第5章 その11
戦場には、肉の焼け焦げる匂いと、おびただしい血の鉄臭さが渦巻いていた。傷ついた仲間の荒い息遣いだけが、やけに大きく響いている。
ナベリウスの三つの首は、なおも不気味な静けさで、満身創痍の一行を見下ろしていた。
その巨大な翼は微動だにしていない。だが、その瞳は、次に屠るべき獲物が誰なのかを、冷徹に品定めしていた。
フィアは、焼け焦げた服の袖を乱暴に引きちぎりながら、ふらつきつつも立ち上がった。
その瞳に、もはや迷いも怯えもない。ただ、今この場で撃ち滅ぼすべき、絶対の“敵”だけを、まっすぐに見据えていた。
「……あなたを、ここで止める。どこにも行かせない──!」
彼女の指先に、再び純白の魔力が光の球となって凝縮されていく。
「ヴェル・シオン・ラミナ──!」
眩いばかりの魔弾が放たれ、ナベリウスの胸部に炸裂した。
その瞬間、魔鳥の巨体が大きく震え、血のように黒い霧が、その翼から激しく噴き出した。
三つの首が、天を仰ぎ、怒りと苦痛に満ちた絶叫を重ねて咆哮する。
「キ・ア=グラト・ファス=ネ=ラアアァア……ッ!」
ナベリウスは、猛り狂う怒りのままにその嘴を振り下ろした。
三つの首のうち、一本がルードへ、そしてもう一本が、未だ酩酊状態にあるレンへと、牙を剥く。
「来る……っ!」
ルードは即座に身を翻した。
剃刀のように鋭い嘴が肩先をかすめ、神官服が音を立てて裂ける。だが、致命傷には至っていない。
レンもまた、朦朧としながらも、本能だけでその身をよじり、かろうじて剣を盾にして、魔鳥の突きを受け止めた。
「おらっ……まだだっ!」
盾に激しい火花が散るが、レンは倒れない。
サキュバスの呪いがその思考を蝕もうとも、彼の闘志だけは、いまだ少しも消えてはいなかった。
ルードは、すぐさま己の胸に手を当て、祈りを捧げる。
「……奇跡よ、我が身に癒しを」
中程度の傷を癒す奇跡の光が流れ込み、裂かれた傷口と、全身を苛む痛みが、みるみるうちに洗い清められていく。
彼の瞳が、再び神官としての鋭さを取り戻した。
その隙を突き、エイリンが矢をつがえる。
「──ミアルヴィのぶん、きっちり返させてもらうっ……!」
放たれた矢は、スケルトンの肩口に深々と突き刺さり、骨片を派手に撒き散らした。
カラカラと乾いた音を立てて、スケルトンが剣を構え直す。
そして、今度はレンへと狙いを定め、ロングソードを振り下ろした。
だが、その一撃はレンの分厚い鎧と盾に阻まれ、傷一つ与えることはできなかった。
「チッ……骨のくせにしつこいんだよ!」
レンが、返す刀でナベリウスへと剣を振るう。
だが──ふらついた足が、どうしても言うことを聞かない。剣の軌道が、またしても大きく逸れた。
「ぐっ……! なんで、当たらねえんだ……!」
サキュバスの酩酊の魔法が、未だに彼の平衡感覚を狂わせているのだ。
それでもなお、レンは倒れなかった。
戦いは、すでに命を削り合うだけの消耗戦へと変貌していた。
誰もが傷つき、倒れ、それでもなお、歯を食いしばって立ち上がっていた。
異界の魔鳥ナベリウスは、三つの首を振りながら、怒りと苦痛に満ちた咆哮を上げ続けている。
──そして、未だに、この戦いを終わらせる気配を微塵も見せなかった。
「これで、終わらせる……!」
フィアが、血に濡れた指先を己の魔力で浄めながら、最後の詠唱を始める。
その声は、驚くほど静かで、揺るぎなかった。
「ヴェル・シオン・ラミナ……! 裂けて、穿て──!」
これまでとは比較にならないほど巨大な純白の魔弾が、疾風の如く空を駆ける。
そして、ナベリウスの胸部、黒く濁った核のような部位に、吸い込まれるように直撃した。
「ギャアアアアアアアァアァ……ッ!」
三つの首が、断末魔の絶叫を上げる。大きく広げられた翼が、力なく垂れ下がった。
やがてその巨体は、音もなく崩れ、おびただしい黒い羽を撒き散らしながら──
まるで陽炎のように、霧となって消えた。
フィアは、安堵の息をつきながら、その場に膝から崩れ落ちる。
その華奢な体を、ルードが力強く支えた。
「終わった……?」
「……いいえ、まだ一体、残っています」
その視線の先で、スケルトンが、主を失ってもなお、剣を構えたまま佇んでいた。
ルードは、再び祈りの言葉を紡ぐ。
「──ルーシードよ、我らが友に、再び立ち上がり、歩む力を……」
聖なる光が、倒れ伏したミアルヴィに降り注ぐ。彼女の体が小さく痙攣し、うっすらと目を開いた。
「……っ、う……なに……っ?」
「戻ってこい、ミアルヴィ。まだ、何も終わってはいないぞ」
ミアルヴィは、ルードの言葉ですぐに状況を察し、黙って頷いた。
エイリンが、最後の一本となった矢をつがえる。
「アンタも、仲間たちのところに送ってやる──!」
放たれた矢は、スケルトンの肋骨の隙間に深々と突き刺さった。
骨に大きな亀裂が走り、その剣の動きが、明らかに鈍る。
レンが、最後の力を振り絞り、力任せに剣を振るった。
だが、体は限界だった。大きくふらつき、その剣は虚しく空を裂いただけだった。
「くそっ……! なんで、こんな大事な時に、酔ってる暇なんか……!」
酩酊の呪いの残滓が、なおも彼の自由を奪っていた。
最後に──フィアが、ゆっくりと前に出る。
その瞳は、深い疲労の奥で、確かな決意の光に満ちていた。
「終わりよ。もう、目を、閉じなさい」
放たれた魔弾は、もはや光ではなかった。
純白の“槍”が、スケルトンの頭部を貫き──その骸骨は粉々に砕け散り、手にした剣が床に落ちて甲高い音を立てた。
そして、残された体もまた、力を失ってその場に崩れ落ちた。
──ようやく、沈黙が戻った。
血の匂いと、肉の焼ける異臭だけが残された石造りの回廊。
誰も、すぐには声を上げられなかった。ただ、互いの呼吸を確かめるように、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
やがて、リアンがゆっくりと身を起こした。
「……お、俺……どうやら、まだ死んじゃいないみたいだな……?」
「ええ。今は、まだ生きています」
ルードが、その肩にそっと手を置く。
ミアルヴィが、ふらつきながらも立ち上がり、尻尾を軽く揺らした。
「……あの鳥、気に入らなかった。あの声も、忌々しい羽も、全部」
「でも……まだ、終わっていない」
フィアが、祭壇の奥にそびえる巨大な扉を、まっすぐに見つめて言った。
「この先に、全ての元凶である儀式の本体がある。──“深き目の徒”の祭壇が。私たちは、それを止めなければ」
そして、一行は再び歩き出す。互いの傷ついた体を支え合いながら、最後の戦いが待つ場所へと。




