第2章 その4
ヴェリナの示したバルコニーへと続く扉の近く。そこにいるはずの標的を人混みの合間から探していたエイリンは、はっと息をのんだ。
「……いない!」
さきほどまで柱の陰に立っていたはずの、あの仮面の男の姿がどこにもない。まるで闇に溶けてしまったかのように、忽然と消えていた。
「どういうこと……!? 見失ったっていうの!?」
焦りを露わにするエイリンの肩を、隣にいたリアンがそっと掴んだ。
「落ち着いて、エイリン。僕の“物語”の登場人物が、そんな顔をしちゃいけない」
彼は悪戯っぽく片目をつむくと、仮面の下で唇の端を吊り上げた。
「ここは詩人に任せてもらおう。僕の歌声で、外にいる“観客”たちに、物語の続きを知らせてあげるのさ」
リアンはひらりと身を翻し、楽団がいるステージの隅へと向かった。そして、手にしたリュートを爪弾き、張りのある声で歌い始める。それは、この地方に古くから伝わる恋の歌。だが、その一節だけが、本来の歌詞とは異なっていた。
「――月影の君よ、姿を隠し。静寂の間に、何を想う――」
その歌声は、開け放たれた窓から夜の庭園へと流れ出ていく。
一方そのころ、屋敷の裏手で息を潜めていたレンとルードの耳にも、その歌は届いていた。
「……リアンの奴、また目立って……」
呆れたように呟くレンの隣で、ルードが静かに目を開いた。
「いえ、これは合図です」
「え?」
「『月影が姿を隠した』……目標を見失った、という意味でしょう。そして、続く歌詞は『静寂の間』。おそらく、奴は音のしない場所……地下へ向かった可能性を示唆しています」
ルードの冷静な分析に、レンはごくりと喉を鳴らす。
「宝物庫か……! あいつの狙いは、やっぱりそっちだったんだ!」
「急ぎましょう。手遅れになる前に」
二人は頷き合うと、音を立てずに駆け出した。豪奢な廊下を抜け、石造りの階段を駆け下りる。薄暗い地下通路の先で、彼らが目にしたのは、壁に寄りかかって倒れている警護の兵士の姿だった。
「おい、大丈夫か!」
レンが駆け寄って肩を揺らすが、兵士は意識を失っている。幸い、命に別状はなさそうだ。
「もう中に……!」
ルードの言葉を遮るように、通路の奥、重厚な鉄扉の向こうから、きぃ、と鈍い軋みが聞こえた。
二人が宝物庫の扉を押し開けると、そこにいたのは――仮面をつけた一人の男。
長身のその男は、手にしたロングソードを無言で構え、まるで感情のない人形のように、二人を見据えていた。
男が動いた。
静寂を切り裂くように、一閃。ロングソードが唸りを上げてレンへと振り下ろされる。
「くっ……!」
レンは咄嗟に身を引き、刃が頬をかすめる。紙一重の回避だった。
「今度はこちらからだ!」
レンは腰の剣を抜き返し、間合いを詰めると、渾身の力でロングソードを横一文字に薙いだ。
鋭い衝撃音。仮面の男の身を打ち、わずかによろめかせる。確かに手応えがあった。
「レン!」
ルードが祈りの言葉を紡ぐと、彼の手から光があふれ、レンの背へと流れ込む。
「ルーシードの加護よ!」
レンの瞳が力強く輝いた。乱れた息が整い、身体が一層軽くなるのを感じる。
「ありがたい!」
仮面の男が即座に反撃に転じた。今度の一撃は先ほどよりも鋭く、レンの肩口を浅く捉える。
「ぐっ……!」
斬撃が肉を裂き、血が滲む。だが、致命傷には至っていない。
「まだやれる……!」
レンが吠えるように剣を振るう。だが、男は体を捻って紙一重でかわした。
すかさずルードが再び祈りの言葉を紡ぐ。
「聖なる光よ、その傷を癒したまえ!」
柔らかな光がレンを包み、肩の傷が瞬く間にふさがっていく。
「助かった!」
その瞬間、仮面の男が懐から巻物を取り出し、素早く展開した。
「……魔法の巻物か!」
「止めさせてもらう!」
レンが切りかかるが、男は体を引いて一太刀をかわす。
次の瞬間、巻物が燃え尽きると同時に、眩い閃光が宝物庫内に炸裂した。
「――っ!」
「目が……っ!」
視界が真っ白に染まり、レンとルードは反射的に目を閉じてしゃがみ込む。
レンは目を細めながら、剣を突き出して反撃を試みるが、その刃は空を切るだけだった。
「くそっ、見えない!」
ルードは咄嗟にレンの背へ回り込むようにして、身構えた。
「落ち着いてください、レン! ここは防ぎに徹するべきです!」
だが、次の瞬間――仮面の男の気配が、風のように二人の間を駆け抜けた。
「待て!」
レンが振り返って剣を振るう。ルードも体勢を立て直して追おうとする。
だが、仮面の男はするりと彼らの刃を避け、そのまま闇の廊下へと消えていった。
「逃げられたか……」
その場に残されたのは、男の踏み跡と、消えかけの光の残滓だけだった。




