私、気づいてしまいました(8)
悪夢を見ていた。
そしてようやく覚めた。
もしそうだったらどれほどよかったか。
でも、これは紛うことなき現実で、悪夢と思われた時間もすべて現実で、私は今目覚めたのではなく、すべてを思い出しただけだった。
どうして、どうして、忘れていたの?
どうして、どうして、忘れることができたの?
どうして、どうして………………
繰り返される自問は、シロが消えた闇へと落ちていく。
そして、私に巻き付く悪夢のような現実に振り返った。
「アリオト…………」
「やぁ、ユフィ。完全にお目覚めのようだね」
そう言いながら、アリオトは私の腰に腕を回したままで、左手を取った。それから、忌々し気にその甲を眺める。
「まったく…………せっかく素敵な紋様を付けてあげたというのに、消えちゃった」
アリオトの言葉通り、そこには紋様どころか、シミ一つなかった。
学園の医務室でトゥレイス殿下に“真紋”を付けられ、それを今度はアリオトに塗り替えられたもの。
その“真紋”のせいで私の心はアリオトの闇に染まり、愛しているなどと錯覚した。
それどころか、私の首から胸元にかけてアリオトの所有を示す赤い花が散っている。
もちろん最後まで身体を蹂躙されたわけではないけれど、私の心は間違いなく蹂躙されていた。
それは、身体は無事でも心は犯されたも同じ。
どこかでおかしいと想いながらも、お兄様たちのことを忘れ、アリオトの熱に溺れてしまっていたなんて…………
そんなことって…………
このまますべての記憶を失くしてしまいたい――――――――
フィリアが抱え込んだ絶望がどんなものかなんて知らない。知る由もない。
けれど、絶望の一端を垣間見た気がした。いや、今もまだその絶望の中にいる。
そう、アリオトの腕の中という絶望に。
それでも、ここで諦めるわけにはいかない。
やっと目が覚めたなら、そこから起き上がり、動き出すしかない。
藻掻くでも、足掻くでも、何でもいい。
とにかくこの絶望から抜け出すことが先決だと、私は腰に回るアリオトの腕を右手で掴んだ。
「なに?もしかしてユフィの方から誘ってくれてるの?」
「ちがっ……放して……」
必死にアリオトの腕を剝がそうとするけれど、ぴくとも動かない。今度は暴れるように身をよじってみるけれど、結果は同じだった。
それどころか、日頃の運動不足が祟ってか、息だけが切れてくる。こうなったら…………と、私にとっての唯一の魔法である“光結晶”を発動しようと決める。
この部屋は確かに、アリオトの結界で外からの魔力を一切感知できないように遮断されてはいるけれど、この部屋で魔法が使えないわけでない。
実際シロだって、この部屋で人型から雪豹に姿を変えていた。
なら、“光結晶”だって発動できるはずだ。
そして“光結晶”なら、またあの時のようにお兄様を転移魔法陣で呼ぶこともできるはず。
本当は、こんな姿をお兄様に見られるのは嫌だ。
もしかしたら幻滅されてしまうかもしれない。
いえ、そうではないわね。
お兄様のことだから、酷く自分を責めて、また泣きそうな顔を………………
そこまで考えて、私は内心で首を振った。
今の状況がどうであれ、私はまだ生きている。心も戻った。身体も無事だ。
何より心配しなければならないのは、闇に沈んでしまったお兄様たちやアカ、そしてトゥレイス殿下とシロのこと。
そんな彼らを救うことができるなら、お兄様に今の状況を見られたって構わない。
お兄様が自分を責めても、何度でもそうではないと告げればいいだけのこと。
だから、“光結晶”でお兄様をここへ――――――――
私はアリオトの腕の中でなけなしの魔力をかき集める。本来、有り余るほどの魔力持ちなら息でも吐くように魔法を繰り出せるのかもしれないけれど、私はいつだって魔力枯渇寸前の身。情けないことに、魔力がほぼないことが常態化しているため、いつだって自分の魔力量と要相談だった。
しかも今回は半分以上自我を失っていた状態だったため、その相談はより念入りなものになる。
魔力が多ければすぐに自分の魔力残量だってわかるのかもしれないけれど、私の場合は前世の記憶のせいもあって、魔力がないことが普通だ。
だからこそ、今の今まで気づきもしなかった。
「う…そ………魔力がない………………」
私の呟きに、アリオトがクスクスと笑ってから私の耳に唇を寄せた。そして、悪戯が成功したとばかりに嬉しそうに囁いてくる。
「残念だったね、ユフィ。たとえ“真紋”でボクに夢中になっているとはいえ、またあの魔法を使って、あいつを呼び寄せないとも限らないからね、君の魔力は全部吸収させてもらったよ。といっても、びっくりするくらい少なかったけどね」
「なっ………………」
ぞくぞくと肌が粟立つのは、何も耳にアリオトの吐息がかかっているせいだけではない。
