の反射じゃない。
空気を裂くように降りてくる——銀色のドラゴン。
鱗が鏡みたいに光を跳ね返し、翼を打ち下ろしただけで窓が震える。建物の角が崩れ、悲鳴が遅れて町全体に広がった。
ドラゴンだけじゃない。
路地から、屋根から、地面の割れ目から、形の違う魔獣が溢れてくる。狼、虫、獣、影の塊。町が呑まれていく。
何も言わず、ノアが走り出す。その後すぐ後ろをアルトが追う。
二人は人の流れを逆に裂いて、家へ向かう。
最初に見えた被害は、転んだ人だった。
逃げる途中で足を捻り、立てずにいる老人。手を引こうとする娘。
その背後から、小型の魔獣が滑り込んできて——娘の腕に噛みついた。血が飛び、悲鳴が裂ける。老人が立ち上がろうとして転び、頭を打つ音が鈍く響いた。
アルトの喉が詰まる。
助けたい。でも止まれない。止まれば、自分も噛み砕かれる。
次の角。
木の家が半分潰れ、梁が斜めに落ちている。下敷きになった人の手が、土の上に伸びていた。指先だけが動き、すぐ止まった。
その横で、誰かが泣きながら「引っ張って」と叫ぶ。けれど引っ張る人数が足りない。泣き声が、逃げ足音に飲まれる。
ノアがアルトの腕を掴んだ。
「見るな。走れ」
アルトは反射的に足を動かした。心臓が耳の奥で鳴る。冷たい空気が肺を切り裂く。
その時、視界の端が白く飛んだ。
音が遠のく。
血の匂い。石の冷たさ。
倒れる影。赤い色。熱。
何の記憶か分からない。けれど胸の奥が、それを“知っている”とだけ告げた。
「アルト!」
ノアの声で現実に戻る。
アルトは頷き、歯を食いしばって走り続けた。
⸻
家が見えた。
玄関の前に蛇のような魔獣がいた。
長い胴がうねり、頭が獲物を咥えている。
——母さんだった。
腕が力なく垂れ、手首がだらんとしている。
大きな目は開いたまま、焦点がない。
アルトの喉が凍る。
ノアは、声にならない音を漏らして——次の瞬間、叫んだ。
「やめろ……やめろォォォ!」
泣きながら、魔獣へ走る。
足がもつれても構わず、ただ一直線に。
庭には熊のような魔獣が何かを踏みつけた跡があった。
そこに散らばる布切れ。見覚えのある上着。
ルイのものだと、アルトは理解した。理解してしまった。
世界が薄くなる。
音も匂いも、遠くへ退く。
鎧の音が割って入った。
「下がれ!」
騎士が駆け込んでくる。
ノアは抱え上げられた。暴れる腕、震える肩、喉が裂けるほどの泣き声。
「放せ! 放せよ! 母さんが……兄貴が——!」
騎士は歯を食いしばって撤退を叫ぶ。
「ここは捨てる! 生き残れ!」
ノアは抵抗した。
アルトは——抵抗できなかった。
足が、動かない。
胸の中が空っぽで、世界が作り物みたいに見える。
騎士がノアを抱えて走り出した瞬間、アルトの視界の端に“誰か”が差し込んだ。
女の人の輪郭。
熱の残る腕。血と煙の匂い。
次の瞬間には消えて、現実の鎧の冷たさだけが残る。
「アルト!」
騎士の声。
アルトの身体が遅れて動く。引きずられるように足が前へ出た。
燃える町が背後で軋む。
銀の影が空を横切り、翼の風圧が家の残骸を揺らした。
ここまで読んでくださりありがとうございます。




