第3章 その7
遺跡の内部へと続く石の階段を降りた瞬間、空気が死んだ。
外の森とはまるで違う――湿り気を帯び、埃と黴が混じり合った、澱んだ時の匂いが鼻腔を刺す。肌にまとわりつく石の冷気が、じわりと体温を奪っていくようだった。闇の奥から、ぽつり、ぽつりと水滴がしたたり落ちる音だけが、不気味に響いている。
「真っ暗闇ね……。ルード、お願いできるかしら」
フィアの静かな声に応え、神官ルードは静かに頷くと、そっと右手を掲げた。
「――我らの道を照らせ、ルーシードの導きの光よ」
彼の手のひらに、小さな太陽が生まれたかのように柔らかな金色の光球が灯る。光は呼吸するように明滅し、周囲の闇を払った。そこに浮かび上がったのは、悠久の時を経て風化した壁画、無残に崩れ落ちた石像、そして行く手を阻む瓦礫の山だった。
「モンスターが出るって話だったが、妙に静かじゃないか」
リアンが剣の柄に手をかけ、警戒しながら呟く。
「静かすぎるわ。まるで墓場ね。……いいえ、それ以上の何かがいる」
ミアルヴィが猫のようにしなやかに壁際へ身を寄せ、耳をぴくぴくと動かした。その時、光の輪の先で、何かが蠢くのをレンが見つける。
「おい……何か、動いてるぞ。壁にも、床にも……!」
ルードが光球をそちらへ差し向けると、闇の中からぬらり、とそれが姿を現した。
緑がかった半透明の粘液の塊。決まった形を持たず、ただ不気味に脈動する、巨大なアメーバ。それが四体、床や壁に張り付くようにして蠢いていた。
「……スライム。数は四。厄介よ」
フィアが忌々しげに呟く。
「書物で読んだことがある。物理攻撃はほとんど効かず、酸の溶解液を吐き、獲物を丸呑みにする……弱点は、炎」
「なるほど、物理は効かないと来たか! ならば、この俺が試してやろう!」
リアンが一番近くにいたスライム目掛け、レイピアを閃かせて飛びかかった。しかし、鋭い突きは、ぶるん、と粘液の体を揺らしただけで、抵抗もなく受け流されてしまう。
「なっ……! こいつ、動きが読みづらい!」
リアンが体勢を立て直すより早く、別のスライムが床から剥がれるように跳ね上がり、巨大な水袋となってレンに襲いかかった。
「うおっ、危ねえ!」
間一髪で横に跳んで避けるが、背後で粘液が床を叩くねっとりとした音が響く。
「フィア!」
「――《ヴェル・イグナス・ラミナ》!」
フィアの詠唱に応え、レンのバスタードソードに、まるで生きているかのように炎が絡みついた。灼熱を宿した剣が、淡い赤色の光を放つ。
「よし!これでどうだ!」
反撃に転じたレンが、炎の剣をスライムに叩きつける。じゅっ、と肉の焼けるような音と黒煙が上がり、スライムの体が大きく揺らめいた。
「手応えはねえが、効いてる!やっぱり火が弱点だ!」
「援護する!」
エイリンが弓を引き絞り、矢を放つが、狙いは惜しくもぬるりと逸れてしまう。
「くっ、的が絞りにくい……!」
その時、後方のスライム二体が同時に蠢動し、その体内から酸の溶解液を吐き出した。一つはレンの頭上をかすめ、もう一つはリアンが転がるようにして避ける。粘液が石壁に付着し、しゅうしゅうと音を立てて白煙を上げた。
「なんてこった、遠距離攻撃まであるのか!」
リアンが悪態をつく。
「こっちに気を引きなさい!」
ミアルヴィがレンからダメージを受けたスライムへと躍りかかり、ショートソードを突き立てる。ぬちり、とした感触と共に剣は深く沈むが、確かな手応えはない。
「やっぱり斬撃は通りにくい……けど、確実に削れてはいる!」
そのミアルヴィを庇うように、リアンが再びレイピアを構える。
「もう一度だ!」
しかし、スライムはまたもその攻撃を柔らかくいなした。
「こいつ、動きが気持ち悪い上にしつこい!」
「下って、リアン! 今度は私の番よ――!」
フィアの杖の先に、先程よりも遥かに大きな魔力が集束する。
「焼き尽くしなさい! 《ヴェル・イグナス・ラミナ》!」
灼熱の魔弾が唸りを上げて飛翔し、リアンを翻弄していたスライムに直撃した。粘液の体が一瞬にして沸騰し、爆ぜ、跡形もなく蒸発していく。
「一体、撃破!」
「ナイスだ、フィア!」
レンが雄叫びを上げ、炎の剣を再びスライムに叩き込む。しかし、敵もさるもの、巧みに身をよじって致命傷を避けた。
「しぶとい!」
「援護します! ――《士気高揚》!」
ルードの祈りが、光となってレンに降り注ぐ。体が軽くなり、闘志がみなぎるのを感じた。
だが、その一瞬の隙を、敵は見逃さなかった。
残る二体のスライムのうち一体が、レンを狙って溶解液を射出。レンがそれを避けるために体勢を崩した、まさにその瞬間、最後の一体が床を滑るように高速で移動し、リアンの背後から巨大な口となって覆いかぶさった。
「しまっ――!」
リアンの悲鳴は、粘液の塊に飲み込まれて途切れた。上半身を完全にスライムに呑み込まれ、もがく足だけが虚しく床を掻いている。
「リアンッ!!」
エイリンの絶叫が、静まり返った遺跡の闇に木霊した。