囁かれた言葉もそうだけれど、明らかにそこには危険な毒も孕んでいて――――――
「だから、あいつは呼べない。もう諦めて」
「きゃっ………」
再び押し倒されたベッド。
しかし、心がもうアリオトにないことは、私だけでなくアリオトもわかっている。
それがわかっているからこそ、先程までの甘さはどこにもなかった。
「嫌ぁ!やめてッ!」
「残念。そう言われてやめるわけないよね。あぁ~あ、可哀そうに。心がボクに囚われたままだったら、ここまでの苦痛を味わわなくてもよかったのに、恨むならユフィの守護者って奴を恨みなね」
そう言いながら、アリオトは黒い靄で必死に逃れようとする私の手足をベッドに縫い留めてしまった。
けれど、自分で縫い留めておいて、何故かアリオトは思案気な顔となる。
「……しまった。服を脱がす前に拘束しちゃったな…………」
さも困ったとばかりに呟いておきながら、その表情は忽ち嗜虐的なものへと取って代わる。そして、私の頬に手を添えながら、嬉しそうに告げてきた。
「ま、いっか。服なんて引きちぎってしまえばいいだけだし」
そう言うや否や、アリオトは先程魔力で引き裂いた制服に手をかけた。
「やめッ………ッ!……」
ビリッ!ビリビリビリッ!
制止の声も虚しく、アリオトの手で直接引き裂かれた制服。
聴覚だけでなく、視覚的にも、触覚的にも、自分の淫らな状況が鮮明となり、私の思考も、身体も一瞬で凍り付いた。
制服だからコルセットはしていない。前世でいうところのブラジャーなんてものも、この世界にはそもそも存在しない。それでも簡易的な胸当てはしていた。しかし先程、胸の頂まであっさりとアリオトの侵入を許したように、それは酷く心許ない。
それゆえに、立派とまでは言えなくとも、それなりにはある胸の谷間はしっかりと晒され、肌を撫でるひんやりとした空気が、今の自分がどれほど無防備な姿となっているのかを否応なしに教えてくれる。
そして、首から胸にかけて無数に散らされた赤い花が、毒々しくもなまめかしい。
アリオトはそれらをじっくりと眺め、そのまま私に覆い被さり、その一つに吸いついた。。
「いやぁッ……やめて!アリオト!」
赤き花をさらに色鮮やかに赤く染め上げ、舌を這わす。
先程までは、そこまで感じなかった不快感が、心を取り戻した今、悪寒となって全身を駆け抜けた。
「ふふふ……ユフィの肌は本当にふわふわで甘いね。思わずたくさん花を咲かせちゃったよ。さぁ、次は胸の蕾を直接可愛がってあげるからね」
なんてことをくぐもった声で告げつつも、胸の谷間へと舌を差し入れ、胸当てを引き下ろすべく指をかける。
「お願い!やめてッ…………」
これ以上は許したくないと、私の虚しき声が部屋に響いたその刹那―――――――――
何にかの気配を感じたらしいアリオトが弾かれたように顔を上げた。そして、素早く閉じられた窓へと視線を向ける。と同時に、それは来た。
もはやお約束となった文句と一緒に。
『やっぱり、セイリオスはウサギ使いが荒すぎるにゃぁぁぁぁぁぁぁ――――――ッ!』
窓を破るでもなく、壁を壊すでもなく、まるで幽霊のように突き抜けてきたウサギ型魔獣のシャム。
突如として現れた愛くるしいモフモフな珍客に、アリオトと私は驚きで目を瞠った。
そうここはアリオトの結界が張られた部屋。聖獣のシロでさえも、アリオト自身が扉を開けるまでは入れなかった部屋なのだ。
しかしアリオトはすぐに察したようで、盛大に舌打ちし、独り言ちる。
「そういえば、この猫ウサギは幻獣だったな…………」
そうだ。シャムは以前、アカが張ったまやかしの炎の結界も難なくすり抜けてきた。場所さえ特定できれば、こうして入ってくることはいくらでも可能なのだろう。
ただ問題は、その場所特定をどうやってしたかなのだけれど…………
「シャムッ!」
今はそんなことはどうでもいいとばかりに、あられもない格好でベッドに縫い付けられたままシャムを呼んだ。
これまたいつものように、両手を使って器用に毛づくろいを始めていたシャムは、私からの声に垂れている耳をピクリと動かし、クリクリとした真っ赤な瞳を私に向けた。
そして、暫しの硬直。
今度は驚愕のままに、大きな瞳をさらに倍加させ、タワシのように毛を逆立てると、垂れていた耳をピンッと立てた。
「ユ、ユ、ユフィ!なんて格好しているにゃ!セイリオスがこれを見たら、怒りで王都が吹き飛んでしまうにゃ!」
私も…………そう思う………………
いや最悪、周辺諸国を巻き込んでの大参事になるような気がする。
しかも、今回の件にトゥレイス殿下が深くかかわっている以上、デオテラ神聖国が更地の最有力候補地であることは、もはや疑う余地もない。
つい先程までは、たとえこの姿を見られたとしても、お兄様たちが救えるのならそれで構わないとそう思っていた。
