プロローグ その2
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れた。なんでアタシが神官の仕事に付き合わなきゃならないのか。
ミアルヴィは、うんざりした気持ちを隠しもせず、街の石畳をブーツで蹴るように歩く。
朝の下町は、まだ眠たげな空気に満ちていた。煉瓦造りの建物が落とす影はまだ濃く、夜の霧の名残りを引きずっている。路地の隅では猫が丸くなり、パン屋が薪窯を温める音が、くぐもって聞こえてきた。
そんな気怠い喧騒のなか、隣を歩く男――ルードは、真面目くさった顔でまっすぐ前だけを見つめている。
「……嫌味なほど、誠実な男」
ミアルヴィは彼の横顔をちらりと盗み見て、すぐに視線を逸らした。その瞳は、真昼の湖のように澄みきっている。猫のように、影に隠れて跳ね回るような生き方をしてきた自分には、その清廉さがむしろ居心地悪かった。
「すまない、付き合わせてしまって。本来なら一人で……」
「言わなくていい。あのクソ親父が押しつけたんだろ。『そういうのは、あいつの方が得意だろう』ってね」
「……ああ。その通りだ」
ルードが苦笑する。ミアルヴィは、ふん、と鼻を鳴らした。
昨夜、教会から「下町で起きている幽霊騒ぎの調査」を命じられたルードは、真っ先に「栄光亭」の主人、ブルノ・ガルザを訪ねた。下町の情報に通じた人物といえば、あの男の右に出る者はいない。
だが、抜け目のない酒場の主人は、情報を渡す代わりにミアルヴィを同行させるよう命じたのだ。
――やれやれ。親父というのは、便利な駒を手元に置くと、すぐにこき使いたがるものだ。
「ここだ。例の部屋は、この路地の先にある古いアパートらしい」
ルードが指差す先には、年季の入った木造の建物が、まるで街の影のようにひっそりと佇んでいた。元は倉庫だったものを、無理やり居住用に改装したのだろう。歪な造りの壁。ところどころ割れた窓。剥げかけたドアの塗装が、痛々しい。
「数週間前から、夜になると“泣き声”が聞こえる、と。最初はただの風の音だと思われていたが……今では借り手が次々に逃げ出し、空き部屋になったそうだ」
「で、今は誰もいない。なのに、隣人が怖がってる、と」
「ああ。放置すれば、噂はさらに広がるだろう」
「はいはい。聖職者様のお仕事ね」
ミアルヴィは肩をすくめ、アパートを見上げた。
古びた建物。泣き声。誰もいないはずの部屋。
ありふれた話だ。
「行くわよ。さっさと終わらせて、昼には帰る」
アパートの階段は、一歩踏み出すごとに軋み、崩れ落ちそうな悲鳴を上げた。
目的の部屋は二階の奥。日の当たらない廊下の突き当たり。ドアの前に立つと、隙間から冷たい空気が漏れ出ていた。
「……最悪。埃っぽいし、床も抜けそう」
ミアルヴィは鼻をつまみ、ドアノブに手をかける。軋む音を立て、古びた扉が開いた。
中は、想像以上の荒れようだった。脚の折れた机。傾いた棚。部屋のすべてが、乾いた埃のヴェールをかぶっている。
「誰も住んでないってのは、本当みたいね」
ミアルヴィが足を踏み入れると、床板が小さく軋んだ。
背後から静かに入ってきたルードは、部屋の中央で胸元から聖印を取り出す。
「……ルーシードよ、導きたまえ。この場に迷える魂あれば、我らに知らせたまえ」
祈りの言葉とともに、聖印が淡い光を放つ。空気が、わずかに震えた。
「……いる。ここに、何かが。はっきりとはしないが、霊的な痕跡が残っている。おそらく、夜になれば――」
「やっぱり。そっちは神官様にお任せするわ」
ミアルヴィは猫のようにしなやかな足取りで、部屋の調査を始めた。
棚の隅に手をやると、乾いた紙くずが落ちる。拾えば、染みのついた古いメモの切れ端。文字は滲んで読めないが、端に花のような飾りが描かれていた。
「……女の子の手紙、かしら」
視線を巡らせ、気づく。部屋の隅、窓際の床に、そこだけ色が違う板がある。指でなぞると、乾ききった血の痕が、ざらりと触れた。
「ルード、これ」
呼びかけると、彼がすぐに傍らへ来た。その床を見て、表情を引き締める。
「……血だ。ずいぶん古い。ここで、何か事件が」
「ただの幽霊騒ぎじゃ、なさそうね」
ミアルヴィはぼろ布でメモを包み、ポケットにしまった。
この部屋には、重く沈んだ空気が澱んでいる。まだ姿は見えない。だが、“何か”がいることは、確かだった。
「どうせなら、夜まで付き合ってあげる。やるからには、根っこから断ちたいし」
「ありがとう。頼りにしているよ、ミアルヴィ」
……その真っ直ぐな笑顔が、余計にむずがゆい。
ミアルヴィはぶっきらぼうにそっぽを向き、窓辺の埃を指で拭った。
部屋に、夜の気配が満ちていく。
遠くで街の喧騒が聞こえ、風がカーテンを揺らした。
その、瞬間だった。
足元から、這い上がるような冷気。部屋の隅に、白い影がふわりと浮かび上がった。
