私、気づいてしまいました(12)
アリオトの影で真っ黒に塗り潰された部屋。
窓さえもその影で覆われている。
それでも視界を保てているのは、お兄様たちが作り出した光の玉と、心許なくとも灯り揺らすランプのおかげだ。
しかしだからこそ、この部屋の異様さが際立ってしまう。
黒塗りとなったのは何も壁だけではない。天井も、床も、置いてあるベッドでさえもだ。
つまり、私たちはアリオトの影に丸呑みされているようなもので――――――――――
「これは何とも言えない居心地の悪さだね」
そう言いながらレグルス様が自分の足元へと視線を落とすと、まるで水溜りに嵌まってしまったとでもいうように、うんざりとした様子で片足を上げた。
うん、気持ちはわかる。
今の私たちの状況は、影となったアリオトの上に立っているようなものなのだから。
人を踏みつけることに快感を覚える、余程の加虐趣味の持ち主か、ただの不感症でなければ、誰だってこの状況に不快感と気味の悪さを感じてしまうのは当然のことだ。
けれど、どれだけその上に立ちたくないと足を退けたところで、結局はその上に足を下ろすしかないのもまた現実である。
それこそ宙にでも浮かない限り。
そのため、一度は上げた片足をレグルス様は露骨に嫌そうな顔をしながら床へと下ろした。
ただその際に、誰かの足を踏みつけるくらいの勢いがあったのは、決して私の見間違いではないはずだ。
しかしアリオトは、それに対して痛がるわけでも、怒るわけでもなく、むしろ愉しげに告げてきた。
「いつかのようにユフィを“幻惑”に閉じ込めているみたいだけどさ、ボクにはユフィがどこにいるかなんて、丸わかりだからね。闇は光に強く惹きつけられるモノ。だからさ、すぐにわかっちゃうんだよ。悪いけど―――――もらうね!」
「天井だ!」
アリオトが最後に放った声と、レグルス様の声が被った。と同時に、アカたちが天井へ向かって、無詠唱で攻撃魔法を一斉に放つ。
その攻撃に、天井からキノコのように生えた黒い人型らしきモノが、また影の中へと引っ込んだ。
しかし、それも束の間―――――――――
「セイリオス、右下だ!」
再び飛んだレグルス様の声に、私は咄嗟に自分の足元へと視線を落とす。
正確には、“幻惑”に囚われた私のほぼ真下だ。
私は反射的に後退った。瞬間、床の影から起き上がるように湧いて出てきたアリオトの影が、私の前にゆらりと立つ。
重なる視線。
影に浮かび上がった不敵な笑み。
それらは“幻惑”の中にいる私がわかると言い切ったアリオトの言葉を、正しく証明するものだった。
しかしお兄様は、身体どころか視線さえ動かすことなく、アリオトの影に向かって攻撃魔法を発動させる。
寸分の狂いもなく放たれた光の弾丸。
まるで腕のいいガンマンのような攻撃に、アリオトの影は笑みを貼り付けたまま私の目の前で無惨に吹き飛んだ。
その衝撃に耐え、私の眼下に取り残された上半身失くした歪な塊。
『ぃッ………………』
私は両手で口を塞ぐことで、声なき悲鳴を必死に呑み込んだ。
そんな私を嘲笑うかのように、アリオトの影の残骸は、床に広がる影の中へと溶けるように消えていく。
そして、怪訝そうなアリオトの声が黒塗りの部屋の空気を揺らした。
「おっかしいなぁ…………なんでボクがどこから出てくるのかわかっちゃうわけ?まさか偶然?いや、違うな……これは………」
「ベッドと天井だ!」
レグルス様の声に、アカはベッドへ、シェアトとサルガス様は天井に向って即座に攻撃魔法を放った。
やはりと言うべきか、人型のキノコ二体がその攻撃を身体に受け、あっさりと部屋を埋める影の中へと戻っていく。
しかし、これでアリオトは確信を得たようだった。
あたかも自分の考えを読まれているよう――――などではなく、間違いなく的確に読まれているのだと。
「なるほどねぇ…………そっか、あんたが“読心”の能力者ってことか。だからボクの考えを読んで、正確に言い当てられたんだ。これはなかなか手強いな」
そう言いながらも、アリオトの声に焦燥感は欠片も感じ取れなかった。
