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私、気づいてしまいました(14)

 ゆらゆらとランプの灯火が揺れ、窓の外をゆっくりと雲が流れていく。

 時は確実に流れているらしい。

 しかし、壁に張り付くアリオトの影は時を止めたかように動かなくなった。

 おそらくお兄様の言葉を反芻しているのだろう。

 サルガス様の“忘却”の能力によって、自分が“魔の者”であることを忘れたアリオト。

 しかしそんなものは些末事だと軽くあしらっていたけれど、それ以外にも失ったものがあるとお兄様に言及され、アリオトは完全に沈黙してしまった。

 そう、何を忘れているのかわからないからだ。

 けれど、それこそが“忘却”の能力だとも言える。

 そもそもアリオトが、“魔の者”であるという事実を忘れてしまったと自覚できたのは、過去の記憶が残っていたからに他ならない。

 自分の今までの行為が、自分の正体を暗に示していただけだ。

 そしてさらに言えば、アリオトの本質が変わることなくある以上、過去の自分との齟齬も、乖離もなく、大した違和感もなくあっさりと受け入れられた。

 だからこそアリオトは、一切動じることもなく、くだらないとばかりに一蹴できたのだ。

 しかし、今は何を忘れたのかさえわからない。

 何を失ってしまっているのか見当もつかない。

 それが思い出せなくて、手掛かりすらもなくて、アリオトの影はただただ途方に暮れたように固まってしまった。

 そんなアリオトの影に対し、お兄様はさもありなんとばかりに声をかける。

「随分と悩んでいるようだな。自分が何を忘れ、失ったのか、思い出せないどころか、予想もつかなくて困っているのだろう?いや、恐怖を感じているというほうが正しいかな」

「そんなことは……ない」

 口では否定しつつも、アリオトの口調には動揺と焦燥が見えた。そのことにお兄様は笑みを深めて、さらにアリオトを揺さぶるように追い打ちをかけていく。

「お前は先程、これで出し物は終わりかと我々に聞いたが、生憎その出し物は現在進行形で続いている。ついでに言うと、我々は何もここへ無計画に乗り込んできたわけではない。“魔の者”に対する攻略法を、無い知恵を出し合って考えてきたのだ。つまり、我々の行動と攻撃はすべて単独に見えて、そうではなかったということだ。すべてに意味があり、ある目的のために連携され、計算のもとに為されたものだった」

「どういう………………」

 アリオトの影から発せられた呟きのような問いかけに、お兄様はその視線をレグルス様へと向けた。その視線を受けて、レグルス様は悪戯な笑みを零す。

「俺は、怖~いセイリオスに命じられて、せっせとお前の心を読んでいただけだよ。といっても、読んでいることをあからさまにわかるようにはしていたけどね。だってさ、焦れば焦るほど、これだけは絶対に守りたいと思うものを、無意識に考えしまう――――たとえ“魔の者”であろうともね。だから俺は攻撃の手を読むフリをして、お前の深層心理を読んだ。ま、そのおかげで得られた答えは、俺たちの予想通りのものだったけどさ」

「なっ………………」

 器用にも白抜きされた目と口で、意味がわからないと怪訝な表情を作ったアリオトの影に、今度はシェアトが口を開く。

「私の“言霊”も当然作戦の一部です。正直、“魔の者”相手に私の“言霊”がどこまで効くのか不安もありました。しかし、レグルス殿が心を読み取れるならば、“言霊”も効くはずだと発してみましたが、かなり心臓に悪かったですよ。状況が状況でしたしね。ちなみに私の目的は、晦冥海を出させることでした。この場でね」

「それはこいつらを吐き出させるためだろう!」

 それくらいわかるとばかりに、未だ床で意識なく転がったままのシロたちを指差し、アリオトの影はシェアトに噛みついた。しかし、噛みつかれた当のシェアトは、怯えるでも、憤るでもなく、微妙な笑みで返す。それは暗に、それだけではなかったと告げているようなもので、アリオトの影が忽ち苛立ちで戦慄いた。

「お前たちの言っていることの意味が全然わからない!何が作戦だ!何が連携だ!だいたいお前たちは、今も何をこそこそとやってる!このボクから何を奪ったんだ!今すぐわかるように話せ!一体、一体ボクから何を………………」

