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六つの運命と深淵の眼  作者: toritoma
プロローグ
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プロローグ その1

 夜明けの空は、村を囲む深き森の彼方から、希望の朝陽を静かに迎え入れていた。

 鳥たちのさえずりも、いつもの朝と変わらない牧歌的な調べを奏でる。

 だが、エイリンの胸には、抑えきれない高揚と、微かな不安が入り混じった、特別な鼓動が響いていた。

 今日という日は、ただの朝ではない。新たな世界への扉が開かれる、旅立ちの日なのだから。

 

 小さな村の広場には、行商隊の馬車が数台、威容を誇るように並び、荷を積み込む賑やかな音と人々の活気ある声が満ちていた。

 見慣れた顔ぶれの村人たちが、名残惜しそうに、あるいは期待に満ちた眼差しで馬車を見送っている。その中に、エイリンの父、タルグの姿もあった。

 

 無骨な大斧を片手に森で生計を立ててきた父は、常に厳格で、冗談一つ口にしない寡黙な人だった。

 エイリンが冒険に出たいと打ち明けた時も、「夢を追うのは構わん。だが、帰る場所を忘れるな」と、ただそれだけを言い放った。

 それが、父なりの許しであり、無言のエールなのだとエイリンは知っていた。

 

 だが今、父は何も語らず、ただそこに立っていた。大きな手はぎゅっと固く拳を握り、少しだけ俯いた横顔は、微かに震えているように見えた。

 

 「……父さん」

 そっと名を呼ぶと、タルグはゆっくりと顔を上げた。エイリンと目が合った瞬間、その厳しかったはずの表情に浮かんだのは、誇らしさと寂寥、そして深い愛情が入り混じった、これまで見たことのない複雑な感情だった

 

「気をつけて行け。あまり無茶はするなよ、エイリン」

 その短い言葉に、エイリンの胸の奥も熱くなる。だが、旅立ちの朝に涙は見せたくないと、ぐっと背筋を伸ばした。

 「うん! ちゃんと帰ってくるよ。ちゃんと、世界中の冒険譚を、お土産にね!」


 エイリンの隣には、幼馴染のフィアが立っていた。

 長くしなやかな銀髪が朝の光を受けてきらめき、澄んだ青い瞳は、既に遥か遠い地を見据えているかのようだった。

 フィアのそばには、義母のセリナが寄り添う。優しさと厳しさを兼ね備え、魔法の師として、そして母として、常にフィアを支え導いてきた女性だ。

 

 フィアの手を取り、そっと微笑みかける。

「フィア。あなたが選んだ道を、私は誇りに思うわ。でも、決して独りにならないで。エイリンと共に、支え合って進むのよ」

 フィアは小さく、しかし力強く頷いた。その仕草に、エイリンも同じように頷き返す。固い絆で結ばれた二人の心が、一つになった瞬間だった。

 

 馬車が出発の合図を鳴らし、車輪がごとり、ごとりと重々しい音を立て始める。

 エイリンは最後にもう一度、父と目を合わせた。タルグの目には、確かに光るものが宿っていた。

 しかし、エイリンが精一杯の笑顔を向けると、父もわずかに口元を綻ばせ、大きな手でゆっくりと、見送りの手を振ってくれた。

「行こう、フィア」

「……うん」


 こうして私たち二人は、故郷の村を後にした。

 新たな物語の始まりを告げるかのように、馬車は埃を上げながら進んでいく。



 行商隊の馬車が緩やかな丘を越えた先、何の前触れもなく、見慣れぬ木の杭が一本、道端に打ち込まれているのが目に入った。

 

「なんだろ、あれ……」

 エイリンは馬車の上から身を乗り出して眺めた。

 杭の先端には、血を思わせるような赤い布が、乱雑に結び付けられている。旗にしてはあまりにも粗末で、道標にしては不気味すぎた。

 馬車を引く馬たちが、鼻を鳴らし、落ち着きなく蹄を踏み鳴らす。

 明らかに動揺している。何かがおかしい、そんな不穏で重苦しい空気が、静かに、しかし確実に辺りに漂い始めていた。

 それがただの嫌な予感ではないと知ったのは、そのすぐ後のことだった。

 

「来るぞッ! 武器を取れ、ゴブリンだッ!」

 先頭を走っていた商人の、悲痛な叫びが響き渡る。次の瞬間、道の脇の深い藪から、小柄で醜悪な影が、まるで飛び出すように現れた。

 ゴブリン――浅黒い肌、獣のように鋭い牙と耳、そして狂気だけを宿した真っ赤な瞳。

「うわっ、こいつら……怒ってる!? いや、なんでこんな……!」

 エイリンの目にも、彼らの異常な興奮が見て取れた。まるで理性が吹き飛んでしまったかのように、喉を潰したような奇声を荒げ、泡を吹く口元を晒しながら、無秩序に突撃してきたのだ。咄嗟に武器を手にした男たちが応戦するが、その数はあまりにも多すぎる。

 

「きゃああっ!」

 女の甲高い悲鳴に、反射的にエイリンは振り向いた。荷馬車の陰で、女性商人が恐怖に顔を歪ませ、後ずさっている。その前に立ちはだかるのは、二体のゴブリン。

 どちらも粗末な革のジャーキンを身につけ、ひとりは棍棒を、もうひとりは手斧を手にしていた。口から泡を飛ばし、怒りに燃えた目をむいている。まるで理性をなくした獣だった。

 