でも、光結晶も出せないばかりか、より一層制服が無惨に引きちぎられ、アリオトの所有印が露となったこの状態ではもう無理だ。
見せられるわけがない。
見られて平気でいられるわけがない。
そして間違いなく、私の心が壊れるだけでなく、お兄様の心を壊してしまう。
なのに、今の私はアリオトによって、両手足を黒い靄のようなものでベッドにガッチリと固定され、曝け出しているモノを、どれだけ隠したくとも自らの意志では隠せない。
その場を取り繕うこともできないのだ。
そのため、先陣を切って乗り込んできてくれたのがシャムだったことに、私は心底安堵していた。
しかし、自分の今の状況を差し引いても、対する相手は“魔の者”であるアリオト。
(お兄様への文句を叫びながらとはいえ)やって来てくれた救世主のシャムに対して、大変失礼なことを思うようだけれど、このアリオトをシャムがどうにかできるとは到底思えない。
そしてそれはシャム自身が一番に理解していることであり、あのすっかりお馴染みとなったシャムの文句からしても、シャムはお兄様に命じられてここへ来たのは火を見るよりも明らかだった。
つまり裏を返せば、シャムがここへ来たということは、お兄様たちもすぐここへ来るということで――――――――
それを素直に嬉しいと思うよりも、こんな姿を見られたくないという気持ちが勝り、私は暗澹たる想いで唇を噛みしめた。
そんな私の心境を他所に、わたわたと地団太を踏んでいるシャムに向ってアリオトが声をかける。
「で、お邪魔でしかないウサギ猫は、一体何をしに来たのかな?もしかしてボクのペットになりたいとか?」
「そんなわけないにゃ!それよりユフィになんてことするにゃ!早くユフィに服を着せてあげるにゃ!」
「いやいや、なんてことって…………これが目的なんだから、服を脱がすのは当然だと思うけど?だいたいさ、わざわざお愉しみの最中に乗り込んできておいて言う台詞じゃないよね。こっちとしては責められる覚えはないし、むしろ服を剥ぎ取っているところなんだから、服を着せる気なんて毛頭ないね。なんならこのまま永遠にずぅ~〜〜っと?」
敢えて煽るような口調でそう言うと、アリオトは私をベッドに残したまま、シャムと対峙するようにベッドから降り立った。
二足歩行のウサギ型魔獣はアリオトよりも背が高く、モコモコしている分、その体格も細身のアリオトよりずっと大きく見える。
しかし、アリオトが放つ無言の圧に押し負けるかのように、シャムはじりっ、じりっと後退していく。
そんなシャムに、アリオトは訝しげに首を傾げた。
「それで、本当に何しに来たわけ?お前一匹でユフィをボクから奪いに来たとでも言うわけじゃないんでしょ?それに一体何を隠し持っているのかな?」
アリオトは足元で揺らぐ己の影を、ゆっくりとシャムへと伸ばしていきながら、手を差し出した。
隠しているものをここへ出せと謂わんばかりに。
けれどシャムは、ブンブンとある意味耳を凶器に変えて、首を横に振った。
「これはまだ渡せないにゃ!それよりユフィに服を着せるにゃ!」
「なにそれ?お前、ユフィの保護者かなんかなの?悪いけど、今は脱がすことはあっても着せることはないな。お前を消した後に、続きをするつもりだからね」
まるで邪魔された読書の続きをするとでも言うように、アリオトは悪びれもなくそう告げると、さらにシャムへと詰め寄った。
その圧に、じりっとまた後ろへ下がるシャム。
ベッドから顔だけを上げてその光景を見ている私には、アリオトの影が床を這い、シャムへと真っ直ぐ伸びていく様が、ただただ悍ましかった。
しかしシャムは、どんなにその見た目が愛らしく癒しの塊であろうとも、魔獣であり、幻獣だ。
たとえアリオトの影に、呑まれるようなことがあったとしても、その身は闇属性を持つため、きっと大丈夫なのだろう。いや、お兄様が大丈夫だと判断したからこそ、先行してここへ来たのだと、せり上がってくる不安を押し沈める。
でも、だとしたらどうするつもりなのかしらと、私は必死に思考を巡らせた。
けれど、当のシャムの主張はあくまでも私の服に関することだけで………………
「とにかくユフィに服を着せるにゃ!そうしないと本当に大変なことになるにゃ!」
「服のことはどうでもいいんだよ。それより一体何を隠しているのか、そろそろ教えてくれないかな?ボクもさそんなに気の長い方じゃないんだよ。これでお預け二度目だし?いい加減、うんざりだ」
アリオトがそう言い放つと同時に、アリオトの影がシャムへと一気に伸び、シャムの足に絡み付いた。じりじりと後退し続けていたシャムの背中はすでに壁へと到達しており、もはや逃げ場もない。そのシャムの身体をアリオトの影がぐるぐると巻き付きながら這い上っていく。
「シャムッ!」
「ユフィ、心配ないにゃ!それより、覚悟するにゃ!」
「えっ?」
覚悟って何………………?
