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未読

作者: 近部 悠

君からの手紙は読めないままだ。

君との繋がりが、切れてしまうような気がしたから。

終わらせる勇気が僕にはなかった。



僕は同棲している彼女と手紙のやり取りをしていた。同じ家に住んでいるのに、手紙を書くなんて変だと思うかもしれない。僕らは頑固で恥ずかしがり屋だった。


直接伝えづらいこととか、ちょっとした不満とか感謝とか、出かける約束をするときにも使っていた。手紙は僕らのコミュニケーションを支える道具で、大事な繋がりだったんだ。

彼女を失うあの日までは。

 

あの日は、珍しく雪が降っていたのを覚えている。音もなく降り積もる粉雪が、月の光を吸って淡く輝いていて、一際美しい夜だった。

残業があったから、仕事から帰ってきたのは夜中だった。彼女もまだ帰ってきていなくて、部屋は真っ暗だった。

居間の明かりをつけたとき、真っ先に目に入ったのは、丁寧に折りたたまれた真っ白い手紙。

 

この手紙は、まずい方だ。

僕の体はこわばった。野生の勘、ではなく経験則によるものだ。

【タクミ様へ】と書かれた手紙が、僕が見つけやすいようにテーブルの中心に置かれていた。


彼女は、タクミ様とわざわざ丁寧に敬称を付ける。その後にハートマークや星を書いている時は楽しいお誘い。何もなく、達筆な彼女の字だけがど真ん中に書かれている時は、お叱りや小言。 

今日は後者だった。僕は手紙を視界に入れないようにしながら、ネクタイを緩めた。

(悪いけど今日は疲れてるんだよ。ごめん明日には見るから。)

心の中で謝りながらパジャマに足を通した。


自分が何をしたのか。頭の中で何度も昨日のことを検証した。一度疑うと些細なことでさえ、原因に思えてくる。部屋の中をぐるぐると歩きながら考えていたが、手紙を開く勇気は出ない。   

そのうち眠気が強くなってきたので、ため息を吐きながらベッドに向かった。


床がいつにも増して冷たい。僕は今朝起きた時のまま落ちていた毛布を適当にベッドに投げて、潜り込んだ。

彼女が帰ってきたら、どうしようか。とりあえず第一声はごめんにしよう。手紙が何のことかも分からないけども…

僕は目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。玄関の鍵を開ける時、決まってガチャンと大きい音が響く。なかなか温まらないつま先をこすり合わせながら、僕はその音をじっと待った。

だが、なかなか来ない。

彼女は仕事柄、日を跨いで帰ってこないことはかなりあったが、それにしたって遅かった。

今日はきっとどこかに寄ってから帰ってくるんだろう。そう思いながら、僕は眠い目を擦り、彼女に向けた言い訳をいくつも考えた。

ただ、それらを使う機会が来ることはなかった。







「交通事故、ですか?」

彼女が事故で死んだという連絡が入ったのは翌日だった。道路で車がスリップしたらしく、電柱に突っ込んで即死だったらしい。

あまりにも唐突な宣告で、現実感がなかった。

葬式でも、涙も出なかった。


彼女が死んだからといって、何も変わらなかった。ただやってくる日常に彼女がいないだけ。

今まで通りに新聞は来たし、会社に行かなければならなかった。

そして、あの手紙も開かれないままだった。


変わったのは一ヶ月後だった。

郵便箱をあけると、チラシの中に手紙が混ざっていた。

小さな封筒に入っていて、宛名は僕。

僕は怪しいと思いながらも、手紙を開いた。

一行目に、大きな字で『皿洗いの件について。』と書かれているのが目に飛び込んできた。

 

『皿洗いの件について。

お皿洗いが終わってないよね? 手が冷たいのが嫌ならお湯を出してもいいし、ゴム手袋使っていいのでやっておいてくれると嬉しいです。がんばって!』


僕はしばらく唖然としていた。慌てて他に何か書いていないか探すと、裏面に名前があった。

それは紛れもなく彼女の名前だった。

—彼女からの、手紙?