「やめなさい!」

 弓では間に合わないと判断したエイリンは、とっさに腰のショートソードを引き抜いた。一瞬の迷いもなく、二体のゴブリンの間に割って入るように駆け込んだ。

「エイリン、下がって!」

 フィアの声が鋭く響いた。その瞬間、彼女の指先から放たれた光が空気を裂く。練り上げられた魔力の弾丸は、空気さえも震わせる一筋の閃光となり、棍棒を構えたゴブリンの胸を正確に貫いた。

「グギャアアッ!」

 断末魔の叫びと共に、その浅黒い身体は糸の切れた人形のように地面に叩きつけられ、二度と動くことはなかった。

 

 エイリンは息を飲みながら、もう一体――手斧を持つゴブリンへと、渾身の力を込めて飛びかかる。体は小さいとはいえ、相手は確実に殺意を放っている。ここで躊躇すれば、命を奪われる。

「はっ!」

 短く息を吐き、渾身の一撃を放つ。ショートソードの鋭い切っ先が、ゴブリンの肩から胸へと、深々と食い込んだ。

 確かな手応え。しかし、ゴブリンは倒れなかった。

「ガアアッ!!」

 怒り狂った咆哮と共に、手斧が振り上げられる。エイリンはとっさに身をひねり、刃は頬をかすめて風を切った。斧は空を斬り、エイリンは地面に転がるようにして、辛うじて距離を取る。

「フィア、今よ!」

「ヴェル・シオン・ラミナ!」

 再び、銀色の閃光が走った。フィアの放った魔弾が、正確にゴブリンの胸を撃ち抜く。

「グ……グルァ……」

 ゴブリンはその場に膝をつき、絞り出すような呻き声を上げながら、力なく前のめりに倒れ伏した。その命の灯は、既に消えていた。

 

 エイリンは肩で荒く息をしながら、剣を握る手の震えを必死に抑えた。全身の力が抜け落ちそうになる。

「……助かった、フィア」

「私も……少し、怖かったわ」

 フィアがそっと、しかし確かな力強さで微笑む。エイリンも、同じように笑い返した。胸の奥がまだざわついていたけれど、今はそれよりも大きな安堵があった。

「誰も、死ななかった。それだけで、今は十分だよね」

 空はいつの間にか、重い雲に覆われていた。完全に動かなくなったゴブリンを確認し、エイリンは剣を鞘に収める。全身の震えを堪え、深く息を吸い込んだ。辺りに残る血生臭い匂いが、さっきまでの激しい戦いが紛れもない現実だったことを、エイリンに強く実感させた。

 

「フィア、大丈夫?」

「うん……エイリンこそ、無茶しすぎよ」

「なんとかね。剣、まだ手が震えてるけど」

 苦笑しながらそう言って、エイリンはゴブリンの遺体に目を向けた。特に、さっきまで手斧を振るっていたゴブリンの方だ。普通のゴブリンは、こんな場所には現れない。何かがおかしい。

「ちょっと調べてみる。何か、手がかりになるかもしれないし」


 エイリンはしゃがみ込み、ゴブリンの身体を手早く検めた。粗末な革のジャーキンの下には、泥と血で汚れた布きれが巻かれているだけだったが――胸元で何かが鈍く光った。

「……これ、なに?」

 そっと引き出されたのは、掌に収まるほどの小さな銀のペンダントだった。薄い円盤状のそれは、長年の使用か、あるいは何らかの意図か、鈍く黒ずんでいる。表面には、異様なまでに精緻な紋様が刻まれていた。それは、見る者の魂を覗き込むかのような、歪んだ瞳の形をしていた。不吉なまでに禍々しく、得体の知れない気配を放っている。

「……変な模様。フィア、見て」

 フィアがゆっくりと近づき、エイリンの手元を覗き込む。その澄んだ目が、わずかに見開かれた。

「これは……見たことがない。魔術の印……にも見えるけれど、何かがおかしいわ。精緻すぎる、というよりも、まるで生きているかのような……」

「……このゴブリンたち、怒り狂ってたよね。もしかして、これのせい?」

 フィアは小さく頷いた。「あるかもしれない。このペンダント、怒りを増幅させる魔法がかかってる可能性がある。念のため、調べてみるね。」


 フィアは小声で呪文を唱える。彼女の指先に淡い光が灯り、魔力を探る繊細な波がペンダントへと流れていく。

 「……ううん、何も感じない。魔法はかかってないみたい」

「えっ、でもさっき“怒りを増幅させる”って?」

 フィアは首をかしげた。

「このペンダント自体には、直接的な魔力は検知できない。けれど、もしかしたら、魔法の媒介として使われていたとか、あるいは、別の強力な術に使われた痕跡なのかもしれない。直接的な魔力は感じられないけれど、この不吉な印の造りは、ただの飾りではないわ」


 エイリンはペンダントをしばらく見つめた。金属の表面は黒ずみ、まるで長い年月を秘密と共に過ごしてきたかのようにも見える。その歪んだ瞳の模様は、決してただの装飾とは思えなかった。

「持っておくよ。町に着いたら、誰か詳しい人に見せてみよう。教会の神官とか、賢者様とか」

「ええ。きっと、何か分かるはずよ」

 エイリンはペンダントを小さな革袋にしまい、そっと腰に収めた。その冷たい感触が、手のひらに妙な実感を残す。


 風が一度、静かに吹き抜ける。

 その時、ようやく行商隊の男たちが、血相を変えてこちらに駆け寄ってきた。

 「お、お前たち無事か!? ゴブリンは……」

「大丈夫。倒したよ。私たちで」

 私が答えると、男たちは一瞬言葉を失い、それから感嘆の声を漏らした。

 

 旅は始まったばかりだというのに、私たちはすでに一つの異変に出会ってしまった。この奇妙なペンダントが導くものが、冒険の果てに何をもたらすのか――まだ、何一つとして分かっていなかった。

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