それどころか――――――――
「ッ!」
レグルス様の前に突然、人型の影となって床から現る。されど、それすらも読んでいたレグルス様の攻撃魔法によって、グチャッという嫌な音を立てて、アリオトの上半身が吹き飛んだ。しかしそれでもアリオトの影はそこに生えたままで、歪な形となって留まった。
その刹那――――――――――
「光矢!」
お兄様の鋭き声とともに、攻撃魔法が放れた。その光の矢が目指す先は、レグルス様の背後の床から這い出したアリオトの影だ。
そして、アリオトの顔と思しき場所を的確に光の矢は打ち抜き、その僅かな間に、不覚にも前後から歪なアリオトの影で挟まれる格好となってしまったレグルス様は、そこから抜け出るように左横へと跳び退いた。さらに、そこから攻撃魔法を仕掛け、アリオトの影の残骸を粉砕させる。
なのに―――――今度はベッドに足を組んで座り込むアリオトの影が出現した。
「う~ん…………ボクの考えを読まれているようだから、攻撃された直後の反射による――――いや、無意識な攻撃を仕掛けようとしたのに、それすらも見つかっちゃった。といっても、見つけたのは“読心”の能力者である彼じゃなくて、そこの物真似上手な“幻惑”の能力者だけどね。でもさ、これじゃ埒が明かないと思わない?お互いにさ。だからそろそろ大人しくユフィを渡してくれると嬉しいんだけどッ!」
「ッ!これは不味い!」
レグルス様の焦りに滲む声。
その声を嘲笑うかのように、何十体ものアリオトの影が大量に湧き出てくる。
おそらくアリオトの思考を呼んだからこそのレグルス様の悪態。しかしこれだけの数のアリオトの影を一気に殲滅させるのは、ここが室内であるからこそ、逆に危険が付き纏った。
「セイリオス!どうにかするにゃ!これ、めちゃくちゃ気持ち悪いにゃ!」
シャムに同感だ。
完全にホラー映画だ。
しかもソレは、“幻惑”の中にいる私を取り囲むように、無尽蔵に湧いて出てくる。
「ユーフィリナ、心配ない!」
視界がすべてアリオトの影で埋め尽くされた瞬間、耳に届いたお兄様の声。
四方からアリオトの腕が私に向かって真っすぐ伸びてくるのを感じながら、お兄様が心配ないと言うのであれば絶対に大丈夫――――――と、自分自身に言い聞かせ、固く目を瞑った。
不安はない。恐怖もない。あるのはお兄様への絶対的な信頼だけ。
だから次に何が起ころうとも平気――――――と、覚悟を決める。
そしてその直後、私に届いたのはアリオトの手ではなく、耳障りのいい凛とした声だった。
「止まれ!」
これは………シェアトの“言霊”……………
閉じていた目を勢いよく開く。
そこに一切の躊躇いはない。
ただただ今の状況が知りたくて、私は好奇心を満たすように目を開き、前を見た。
けれど、飛び込んできた光景を前に、私は息を止めて、瞠目する。
ある意味悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
それもそのはず。
目と鼻の先にはアリオトの顔。
それも、吐息が感じられるほどの近さで。
もちろんその顔は影であり、黒以外の色はない。それでも、獲物を見るかのように私を見据えていることだけはわかる。
そして伸ばされる手はあと数ミリほどで私の頬に触れるところにあり、私は身じろぐことも躊躇われた。
にもかかわらず、アリオトはそこから微動だにしない。呼吸をしているかどうかさえ怪しいくらいだ。
そこで、チラリと視線だけで周りを見やれば、床だけと言わず、天井や壁、ベッドというありとあらゆる場所から湧き出たアリオトの影が、お兄様たちへと攻撃を仕掛けんとばかりの体勢を取ったままで、黒いキノコの群生のようにその場でじっとしている。
その様子に、私はシェアトの“言霊”が無事にアリオトに対して、有効的に働いたことを確信し、ようやく安堵の息を吐いた。
とはいえ、さすがにこのままの状態は見た目的にも、こちらの精神的にもかなり頂けない。
シェアトもそう思ったらしく、少し迷ってから、次の“言霊”を即座に発した。
「壁に集まれ!」
