第6章 その6
昼の鐘が、首都シリスの空に響き渡る。
その音を背に、リアンは再び白百合の庭を訪れていた。
香り立つ白い花々の中、レオニス・ヴェルトは既に姿を見せていた。
庭の欄干にもたれかかるようにして立ち、リアンへと目を向ける。
リアンは一礼すると、持参した小包を差し出した。
「厩の破損について、調べてきました。原因は、港にある小規模な商会に紛れ込んだ者の仕業です。
偽の印で商連を装い、仕入れた馬具に混ぜ物を入れ、あたかも“姉君の側”が関わっているかのように見せかけていた。
……名前は伏せますが、封蝋の欠片、油紙、刻印の道具、そして証言があります」
レオニスは受け取った封蝋片を指の上で転がし、しばらくそれを見つめていた。
「姉の名は――出していないんだな?」
「はい。意図的に避けました」
短く息をついたレオニスは、リアンを真っ直ぐに見据えた。
「……君は、話ができる人間だな。王政の扉には、いくつも入口がある。……そのうちのひとつを、君に貸そう」
そう言って、懐から一枚の細い印布を取り出す。
鷹の刺繍があしらわれたそれは、ヴェルト家の文庫への入室許可を示すものだった。
「午後の読書時間に、姉が文庫へ来る。もう一度、頼む。今度は彼女と、正面から向き合ってくれ」
リアンはわずかに息を呑んだが、すぐに顔を上げて微笑んだ。
「ええ。……二人に納得してもらえるように、努めます」
白百合の香りの向こうで、風が静かに方向を変えていく。
午後。
中庭を抜ける風が文書を揺らし、ヴェルト家の文庫には静かな時間が流れていた。
石造りの廊下を進み、リアンは受付に鷹の刺繍入りの印布を差し出す。
書記がそれを確認し、無言で閲覧室へと案内した。
壁一面を埋め尽くす帳簿棚。
家計、軍備、寄進、港の統計――そのどれもが、王政の根幹に関わる情報だった。
リアンは距離を取りつつ、机の上に小さな手帳だけを置いた。
この場の空気を壊さないように。
けれど、臆することもなく。
そして、扉が静かに開いた。
入ってきたのは――黒髪をすっきりとまとめた、凛とした雰囲気の女性。
アレイナ・ヴェルト。
その後ろに、侍女が二人、半歩下がって控えていた。
「あなたが客?」
「はい。リアンと申します。レオニス殿より入室の許可を受けております」
アレイナは一瞥し、やや意外そうに眉をわずかに上げた。
「吟遊詩人が、文庫に?」
「歌は今日は持ってきていません。……話をお伝えしに参りました」
彼女は無言で椅子に腰を下ろすと、卓上の砂時計を倒す。
「砂が落ちるまで。要点からどうぞ」
リアンは深く頷き、要点だけを簡潔に伝えた。
「厩の破損について調査しました。港の小商会に紛れた者が、偽印を使って商連の仕業に見せかけ、混ぜ物入りの馬具を搬入していました。昨夜、封蝋片と刻印具、樟油の染みた紙、証言を確保しております。――アレイナ殿の名は、一切出していません」
彼は小包を開き、証拠の品々を卓上に並べた。
アレイナは刻印具を指先でなぞり、刻みの浅さを確かめると、短く問いかけた。
「どこから入った?」
「港倉の三番です。“旗印の札”を持った書記を名乗る者が夜に搬入していました。厩の当番頭と下働きが証言しています」
「動機は?」
「アレイナ殿とレオニス殿の間に疑いを広げるため――現時点では、そう見ています」
アレイナは立ち上がり、帳棚から白紙の帳面を取り出すと、手早く項目を引いていく。
「日付、場所、関与者、痕跡、一次証言、二次証言――表にして渡して」
「今は概略ですが、夜までに清書して提出します」
アレイナは頷くと、別の帳面も広げて言った。
「“目の紋章”の情報も聞いています。王政に持ち込むなら、証拠と論点をきちんと分けなさい。宗教的な解釈と治安上の事実、どちらを先に置くかで、通る窓口が変わる」
リアンは静かに、しかし力強く言った。
「助言、感謝します」
砂時計の砂が半分ほど落ちたところで、アレイナは短い書状を書き上げ、それに封をしてリアンに手渡した。
「弟と話す場を、一度だけ設けます。場所は温室。家人は最小限。あなたは同席。ただし、武器なし。第三者の証人を一人――神殿の人間で」
「仲間の神官を同行させます」
「……いいわ。明日の午後、二つ目の鐘。遅れないで」
立ち上がる前、アレイナはリアンを視線だけで確かめた。
「あなた、誤解を広げに来たんじゃないわね?」
リアンは静かに微笑んだ。
「はい。……橋を作りに来ました」
アレイナは、わずかに息を吐いて――それが、肯定のしるしだった。
「なら、今はそれで十分」
文庫を出ると、廊下の陰にミアルヴィの姿があった。
フードで耳を隠し、壁にもたれるようにしていたが、リアンの気配に気づくとすぐに身体を起こす。
「どうだった?」
「……会える。明日の午後、温室で。ルードも同席してもらう」
ミアルヴィは小さく頷いた。
「了解。こっちは裏を回る。港の小商会と、偽印を作った職人の線、まだ追えるはずだから」
リアンは短く礼を返し、その足で神殿へと向かった。
ルーシード神殿の境内に入り、執務棟の一角でルードを見つけると、すぐに事情を説明する。
ルードは黙って聞いたあと、静かに頷いた。
「わかりました。私が証人になります。進行と表現は整えておきましょう。……二人が感情的になったときの、退避の合図も決めておきますか」
「杖を二回、ですね」
「それでいきましょう。……万が一に備えて」
ルードは机の引き出しから祈祷用の紙と封蝋を取り出し、形式に合った合意文の書式を並べ始めた。
明日――
兄妹の誤解を解き、王政への“橋”を築くための場が、整えられていく。