 アリオトが初めて見せた激情。

 自分が何を忘れて、何を失ってしまったのか―――――何もわからないこの現状が、アリオトの平常心を根こそぎ奪い、疑心暗鬼にさせてしまっている。

 でも私には、今のアリオトの心情がなんとなくだけれど、理解できるような気がした。


 私には“神の娘”の生まれ変わりとしての記憶はない。

 あるのは既視感と呼ばれるものだけだ。

 それだって正しいものなのか、今の私には判断すらつかない。

 それどころか、この世界が前世で話に聞いていた乙女ゲームの世界であることは辛うじて理解しているものの、その肝心な乙女ゲームをやり込んだのは知人の“江野実加子”であって、もはや乙女ゲームの世界という知識も不要に思えるほど、何もかもが中途半端な状況だ。

 唯一わかっているのは、自分がどうやらこの世界における悪役令嬢として転生したことで、ヒロインがどこの誰なのか、すでに登場しているのかさえまったくもってわからない。

 というか、断罪を阻止すべきことは乙女ゲームのお約束の展開として理解はしているけれど、どんなイベントがあり、どういう経緯で自分が断罪されることになるのか、具体的なことは何一つとしてわからない。

 処刑なのか、国外追放なのか、修道院送りなのか、ルートによって結末が変わってくるのか、さっぱりだ。

 頼りは、時折天啓のように脳裏に蘇る“江野実加子”から一方的に聞かされ続けた情報だけだ。

 しかしそれだって非常に曖昧なもので、“魔の者”というバグが生じたこの世界では、正しき未来を指し示すものだとは、到底言えなくなってしまった。

 それゆえに、自分が何をどこまで理解していて、実際何をどれだけ覚えていないのか―――――それすらもわからず、私はいつだって漠然とした不安にかられている。

 もちろん今のアリオトと私の抱えるモノが同じモノだとは思っていない。

 そもそも同じモノであるはずがない。

 それでも、苛立ちを覚えるほどの不安と、焦燥感を煽り続ける歯がゆさで、今のアリオト同様に、無性に誰かに問い質したくなる瞬間があるのは確かだ。

 だからなのかもしれない。

 私はどうしてもアリオトを憎み切れずにいる。

 アリオトを倒すというよりも、どうにかしてアリオトを救えないかと考える自分が確かにいるのだ。

 当然アリオトは、そんなことなど望んでいないだろうし、“魔の者”にとっての救いが何なのか、私にわかるはずもない。

 そして、そう思うこと自体が正しいことなのか、ただただ烏滸がましいだけなのか、それもまた、もどかしいほどにわからないことの一つで―――――――――


「そうか。わからないか。だが“忘却”の能力とは本来そういうものだ。何を忘れたのかもわからないことが普通なのだ。むしろ、何者であるかという記憶を消したとわざわざ伝えたのは、サルガス殿の優しさというべきものだ」

 確かに……………………

 

『お前が何者であるかを消した。つまり存在意義を消したということだ』


 このサルガス様の一言がなければ、アリオトは何を消されたのかもわからなかったはずだ。

 なぜなら、それ以外の記憶はあったのだから、自分が何者かという一点だけが消されたなんてことを、誰も普通は思わない。

 私に置き換えるなら、自分が“人間”だという認識を消されたからといって、突然動物へと成り下がるわけでもないということ。

 はっきり言って、生まれてからここまでの記憶があるならば、そこまで困るようなことでもない。

 しかし、サルガス様の言葉で何を消されたのかがわかったからこそ、自分の中に残った記憶と生来の本質によって、予想という形でアリオトは自分の正体を突き止めていた。もちろんそれは大正解だったわけで。

 でもそれはお兄様が言うような、サルガス様の優しさで教えられた情報などではない。

 そのくらい私でもわかる。

 これは敢えて与えられた情報だった。

 本来の目的を隠すために。

 いえ、アリオトの油断を誘うために。

 だとしても、やはりこの状況は腑に落ちない。

 お兄様が何故ここにきてアリオトにそんなことを言い出したのか。忘れさせたことを何故思い出させようとするのか。

 考えられる理由として、アリオトの動揺を誘うためということもあり得るけれど、このお兄様のことだ。

 おそらくそれだけではないのだろうと、この先に続くお兄様の言葉を待つ。

「言っただろう?我々は無計画で来たわけでないと。一番厄介なのはお前に晦冥海に逃げ込まれることだった。そうなれば、我々は後を追うこともできない。追った瞬間に、こちらの魔力を持っていかれるからな」