どのような内容にしようか悩んだすえの“言霊”だったらしく、シェアトは私たちに向けて(私のことは見えていないけれど)、少し肩を竦めてみせた。
正直、この状況を一言で収拾できる都合のいい“言霊”なんてないと思う。
むしろこの黒いキノコの群生のようなアリオトの影を一つにできるなら上出来だ。
そして、シェアトの“言霊”に従い、時にズルズルと引き摺るように、時にボコボコた波立ちながら、元々アリオトの影が張り付いてい壁へと集まっていく。その際に、この部屋を真っ黒に塗り潰していたアリオトの影もまた、壁に引き寄せられるように収縮され、黒いキノコたちと一塊となった。
アリオトのシルエットとして。
そして、一つ壁に残ったアリオトの影は、シェアトの“言霊”に従ってしまった自分に心底驚いているらしく、真ん丸の目が白抜きとなっている。
影なのに非常にわかりやすい。
しかし、これでようやくアリオトの影に埋め尽くされていた部屋は、元の佇まいを取り戻し、窓の向こうを見遣れば、僅かに晴れた雲間から星が一つ瞬いている。
どうやら不気味なホラーハウスから、無事生還を果たせたらしい。
とはいえ、またまだ一件落着には程遠い。
「よし、シェアト!そのまま雪豹とトゥレイスを吐き出させろ!」
アカから指示に、シェアトは小さく頷き返すと、さらに“言霊”を重ねた。
「聖獣雪豹とトゥレイス殿下を返せ!」
その“言霊”にピクンッとアリオトの影が跳ねた。
そして、アリオトの影はあやつり人形かの如く、右腕をベリッと壁から引き剥がすと、床に手を翳して晦冥海を展開させた。
しかしそれは海というよりは、綺麗な楕円形をした大きな黒い水溜りといった感じだった。
翳されたアリオトの影の手が、くいくいっと何かを手招く。
すると、黒い闇でできた水溜りが、ふつふつと茹だるように泡立ち始め、大きな塊が二つ、緩慢なほどゆっくりと浮上してきた。
明らかに丸く蹲った人間二人。
一人は長い白銀の髪に、執事然とした男性と、もう一人は灰色の髪に、学園の制服を着た男性。
二人とも意識はなく、俯せの状態でポコンと晦冥海に浮いている。
『シロ!トゥレイス殿下!』
咄嗟に叫び、駆け出そうとするけれど、言うまでもなく今の私は“幻惑”の中だ。
この声が届くこともなければ、シロたちを抱きかかえることもできない。
咄嗟に、お兄様に“幻惑”の解除を頼もうとするけれど、察しのいいお兄様が先回りをしてそれを制した。
「ユーフィリナ、今はまだ駄目だ。そこでじっとしていなさい」
『でも、お兄様!』
もちろんわかっていた。この“幻惑”の中から私が飛び出たところで、何の役にも立たないことは、わかり過ぎるくらいにわかっていた。
それに今の自分がシーツを巻き付けた状態であるということも。
しかし、だからと言ってシロたちを、いつまでもあの闇の海に浮かべておけるわけがない。
たとえ水溜りのようなサイズであろうとも、一刻も早くあの晦冥海からシロたちを引き摺り出さなければと、どうしようもなく気持ちが焦れてしまう。
すると、そこでまたシェアトがアリオトに命じた。
「晦冥海を消せ!」
その“言霊”に、正直私は目から鱗の気分となっていた。
なるほど、晦冥海自体を消してしまえば、引き摺り出すなどと強引な手を使わなくて済むばかりか、ミイラ取りがミイラになるように、助けにいった側がシロたちと一緒に晦冥海に沈んでしまう恐れもない。
確かにこうすればシロたちを安全に助けられるわ――――――と、焦れていた気持ちが忽ち凪いだ。
そして、シェアトの“言霊”に従い、シロとトゥレイス殿下を残したままで、アリオトは晦冥海を消した。
それを確認したアカが、シロとトゥレイス殿下の元に駆け寄り、半ば引き摺るようにしてアリオトから距離を取った。その上で、素早く二人の様子を感知魔法と目視で確認する。
「チッ!二人揃ってかなり闇に侵されているな。ったく……この放蕩雪豹が…………四百年ぶり顔を合わせたと思ったらこれか。ほんと世話の焼ける奴だ」
