閑話休題――母の懸念
――あなたが、ユウリをここまで育ててくれたのね。ありがとう。もう十分よ。
え?
――これからは、私があの子の面倒を見るわ。大丈夫。ただ本来あるべき姿に戻るだけ。だって……
ちょ、ちっと待って。
――あの子は、ユウリは「私の娘」なんだから。
「はっ。……あぁ、また、あの夢……」
一瞬息を詰めたミイナは、布団の中で重い息をついた。額に手をやればうっすらと汗が浮いている。暑いわけではないので、これは冷や汗だ。まだ夜の内らしく部屋の中は真っ暗だったが、目が慣れたころにミイナはのろのろと布団から起きだし、洗面所に行って手拭いで汗を拭いた。布団の中との寒暖差で身体が震える。足元に注意しながらもそそくさと布団の中に戻った。
先ほどまで見ていたのと同じ内容の夢を、最近よく見るようになった。それはミイナがオウリに前妻について尋ねたときから始まった。ある程度覚悟して訊いたつもりだったが、それでもその内容は衝撃的だった。ミイナの心に深く刻まれるほどに。
「俺にもよくわからないんだ」
オウリの告白はそんな言葉から始まった。
ここアヌカの集落は決して豊かではない。男たちは働き手として街まで出稼ぎに出ることが多かった。オウリも例外ではなく、結婚するまでは外へと働きに出ていた男衆のひとりだった。
あるとき、出稼ぎの仕事の関係で都を訪ねることがあった。そこでオウリはひとりの女性と出会った。ひどく憔悴した様子で彷徨うように歩くその人が妙に気になり、声をかけたのが最初だった。このとき女性はオウリの心配をはねのけるように「大丈夫」と気丈に笑って見せたのだが、放っておくことはできなかった。仕事が終わった後、オウリはその人を食事に誘った。明らかに痩せこけていて、ちゃんとしたものを口にしていないように見えたからだ。女性は戸惑っていたが、断られることはなかった。一緒に食事をとると、顔色はいくらかましになったように見えた。
仕事で都に滞在する間、オウリは何度か女性と食事を共にした。いつも気まずげな様子で誘いを受けていたので、遠慮を少しでも和らげてもらおうというのもあり、オウリから女性に事情を聞いてみた。すると女性はぽつぽつと身の上を話した。曰く、故郷の古い慣習に縛られるのが嫌で、家族の反対を押し切って飛び出してきてしまったのだという。だが飛び出したはいいものの、まだ若い女に身を立てるほどの職はなく、街を転々とするうちについに都までたどり着いてしまったのだと。路銀もほとんど底をつき、これからどうしたらいいか考えあぐねているところなのだと。
ひとりで路頭に迷っていたくらいだから、おそらく本当に頼れる者はいなかったのだろう。オウリは女性に同情し、自分でよければ力になると申し出た。食事を奢ったり話を聞くぐらいしかできないが、それでもよければ、と。本当に頼っていいのか、と女性はなおも懐疑的だったが、オウリには珍しいほど力強くうなずいて請け負った。
この女性がのちのオウリの妻、そしてユウリの母だった。あまり見かけない鮮やかな青色の髪が市井でも目立っていたという。それならばおそらくユウリの髪色はこの人からの遺伝だ。ユウリが髪を伸ばしたがらなかったのは、もしかしたら彼女なりにミイナに遠慮していたからなのかもしれない。
夫婦となり、二人でアヌカに戻った後も、女性の詳しい事情については詮索しなかったそうだ。ただでさえみんなが顔見知りというアヌカで異郷の、目立つ女性を娶ってきたという引け目もあったのかもしれない。オウリは口下手ながらも表に立ち、妻ができるだけ心穏やかに過ごせるよう取り計らった。そのおかげもあってか、妻は次第に精神的にも落ち着いていった、ように見えたのだという。
やがて妊娠がわかり、身重になった妻をアヌカの年増の女性らが気遣うようになった。オウリの家には女手がなく、妊婦の機微には疎いと思われたからだ。彼女らの補佐の甲斐もあり、やがて出産のときを迎えた。青灰色の産毛をもった、小さな女の子だった。
無事にわが子が誕生したことを喜んだり安堵したりしていた矢先、その妻は突如、アヌカの集落から姿を消してしまった。オウリ宛の、短い走り書きの手紙を残して。
突然のことにオウリも、存命だったオウリの父も、世話を焼いた女性たちも一体なにが起きたのか理解することができなかった。もしかしたらそのうちふらっと帰ってくるかもしれないとオウリらを宥める声もあったが、結局彼女が再びアヌカに姿を見せることはなかった。
彼女からの手紙は今は残されていない。それを読んだオウリの父が、怒りに任せて破り、暖炉にくべてしまったのだそうだ。書かれていた内容だけはオウリが憶えていた。
――やはりここでは暮らせません。別の場所をさがします。
彼女がなぜ突然そう思ったのか、周りの人間にはまったくわからなかったそうだ。少なくともお産に臨むまでは穏やかに暮らしていたという。ただ一つ引っかかっていることとして、オウリはこんなことを言った。
「生まれてきた娘を見たときの顔色が、ひどく青ざめて見えた」
それはオウリが感じたことに過ぎないし、もしかしたら出産の疲れが出ただけだったのかもしれない。だがミイナがユナを生んだときと比べると、やはり様子がおかしかったように思えると。
その人は、ユウリを産んだから、アヌカを去った……?
話をすべて聞いたミイナにも、結局その女性がどういう人で、なにがしたかったのかはよくわからなかった。話している本人が「わからない」と言っているのだから当然かもしれないが。
得体の知れないものは、人間に根源的な恐怖を与える。ミイナの中でユウリを産んだ女性は魑魅魍魎のように不可解な存在として記憶に刻まれてしまった。
それからときどき、あの夢を見る。不敵に笑い、ミイナを言いくるめようとする、青い髪をした女。口元は確かに笑っているのに、その顔は輪郭すらもあいまいで捉えどころがない。実の母なのだからユウリと似ているのだろうが、その事実をミイナ自身が否定したいからか、夢の中でも後から思い返してみてもその女がユウリと似ているとは認識しない。ただ不気味な女の影がミイナから「娘」を取り上げようと迫ってくる。
(今さら、そんなこと)
ありえない、と否定してみても不安は拭えない。現在の消息は不明だが、既に亡くなっていると思うには相手は若すぎる。今もどこかで生きていると考える方が普通だ。
(やめてよ……)
ミイナは弱々しく思う。普段は気丈に振る舞っていても、夜の闇は自分の心を弱い方へと引きずっていってしまう。
(これ以上私の家族を、娘を、奪わないで……)
夢に現れた、ミイナの想像から生まれたユウリの生みの親に、ミイナは泣きたいような気持ちで懇願した。月のない、深い深い闇夜だった。




