第3章 その1
オストヴァルの片隅、宿屋「明日の栄光亭」の裏手。埃っぽい路地に隠された地下への扉が、錆びついた蝶番の悲鳴を上げてゆっくりと開いた。
ミアルヴィは振り返ることなく、その闇へと慣れた足取りで階段を下りていく。湿り気を帯びた石の匂いと、微かな黴の匂いが混じり合った冷たい空気が、彼女の頬を撫でた。灯りを持たずとも一歩一歩を踏みしめて進めるのは、この場所が彼女にとって、ただの隠れ家ではなく、獣としての本能を研ぎ澄ませてきた“巣穴”にも等しい空間だからだった。
地下室は広く、壁沿いには未知の大陸が描かれた古地図や、使い込まれて鈍い光を放つ武器の数々、そして分厚い帳簿の山が、混沌としながらも一つの法則性を持って積まれている。中央の円卓では、数人の男女が酒杯を片手に言葉少なに語らっていたが、ミアルヴィの姿を認めると、無言のまま片手を挙げて応えた。
「よう、ちび猫。お帰りってとこだな」
「ちび言うな、ドラン」
憎まれ口を叩きながらも、その声には敵意がない。肩をすくめてみせた彼女の前に、部屋の隅の扉が開き、太い腕を組んだ中年の男が現れた。ブルノ・ガルザ――表の顔は陽気で冗談好きな宿の主人だが、裏の顔は犯罪組織「トゥームレイダーズ」の幹部にして、故郷を知らぬミアルヴィにとって唯一の“育ての親”と呼べる存在だった。
「おぉ、来てたか。どうした、そんなに急いで顔を出すなんて、何か厄介ごとか?」
「ちょっと調べてほしいモノがあるの」
ミアルヴィは卓の端に腰を下ろすと、革のポーチから一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、旅の途中で遭遇した、あの不気味な「目の紋章」が走り書きされている。
「こんな印……この辺りで見たことない?」
円卓を囲んでいた者たちの間に、一瞬、緊張が走った。紙を覗き込んだ構成員たちが、訝しげに顔を見合わせる。
「見覚えはねえな……。どっかの新興教団の紋章か? 悪趣味なこった」
「封印された古代遺跡に関係があるかもしれない。何か心当たりは?」
ミアルヴィの言葉に、ふと誰かが呟いた。
「……もしかしたら、あれと関係があるのかもしれないな」
呟いたのは、痩せぎすで神経質そうな男だった。情報収集を得意とするライという男が、薄い金髪を指で梳きながら、記憶の糸を手繰り寄せるように目を細める。
「……東の森の奥にある、古い遺跡のことだ。連中の間じゃ“開かずの扉”って呼ばれてる。どんな腕利きの盗賊も、高名な魔法使いでさえも、こじ開けられなかったっていう、いわくつきの扉がな」
「いつの話?」
「つい一週間前だ。近くの村の猟師が話してた。最近、その遺跡の周りで妙な魔物の目撃情報が増えてて、気味が悪いから誰も近づかねえってよ」
ミアルヴィの黒い猫耳が、ぴくりと鋭く動いた。
「その扉、何かが封印されてるってこと?」
「ああ。扉の向こうから、何か強大な魔力の残滓が漏れ出てるらしい。扉の前に立つと、まるで巨大な獣に睨めつけられているような、肌が粟立つような感覚がするそうだ」
ブルノが、ゴクリと喉を鳴らした。
「目の紋章が直接関係してるかは分からんが……お前が首を突っ込む価値はありそうだな。だが、危険な匂いもする」
ミアルヴィは、こくりと静かに頷いた。
「分かった。あいつらには、それとなく話してみる。“腕のいい情報筋から聞いた”ってことにしておく」
「あいつら、ね……。お前にも、ようやく仲間と呼べる奴らができたか」
ブルノの言葉に、ミアルヴィは顔をしかめる。
「うるさいな、そんなんじゃない」
「まあ、どう話すにせよ、組織のことはまだ伏せておけ。お前の、その“仲間”とやらにバレるのは面倒だ」
ブルノの声は、いつになく静かで重かった。ミアルヴィは何も答えず、ただ静かに背を向ける。
「……うん、分かってる」
その小さな背中に、ブルノが祈るように言葉をかけた。
「死ぬなよ、ミアルヴィ。どうにも、嫌な予感がする」
ミアルヴィは答えず、ただ階段を上っていった。その胸の奥には、ブルノの言葉が重い錨のように沈んでいる。仲間たちと共にいるという微かな温もりと、彼らを巻き込むことへのためらい。そして、未知なる危険への、抑えきれない冒険心。
やがて、再び軋む音とともに、地下室の扉が外界の光を遮断するように、静かに閉じられた。