僕は台所に目をやった。洗われていない皿やコップが積み重なって、子供のおもちゃ箱みたいになっている。

水垢でくすんだコップの向こうに、彼女の姿がぼんやりと浮かんできた――




「はい、これ。」

 彼女は、僕の胸に一枚の紙を押し付けた。

 「なんだよ、これ?」

彼女は腕まくりをして、シンクの皿を洗い始めている。


「最近、忙しくて全然会話してないじゃん?だから、それ使おうかなって。」

 押し付けられた紙をよく見ると、四隅に描かれているカエルがこちらを睨んでいた。

「手紙?文通でもするの?」

「そ。お互いに向けて、なんでもないことでも――」

 彼女はいたずらな笑みを浮かべながら、洗っている小皿を見せつけた。

「直接言いづらい、文句とかもね。」

僕は、髪に手を突っ込んで、頭をポリポリとかいた。

「お小言もアリなら、手紙いっぱい書かれちゃいそうだなぁ……。」

僕の不安なんて、聞こえていないかのように彼女は言った。

「それでもいいじゃん!いっぱい書こう!いつか二人で、本作れるくらいね!」





――ポチャンと落ちた水の音に、僕は現在に引き戻された。

……そうだ、手紙を書くようになったのは、彼女が発端だったっけ。

繋がりが薄くならないようにという、彼女なりの気遣いだったんだろう。

そういえば、初めて貰った手紙は皿洗いをサボったことのお叱りだった。


堰を切ったかのように涙が溢れてきて、笑い声みたいな嗚咽を漏らして泣いた。

僕は泣いた。彼女が死んでから初めてだったと思う。

ひとしきり泣いた後、この手紙がどこから届いたのかが気になった。

住所は書いてないし、宛先も僕の名前だけだ。


その日から不定期ではあるが、彼女から手紙が届くようになった。なんとなくだが、僕も手紙を返すようになった。

手紙は郵便箱に届いていて、入れ替わりで手紙を入れておくと、いつの間にかなくなっている。

内容は、家事をちゃんとやってほしいというお叱りから、何々を買ってきてほしいといったものまであった。


死人との文通なんて、誰が信じるのだろうか。手紙のおかげで、洗い物が溜まることもなくなったし、休日をただぼーっと過ごすこともなくなった。

手紙が、生きる糧になっていた。








「最近、顔色よくなってきたね。」

枝豆をつまみながら、顔を赤くした友人が言った。僕に彼女を紹介してくれた高校時代の友人で、古い友人だった。彼女が亡くなって一年。このごろ僕は、飲みに行けるくらいには気力が戻っていた。こうして飲みに誘ってくれる友人の尽力はもちろんだが、どこからか来る手紙が心の支えになっていたからなんとか生きてこれている。


「なんか最近さ、やっと落ち着いてきたんだ。受け入れたってわけじゃないけど…」

「ほんと良かった。タクミ、ずっと顔真っ白だったしさ。」

 酒も飲めるくらいには元気になったなぁと、僕のグラスを指で弾いた。

「ほんと、迷惑かけて悪かった。お前には本当に感謝してる。」

「どしたん、急に。自殺とかやめてよ?」

「死なないよ。」


笑ってはみたものの、僕はいつも不安だった。彼女からの手紙が、次で最後だったら?その後僕はどうなるのか?そんな考えが頭を埋め尽くしていた。


「タクミ。死んじゃ駄目だぞーほんとに。」

友人は僕の背中をバンバンと叩く。かなり酔いが回っているようで、呂律が回っていない。

「おい、大丈夫か。もう帰るぞ。」


タクシーに乗せて帰らせようとしたが、僕は友人の住所が分からなかった。仕方なく、僕の家に泊めることにした。なんとか友人をベッドに寝かせ、僕は椅子に座り込んだ。ふと、視界に一枚の紙が写りこんだ。

丁寧に折りたたまれてはいるが、くしゃくしゃになった一枚の紙。テーブルの上に、いつのまにか手紙が置かれている。

いつもは郵便受けに届くはずなのに、どうして今日は。


僕は、手紙を手に取って、音を立てないようにベランダに出た。ベランダは寒くて、柵に雪が溜まっている。白い息を吐きだしながら、僕は手紙を見た。

【拓海へ】

いつものように僕の名前が書いている。僕は手紙を開いた。

今日は、一言だけだった。

僕は手紙を破った。できるだけ細かく、読めないほどに小さく。

裂かれた紙は風に吹かれて、雪に混ざってひらひらと飛んでいく。

君は雪に輝く。僕は顔を覆った。


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