第1話:その女、カワサキにつき
【SCENE 1:紀伊半島・海岸線のワインディング】
場所: 和歌山県・那智勝浦へ続く国道42号線(海沿いのカーブ) 時刻: 午前11時30分 天候:晴れ
太平洋の青い海を背に、甲高い直列4気筒の咆哮が響き渡る。 ライムグリーンのカウルが、アスファルトに深いバンク角を刻みながらコーナーを駆け抜けていく。
(カァァァーーーン!! フォン! フォォォォーーーン!!)
ライダーの視線は鋭くコーナーの出口を見据えている。 シフトダウンのブリッピング音、的確な体重移動、そしてクリッピングポイントからの鋭い加速。 その挙動に迷いは一切ない。ただ純粋に、風とマシンとの対話を楽しんでいる――ように見える。
ライダーは誰なのか。 今はまだ、フルフェイスのヘルメットの奥にある表情をうかがい知ることはできない。 ただ一つ確かなのは、このライダーが**「減速」よりも「加速」を愛している**ということだけだ。
【SCENE 2:勝浦漁港にぎわい市場】
エンジンの熱気と潮風が混じり合う駐車場。 緑の機体(カワサキ Ninja ZX-6R)が、滑り込むように停車した。
(キルスイッチを切り、静寂が訪れる)
ライダーがグローブを外し、ヘルメットの顎紐を解く。 ゆっくりとヘルメットを脱ぐと、そこから現れたのは――汗ばんだ長い黒髪と、あどけなさの残る満面の笑みだった。
ジウン: 「ぷはーっ! あっつー! けど最高やな! 今日の熊野灘、色がエグいわ!」
彼女は慣れた手つきでスマホを取り出すと、まだエンジンが熱い愛車と、背後の海を入れて自撮りを一枚。
ジウン: 「よし、『今日の相棒もイケメンすぎる』……と。投稿完了!」
【SCENE 3:マグロと映えと食欲と】
活気あふれる市場内。 ちょうど「マグロの解体ショー」が行われており、観光客の人だかりができている。
ジウン: 「おっ! やってるやってる! すんませーん! 前ちょっと空けてもらってええですかー!」
彼女は遠慮なく最前列に割り込み(悪気はない)、巨大なマグロが捌かれる瞬間を動画で撮影。 さらに、切りたての大トロ・中トロが乗った**「特上マグロ丼」**を購入し、テラス席へ。
ここで、彼女の「儀式」が始まる。
丼の角度を調整(自然光が入るように)。
箸で刺身を持ち上げ、シズル感を演出。
ポートレートモードで撮影。
インスタのストーリーズに即アップ。スタンプは『優勝』。
ジウン: 「いただきまーす! ……んぐっ、もぐもぐ……」
(カッ! と目を見開く)
ジウン: 「うっまぁぁぁぁーーー!! 脂の乗り方、暴力やん! 口ん中で溶けたで!? はぁ〜……やっぱロングツーリングのメシはほんまうまいわぁ……」
【NARRATION:彼女の正体】
ここで紹介しよう。 この豪快な食べっぷりを見せる彼女の名は、ハン・ジウン(20歳)。
大阪府・北摂大学(K大)に通う、芸術学部(総合情報学部)の2回生である。 泉州弁を操り、一見するとただの明るい女子大生だが、その実態は**「週末ごとにタイヤの溝を削り取る」**ガチのライダーだ。
彼女にとってZX-6Rは単なる移動手段ではない。「映え」の道具であり、「親友」であり、そして何より**「退屈な日常から逃走するための翼」**なのである。 ちなみに、大学のレポートの締め切りは明日だが、彼女はまだ1行も書いていない。
【SCENE 4:帰路への決意】
食後のデザートは、市場の名物コーナーで買った「ブルーシールアイス(塩ちんすこう味)」。 和歌山で沖縄のアイスを食べることに疑問は抱かない。美味しければ正義だ。
ジウン: (アイスを舐めながら、Googleマップを開く) 「さてと……満足したし、帰ろかな。 現在地は……勝浦。自宅(泉佐野)までは……」
(画面に表示された数字:198km / 3時間45分)
ジウン: 「……うげっ。 ここからまた200km帰らなあかんのかー……。 しかも帰りは渋滞巻き込まれるしなぁ。クラッチ重いねんなぁ……」
彼女の視線が、駐輪場に停まるリッターバイク(1000ccクラス)に向く。
ジウン: 「ええなぁ、リッターSS。トルクあるし楽そうやなぁ。 オートシフターも上下ついてるし……。 いっそ買い替えようかな〜。**『CBR1000RR-R』**とか……」
しかし、彼女は自分のZX-6Rを見つめ直すと、ふっと笑って首を横に振った。
ジウン: 「いやいや、浮気はあかん。 ウチはこいつ、『ロクダボ(ZX-6R)ちゃん』とズッ友なんや! 高回転まで回した時のあの『脳汁が出る音』は、こいつにしか出せへん!」
彼女は最後の一口を飲み込み、再びヘルメットを被る。
ジウン: 「よっしゃ! このくらいでくじけへんでー! 待っとれ大阪! 待っとれヨースケ(の課題ノート)!」
(キュルル、ボン!!)
エンジンに火が入る。 彼女は華麗にUターンを決めると、アクセルを大きく開け、大阪への長い帰路についた。
これから彼女を待ち受ける**「ガス欠」「ゲリラ豪雨」「インカムの電池切れ」**といったトラブルを、彼女はまだ知らない。 そして何より、帰宅後にヨースケが泣きながら待っていることも、彼女はまだ知らないのである。
(第1話 完)