「……来た」
ミアルヴィは息を詰める。それは人の形をしていた。若い女――まだ十代か、そこそこか。顔立ちは判然としない。だが、その姿がまとう悲しみだけが、痛いほど伝わってきた。
霊は音もなく窓辺に立ち、じっと外を見つめている。
「……誰かを、待ってる」
その呟きに応えるように、霊の肩が微かに震えた。声はない。だが、泣いていた。
「霊力は安定している。怒りではない。強い執着だけが、彼女をここに留めているようだ」
ルードが、聖印を構えながら静かに言った。
ミアルヴィは昼間見つけたメモの切れ端を思い出す。滲んだインク、花の飾り。そして、家具の裏に見つけた、奇妙な彫り込み。
引き出しの裏に、小さく刻まれた文字。
――“リュカ、必ず一緒に行こうね。私、ちゃんと準備して待ってるから”
「……駆け落ち、だったのかも」
ぽつりと、ミアルヴィが呟いた。
「駆け落ち?」
「この部屋の様子、手紙、そしてこの彫り込み。誰かを信じて、ここで待っていた。でも……男は来なかった。金目の物だけ持ち逃げ、ってとこでしょ。あの血の跡は……絶望の末に」
口にして、自分でも背筋がひやりとする。
「……可哀想な人だ」
ルードの声が小さく揺れた。
「それだけじゃない。彼女が執着する“何か”が、まだこの部屋にあるはず」
ミアルヴィは床にしゃがみ込み、指で板の継ぎ目をなぞる。その一つに、わずかな隙間を見つけた。
「……あった」
細いナイフを差し込んでこじ開けると、乾いた音とともに、小さな物が姿を現す。
銀のブローチだった。
葉をかたどった繊細な細工。古びてはいるが、丁寧に磨かれていたことがわかる。
「これが、彼女の“大事なもの”」
ブローチを手にした瞬間、霊が、ゆっくりとこちらを振り返った。涙の跡のように光が頬を伝い、その口元が、微かに綻んだように見えた。
「ルード。あんたの出番」
「……ああ」
ルードはブローチを両手で包み、静かに霊へと差し出す。
「あなたの想い、確かに。もう、安らかに」
その言葉に、霊はそっとブローチへ手を伸ばし――そして、光の粒となって、消えた。
部屋に、しんとした静寂が落ちた。
霊が消え、部屋には時が止まったかのような静寂が戻っていた。
それは不気味なものではなく、むしろ、永い間閉ざされていた部屋が、ようやく呼吸を取り戻したような、穏やかさだった。
「……終わった、のかしら」
ミアルヴィはブローチのあった床を一瞥し、立ち上がる。窓辺にはもう何もなく、ただ風に揺れるカーテンが、名残のように揺れていた。
「彼女は、最後に想いを知ってもらえた。それだけでも、救いになる」
ルードが祈るように目を閉じる。その姿に、ミアルヴィは少しだけ目を細めた。
「……あんたは、本当に真っ直ぐね」
そう言って部屋の空気を軽く払うように手をひらひらと振ると、彼女はふと思いついたように、部屋の家具へと視線を向けた。
「ちょっと待って。あのブローチがあったってことは、まだ何か隠してるかもしれないわよ、この部屋」
「まだ……何か?」
「うん。こういう時って、“見つけてほしいもの”ってのが、もう一個くらい残ってるもんなのよ」
ミアルヴィは壁際の引き出しに近づき、無造作に中を漁る。紙切れ、ボタン、ひび割れた櫛。だが、その奥の板がわずかに浮いていることに気づき、目を細めた。
「……やっぱり」
指で板をこじ開けると、埃をかぶった古い封筒が現れた。羊皮紙製の、手紙というよりは“文書”に近い厚み。そして、その封には、蝋が丁寧に押されている。
ミアルヴィは眉をひそめた。
「……これ、見て」
ルードが封蝋に目を落とした瞬間、その顔がこわばった。
そこには――奇妙な「目」の紋章が刻まれていた。幾何学的で、ただの飾りにしては、あまりに意味深な形。
「……何の印だ?」
「見たことない。けど、悪趣味なのは確かね」
ミアルヴィは封を切る。中には、何も書かれていない白紙の羊皮紙と、小さな金属板が一つ。
金属板は冷たく、異様に古びていた。そして、そこにも――封蝋と同じ「目」の紋章が、はっきりと刻まれていた。
「……幽霊騒ぎのついでに、こんなもんまで出てくるとは思わなかったわね」
ミアルヴィはぼそりと呟き、金属板を慎重に包み直す。
「ただの未練話だと思ってたけど、これ……そうじゃないかも」
その言葉に、ルードも神妙な面持ちで頷いた。
「偶然にしては、妙だ。封印された文書、謎の紋章……魔力の痕跡はない。だが、意図的に残されたとしか思えない」
「ねえ、ルード」
「なんだ?」
「アタシたち、とんでもないことに首、突っ込んじゃったんじゃない?」
ルードは、少し困ったように笑った。
「だとしても……見つけたのが、僕たちでよかった」
「はぁ……」
ミアルヴィは深くため息をつき、ポーチに金属板と封筒を滑り込ませた。