「……………………」

「だから、それをできる限り阻止しようと考えた。あともう一つ、アリオトの鉄壁な防御を外したいともな」

「……………………」

 お兄様の言葉に、アリオトの影はすうっと白抜きの目を細めた。

 アリオトの影のそれは、まさしく警戒からくるものだったけれど、お兄様は愉しそうに目を細める。

「自分の最大の防御が何なのかわからないといった顔だな。といっても、サルガス殿が消したのは、そのことではない。まったく無関係とも言えないが……」

「チッ!」

 突如、アリオトの影が発した舌打ちのような音。と同時に、お兄様へと無数の触手が勢いよく伸びていく。

『お兄様ッ!』

「暗黒星!」

 発せられた短い詠唱。それとともに、前へと翳したお兄様の手に、握り拳ほどの黒い球体が現れる。

 それは小さいながらもあらゆるものを吸い込むブラックホールだ。

 そのブラックホールである球体に、アリオトの影から伸ばされた触手が忽ち吸い寄せられていく。

 けれど過去、そのブラックホールの威力を身をもって経験したアリオトの影は、咄嗟に触手を自分の影に収めた。

 それを確認し、お兄様はあっさりと球体を霧散させる。

「賢明な判断だ。このまま引き摺り込まれれば、お前は今度こそこの暗黒星から脱出できなかっただろうからな」

 しかしアリオトの影は、お兄様の言葉が気に入らなかったらしい。すぐさま反論に打って出る。

「どうしてそう言える?ボクは一度、その暗黒星とやらから脱出しているんだけど?一度できたことだ。何度でもできることだよ」

「あぁ、その理屈は間違いではない。だが、今回ばかりはそうはならない」

「一体何を根拠に…………」

 あくまでも飄々としているお兄様に、アリオトの影はわかりやすくたじろいだ。といっても壁に張り付いている状態のため、逃げ場もない。

 まるで猫の前の鼠。しかしその鼠も、お兄様の圧に押されてか、窮鼠猫を嚙むという気概さえ削がれてしまっているらしい。

 そこへ、張りつめた場の空気を一瞬にして和ませる癒しの声が届く。


“セイリオス、見つけたにゃ!”


 どこか遠くで反響しているような声。それでも、その声の主がシャムであることは確認するまでもなかった。

 けれど肝心のシャムの姿がどこにもない。

 シャムがいつこの部屋を出ていき、さらには何を見つけたのか、私は“幻惑”の中で一人首を傾げる。

 しかしお兄様たちは、シャムの報告から抜け落ちている部分をしっかりと把握しているようで、それぞれがゆるりと口角を上げた。

 思いがけず聞こえてきたシャムの声に癒されつつも、私はお兄様たちの表情に、疑問と確信を同時に抱え込む羽目となる。

 そう、お兄様たちはアリオトの疑問に答えるフリをしながら、ずっとのらりくらりと明確な答えを避け、時間稼ぎをしているようだった。いや、アリオトもまたそれを感じ取っていたからこそ、苛立ちは倍加し、シェアトの表情一つにあれほど過敏に反応し、あまつさえお兄様に攻撃したのだろう。

 言うまでもなく、そのアリオトの勘は正解だ。

 お兄様たちは時間稼ぎをしながら、何かを探し、それをアリオトに気づかれないように“幻惑”まで使って隠蔽していたに違いない。

 そして、シャムが()()を見つけたことで、この時間稼ぎも終わりを告げようとしている。

 その証拠に、お兄様は不敵にも、憐れみにも見える表情をアリオトの影に向けながら、ようやくその答えを明確にした。

「我々がシャムを使って探していたのはアリオトの本体だ。そしてその本体は今我々の手中にある。残念だったな、アリオトの()()()殿」

「……本……体………ボクの………?」

 心底意味がわからないとばかりに、アリオトの影は目を大きく見開いたまま、立ち尽くしていた。もちろん壁に張り付いたままでだ。

 しかし、そんなアリオトの反応こそが、私にある事実を雄弁に語ってくれていた。


 アリオトの影が、アリオト本体の存在を忘れている――――――――


 これこそ、サルガス様が“忘却”の能力で消したことなのだと。

「思い出せないか?お前はアリオトの影であり、分身のような存在であって、アリオト自身ではない。そして我々にとってお前こそが、アリオト本体から是が非でも引き離したかったアリオトにとっての鉄壁の盾だったんだよ」

