第8章 その1
王政からの新たな任務を胸に、一行は隣国メイキルクへと向かう旅路にあった。シリスの王都を出発するにあたり、王政が用意してくれた一台の馬車は、彼らのこれまでの功績と、これから担う任務の重要性を示すささやかな配慮だった。
「いやあ、馬車での移動なんて、まるで貴族様になった気分だな!」
リアンがわざとらしく足を組み、リュートを爪弾きながら言うと、向かいに座っていたミアルヴィが呆れたように鼻を鳴らした。
「あたしは、どうもこういう揺れは好かないね。自分の足で走ってる方がよっぽど速いし、性に合ってる」
「そう言うなよ、ミアルヴィ。これも王政からの信頼の証だ。それに、たまにはこうしてゆっくり話すのも悪くないだろう?」
レンが屈強な体を揺らしながら笑う。過酷な訓練を終えたばかりの彼らにとって、この馬車での時間は、張り詰めた心身を解きほぐす束の間の休息となっていた。
馬車に揺られ数日、王都の整然とした街並みは遠ざかり、車窓の風景は次第に険しい山々の姿へと変わっていった。一行は、国境を目前にした山間の「アルダ村」に立ち寄った。メイキルクへ潜入する前の、最後の補給拠点となる村だ。しかし、村の入り口に差し掛かった途端、馬車の中の和やかな空気は霧散した。
彼らの目に飛び込んできたのは、活気とは程遠い、まるで時が止まったかのような村の姿だった。家々の窓は板で打ち付けられ、道行く者は誰一人いない。あるはずの子供たちの声も、家畜の鳴き声すら聞こえず、ただ山から吹き下ろす風の音だけが、不気味に一行の耳を撫でた。
「……なんだか、妙な雰囲気ですね」
ルードが馬車を降りながら、訝しげに呟いた。一行は顔を見合わせると、村で唯一、かろうじて明かりが灯る酒場へと足を運んだ。
酒場の扉を開けると、カラン、と寂しげな鐘の音が鳴った。中にいた数人の男たちが、まるで亡霊でも見たかのように一斉に一行に視線を向け、そしてすぐに怯えたように目を逸らす。酒場の主人は、一行のような屈強な冒険者の来訪を歓迎するどころか、疲れ果てた顔で重い口を開いた。
「……旅の方か。悪いことは言わん。水と食料が欲しいなら売ってやる。だが、それが済んだら、夜が来る前にこの村を出て行った方がいい」
「何かあったのか? 村全体が、まるで墓場みたいに静まり返っているが」
レンの問いに、主人は深くため息をついた。
「あんたたちも、山を越えに来たのかね。……やめておいた方がいい。今、この山は“死の山”だ」
主人の話によると、数週間前から、山の頂付近に一頭の「ワイバーン」が住み着いたのだという。最初は夜間に家畜が消える程度だった被害は、日を追うごとにエスカレートし、ついには日中にも姿を現し、畑仕事をしていた村人を襲うまでになった。
「ワイバーン、ですか……」
その名に、エイリンだけが息を呑んだ。森で育った彼女は、古くからの伝承に詳しかった。
「大人三人を合わせたほどの巨体に、硬い鱗、そして何より、尾の針には猛毒が……。本来であれば、もっと山の奥深くに生息し、決して人里に興味を示すような魔物じゃない」
領主は隣国メイキルクとの緊張状態を理由に、国境の守りを固めるばかりで、こんな辺境の村のために兵を動かすことはなかった。アルダ村は事実上、見捨てられたのだ。
その夜、一行が宿屋の一室で今後のことを話し合っていると、突如として村全体を揺るがすような轟音と衝撃が響き渡った。地鳴りのような咆哮が、宿の窓をビリビリと震わせる。
「来たか……!」
レンが剣を手に取り、一行は慌てて外に飛び出した。月明かりに照らされた夜空に、巨大な翼を持つ禍々しい影が旋回していた。ワイバーンだ。
翼が巻き起こす暴風が、貧弱な家屋をなぎ倒さんとばかりに吹き荒れる。村人たちの絶望的な悲鳴が、夜の静寂を引き裂いた。
「きゃあああっ!」
悲鳴のした方を見ると、広場にいた一人の少女が、巨大な鉤爪に赤子のように掴まれ、宙へと吊り上げられていくところだった。
「させない!」
エイリンの声が鋭く響く。彼女が弓を引き絞り、矢を放つまで、瞬きほどの時間もかからなかった。闇を切り裂く一筋の光となった矢は、ワイバーンの足を正確に射抜く。狙いは浅く、硬い鱗に弾かれたが、その一瞬の痛みが鉤爪の力をわずかに緩ませた。
「今だ!」
リアンの声が飛ぶ。その言葉よりも速く、ミアルヴィの体が動いていた。彼女はまるで地面を滑る影のように駆け寄り、落下する少女の体を、地面に叩きつけられる寸でのところで抱きとめる。
「村の人たちを下がらせろ!」
レンが、盾を構え、恐怖で立ち尽くす村人たちの前に立ちはだかる。それは、いかなる絶望も通さないと誓った、鋼の壁だった。その背後で、フィアの詠唱が完了する。
「レク・テンブラ・ゼルヴァ!」
空気を震わせる魔弾が、夜空を駆けるワイバーンへと放たれる。決定的なダメージにはならなかったが、その魔力の奔流に危険を感じたのだろう。ワイバーンは甲高い威嚇の咆哮を一つ残すと、翼を翻して闇夜の山へと姿を消した。
後に残されたのは、なぎ倒された家屋の残骸と、ミアルヴィの腕の中で恐怖に泣きじゃくる少女、そしてワイバーンが大地に残した巨大な爪痕。このままでは、この村が滅びるのは時間の問題だろう。一行の誰もが、そう確信していた。彼らの瞳には、目の前の惨状に対する怒りと、守るべき人々を前にした静かな決意の光が宿っていた。




