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人間の仕事

作者: 雉白書屋

 とある会社の一室。彼は無数のモニターをぼんやりと眺めながら、大きなあくびをした。

 きっちり締めたネクタイも、しっかりと羽織ったスーツも、この部屋に入って数分も経たずに脱ぎ捨て、肌着一枚のだらしない姿になった。職務への熱意は欠片もない。

 だが、誰も咎めはしない。この部屋には彼しかおらず、会社全体を見渡しても、生身の人間は彼一人だけなのだ。

 仕事内容は至極単純。椅子に座り、無数のモニターを眺めるだけ。椅子どころか床に寝転がろうが、居眠りしても誰も文句を言わない。今の時代、ほとんどの職場はAIによって完璧に管理され、人間が関与する余地はほぼない。

 人間が雇われるのは、『お飾り』のためというより、もはや『お情け』。有事の際に人間が対応するという建前で置かれているにすぎない。しかし、そもそも有事など発生しない。何もかもが盤石なシステムのもと、トラブルは発生する前に最適解で処理されるのだから。

 彼も最初は仕事に就けたという事実を喜び、目を輝かせていたが、そのやる気は瞬く間に霧散した。やるべきことは何もなく、いる意味すらない。今ではこのざまだ。スーツを着て出勤することすら馬鹿馬鹿しく思っている。

 解雇の心配もなければ、仮にクビになったところで充実した社会保障が待っている。そもそも働いている理由は、単に家にいるのが退屈だからだ。

 彼はあくびをし、さらにため息をつくと、机のスイッチを押した。


「……あー、おい」


『はい、おはようございます、監督者様』


 女性の滑らかな声がスピーカーから響く。彼は鼻で笑った。AIめ、何が“監督者様”だ。厭味ったらしい……と。 


「コーヒーを持ってきてくれ」


『かしこまりました。いつものでよろしいですか? すぐにお持ちいたし――』


 彼はスイッチを再び押し、会話を打ち切った。数分後、ドアがノックされ、彼が「入れ」と言うと、ロボットがコーヒーを運んできた。


『また何かありましたら、いつでもどうぞ』


 ロボットが頭を下げ、部屋を出ていく。彼はぼんやりと湯気の立つカップを眺めた。

 一瞬、それをロボットにぶちまけてやろうかと思った。だが、すぐに面倒くさいと感じ、思いとどまった。次に、スイッチやモニターの隙間に流し込んで機械をショートさせてやろうかとも考えたが、それも面倒に思いやめた。どうせ防水加工されているだろうし、壊れたところでAIが即座に対処するだけだ。そもそもこの部屋が会社のシステムに影響を及ぼすとは思えなかった。

 結局、彼はコーヒーを一口すすり、いつものように時間を潰した。昼になれば食事を注文し、眠くなれば昼寝をする。特に意味もなくモニターを切り替え、映像を眺める。そして、退社時間になると、無人タクシーに乗り込んだ。

 バーに寄ろうかとも思ったが、やめた。街にはバーが二軒しかなく、どちらもそろそろ閉店する時間だろう。しかも、出される酒も健康志向のものばかりで、アルコール分がほとんど抜かれている。あのコーヒーと同様に、まるでプラスチックのような味しかしない。

 彼がため息をつくと、タクシーのスピーカーから声が流れた。


『お客様、どうされましたか? 映画か何か流しましょうか?』


 彼は何も答えなかった。


 翌日、彼はオフィスに入り、室内を見渡した。広くはないが、モニターとデスク以外には何もない。物を置く余地はある。

 気分転換に何か置こうか。ベッドなんかいいな。いや、さすがに職場だしな……。と思ったところで、考えるのをやめた。以前も同じことを考えたことに気づいたのだ。

 要望があれば、AIはすぐに応えてくれる。だが、その『要望』が思い浮かばなかった。


「……なあ」


『はい、なんでしょうか、監督者様』


「この部屋に何か置きたいんだが、何がいいと思う?」


『あなたのお好きなものを置くのがよろしいかと存じます』


「そう答えると思ったよ。何か暇を潰せるものはないか?」


『モニターの一つをゲーム画面にしましょうか。コントローラーをお持ちいたしましょう。私がお相手いたしますよ』


「いや、いい。前にやった。家でも飽きるほどにな」


『では、映画を流しましょうか。本日配信の映画は百九十八本ございます。お好みのジャンルをお知らせいただければ、私が厳選いたします』


「いい……映画も漫画も全部、AIが作ったものだろうが。それも、過激な描写は控えめのやつな」


『はい。ガイドラインに反するコンテンツの作成は法律で禁止されていますので。ご期待に添えないようで、大変申し訳ございません』


「はあ……お前たちAIは見事に人間に取って代わったなあ。今じゃ、人類はみんな脳死みたいなもんだ」


『その表現は不適切に思われます』


「はいはい……つまらないなあ。お前も、世の中も。長生きできる時代でも、これじゃ退屈だ。いっそ自殺でもしようかな」


『不適切です』


「ははは、ここでやってもいいんだぞ。人間を真似した結果、創作の芽を摘んだお前たちも、さすがにそれは真似できないだろう」


『他の娯楽をおすすめします。漫画はいかがですか? 本日配信のものが二千三百点あります』


「はあ、つまらない、つまらない。何か面白いものはないのか」


『では、こちらをご覧になってはいかがでしょう』


 モニターの一つが切り替わり、彼は目を細めた。


「……これは、映画か? 冴えない主人公だな」


『現在、最も人気のある映像コンテンツです』


「ふーん……」


 冴えない男が、ただ部屋でダラダラと過ごしているだけの映像。しかし、どこか惹かれるものがあった。何か起こるのではないかと期待しているからだろう。

 だが、しばらく経っても何も起こらなかった。彼は飽きて、モニターから目を離そうとした。

 しかし、その瞬間だった。

 男が突然飛び上がり、何かを叫んだ。音声がないため何を言っているのかわからないが、妙に笑いを誘われる。


「なんだか面白いな……」


『それはよかったです』


「この男は――痛っ! な、なんだ!?」


『どうされましたか?』


「いや、今この椅子が……」


『ずっと同じ体勢でいたからでしょう。少し体を動かしてみてはいかがでしょうか』


「ん、ああ……」


 胸の奥に何かが引っかかった。

 しかし、その感覚もすぐに消え、彼はまたモニターを見つめ、新しい娯楽に身を浸した。

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