アカの口から紡がれる言葉は、シロに対しての文句と悪態ばかりだったけれど、その声音に安堵と懐かしさが滲んでいたことは、きっと私の思い違いではないはずだ。
そのことに目を細めていたら、今度はサルガス様がアリオトに向って一歩踏み出していた。
アリオトはというと、壁に張り付いたまま、目を丸くしてきょとんとしている。
実際、サルガス様が何のために一歩踏み出したのか、見当もつかないのだろう。
そしてそれは私にも言えることで――――――
「消えろ」
以前、食堂で“忘却”の能力を使った時もそうだった。
命じる言葉はたった一言。
何を――――――とも、誰を――――――とも、口にすることはない。
けれど、それがすべてだった。
今まで以上に大きく跳ね上がったアリオトの身体。
そして、シルエットのアリオトはゆっくりと左手を持ち上げ、額と思われる場所に手を置いた。
まるで、思い出せない何かを考えるかのように。
いや、何を忘れてしまったのかを考え込むかのように。
そんなアリオトの様子に、サルガス様が生真面目な口調で告げる。
「お前が何者であるかの記憶を消した。つまり存在意義を消したということだ」
「存在……意義?」
アリオトは生まれて初めて聞く言葉のように、訝しげに口にした。
サルガス様はただそれをヘーゼルの瞳に映しながら淡々と答える。
「そうだ。人は自分が何者であるか、それを知ることでこの世界に存在する意味や価値、そして重要性を推し量る。それに見合った生き方をしようとするものだ。だが今、お前の中からそれを消した。自分が何者であるかをな」
アリオトは暫くサルガス様の話を咀嚼するように聞いていた。
正直、理解が追いつかないといった様子だ。
アリオトが自分が何者であるかを忘れる――――――――――それは、アリオトが自分が“魔の者”であることを忘れてしまったということ。
“魔の者”としての生き方も、存在する理由もすべて。
人間を“魔物落ち”させる理由もなくし、“神の娘”の生まれ変わりである私に執着する意味もなくなってしまったに違いない。
私たちは一心にアリオトを見つめた。
このまま戦意喪失してくれることをだだ祈りながら。
そんな私たちの視線から逃れるように、アリオトは両手で完全に顔を覆ってしまった。
そして身体が小刻みに震えだす。
さらにか細く漏れてくる声。
「ボクは誰…………何者?……ボクがこの世界にいる理由…………存在してもいい理由…………」
自問自答。
しかし、アリオトの中から消えてしまったその答え。
アリオトはまるでそのことを確かめるように、苦しそうに声を絞り出していく。
「ボクは何故……この世界に生まれたんだろう………ボクは…………ボクは…………どうして……………」
もちろんアリオトは今でも尚、正真正銘の“魔の者”だ。
けれど、“魔の者”であった自分を忘れ、この世界にいる意味を見い出せなくなったアリオトは、酷く儚げに見えた。
そしてお兄様たちもまた、何とも言えない微妙な表情をしながら、ただただ傍観に徹していた。
アリオトは、両手に顔を埋めたまま、問い続ける。
「ボクは………何者なのか………それがわからないから、生きてる理由も……意味も……何もわからないのか…………ボクは…………あぁボクは……一体………」
さらに一層激しく震えはじめたアリオトの身体。
その身体は壁に張り付いたシルエットだというのに、カタカタと音まで聞こえてきそうだ。
しかも、足も震えているためか、身体を支えるには覚束なく、まるで酩酊状態であるかのように、身体は右に左にと揺れ、立っていることさえままならないといった様子だ。
そして時折、アリオトから漏れ聞こえてくる声はとても儚げで、その身体は今にも崩れ落ちてしまうか、霧となって消えてしまいそうだった。
アリオト、もしかして泣いてる?
ふとそんなことが脳裏を過ぎる。
けれど、冷静な自分がそれを真っ向から否定した。
いいえ、違うわ。
これは――――――――――
「――――――なぁ〜んてね」
愉悦と嘲り。
そんな残酷な笑みを満面に湛えて、アリオトはゆっくりと私たちに向かって顔を上げた。