「何を言って…………ボクこそが本体で…………いや……違う…………でも……ボクは………………」

 まさに混乱の極み。アリオトの影は自分の頭を両手で抱え、必死に自問自答を繰り返す。それは先程のような演技などではなく、明らかな動揺と煩悶が見て取れた。

 そんなにアリオトの影に、お兄様は淡々とした口調で語りかける。

「実はずっと考えていた。お前が暗黒星からどのように抜け出せたのか。そしてそれらしき目撃情報も聞いた。“紅き獣”が出現した当夜遅く、広場に男性と思しき影と大きな球体の影が現れ、その男性の影が球体の影を呑み込んだように見えた―――――というものだ。この報告を聞いた時、お前の闇に闇深い人間が引き寄せられたか、逆にお前がそのような人間を無作為に引き寄せたか、そのどちらかだと考えた。しかし、事実は違うのだろう?」

 アリオトの反応を見るようにお兄様が目を眇めた。そして続ける。

「目撃情報に何一つ間違いはなかった。そうだろう?暗くて男が影に見えたわけではない。事実、紛うことなき影だったのだ。そう、私の暗黒星に吸い込まれたのはアリオトの本体だけだったということだ。アリオトの影――――――いや、分身とでも言おうか、お前は影でありながらアリオト本体から離れることで、暗黒星から逃れていた。アリオト本体によって、逃されていた。そのことに気づきもしなかったあの時の不甲斐ない自分に、呆れるどころか幻滅してしまいそうだ。いやはや、私もまだまだということだな。ここはユーフィリナと大人しく屋敷に籠もって、当分の間粛々と反省することにしよう」

 決定事項とばかりに首をうんうんと縦に振るお兄様に、アカたちがじとりとした目を向けた。

 うん、言いたいことはわかる。でも、皆してそれを呑み込んだようだ。

 さすが、時と場所を弁えられる優秀な人達である。

 まぁ、お兄様相手に何を言っても無駄だと思ったのかもしれないけれど…………

 お兄様はそれらの物言いたげな視線を丸っと無視して、再び口を開く。

「お前はずっとアリオトの本体を守るための時間稼ぎをしていた。言うなれば、回復待ちだ。だが、サルガス殿の“忘却”によってそのことさえ忘れてしまった。実際、お前にとって一番大事な己の本体をどこに隠したのかも覚えていない。本体なんてものがあったことすら覚えていないのだからな」

「……………………」

 アリオトの影は帰る家を見失った迷子のようだった。

 頭を抱えた両手はだらりと垂れ、白抜きの目は、どこか遠くを見つめているように見える。

 それこそ自分の存在意義が見えなくなっているのかもしれない。

 本体を見失った分身。

 本体の姿がわからなくなった影法師。

 自分の存在が希薄になったように感じているのかもしれない。

 まるで眩しき光に照らされ、足元の影が薄く消えていくかのように。

 

 光があるから闇が生まれる。

 光に照らされるから、地に影が落ちる。

 でも、影を落とす身体がなければ、もはや影はそこに生まれることはない。


「ここまでの我々の行動はすべて、アリオトの本体とお前を切り離し、アリオトの本体と影を別々に葬るためのものであった。今更、詳細な種明かしをしたところで、今から消えてしまうお前には、所詮無意味なことだ」

「……………………………」

 お兄様の声が聞こえているのかいないのか、壁に人型のシルエットとしてそこにあるだけのアリオトの影。

 その影をお兄様たちは静謐の中で暫し見つめた。

 そして――――――――――

 

「これで終わりだ」


 鋭利な刃物のようなお兄様の声に、アリオトの影はピクリと反応した。


 

 

 

 

 

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