そう問い返す間もなく、シャムが自棄になったように叫ぶ。
「シャムはちゃんと忠告したにゃ!だからもう知らないにゃ!」
ちょっと待って!それはさすがに投げやりになりすぎでは…………という声も、やはり発することができない間に、シャムは長い耳の中から何かを取り出すと、投げやりどころか、実際に投げてきた。
綺麗な放物線を描きながらベッドへと飛んできた何か。
それを視線で追うように振り返ったアリオトの目が大きく見開いた。
ポンッとベッドの上で一度跳ねてから、コロコロとサイコロのようにそれは転がり、私の顔のすぐ横で落ち着いた。
左に顔を向ければ目と鼻の先という近さだ。
一辺十二、三センチほどの立方体の箱。
よくぞこのサイズの箱が耳に入っていたものだと、違う感心を覚えてしまうけれど、今考えるべきところはそこではない。
蓋と呼べるものはなく、黒と灰色の金属片が交互に並んでいる。
前世では確かこれを市松模様と呼んでいたはずだ。
しかし、初めて見る箱だった。それでもその形状には酷く覚えがあった。
「どうしてそれがここに………………」
薄っすらと漏れ聞こえていたアリオトの動揺さえ感じさせる声に、私はこの箱の正体に確信を得る。
ロー様が預かったというからくり魔道具だわ。
でもどうしてこれをシャムが………
けれど、その疑問について考える暇もなく、それはすぐに起こった。
カタ……カタカタカタ……カタタ…………
市松模様に並んだ黒と灰色の金属片の紋様一つ一つが、まるで意志を持ったかのように、突然動き始めたのだ。
時には箱の中から押されたかようにブロックとなって飛び出し、そうかと思えば中から引っ張られたかのように引っ込んでしまう。
その動きを見て、「からくり魔道具が開こうとしているんだわ」と、私は無意識のままに呟いていた。
しかし、アリオトにとっては到底あり得ないことだったらしい。
「そ、そんな馬鹿なことって………………」
まるで悪夢を見ているかのようにその箱を凝視する。
カタ……カタカタ………………カタンッ!
やがて中から、黒い金属片が付いたブロックが押し出されることで、最後のからくりが解けた瞬間、立方体の箱がパタリと展開図のように開き、そこからは陰鬱な闇がどろりと零れ出た。
「これは………晦冥海………?」
ベッドに広がる闇の海と、波打つ波紋。
しかしその闇に、何故か恐怖を感じることはなく、むしろその暗黒の海に身体を漂わせながら、温かい………とまで思った。
そして、そこからゆっくりと浮上してくる何か。
紫銀の髪。
アメジストの瞳。
麗しすぎる相貌に純白のブレザー。
どんなに涙で視界がぼやけてしまっても、私には誰だかわかる。
「――――――まったく、闇から這い出ることになろうとは、“魔の者”にでもなった気分だな」
なんてことを一人ぼやきつつ、片膝を付く態勢で常闇の海底から浮上してきた人は――――――――――
南の公爵令息であり、現“幻惑”の能力者にして超絶シスコンである私のお兄様。
セイリオス・メリーディエース――――――――その人だった。
こんにちは。星澄です☆
たくさんの作品の中から、この作品にお目を留めていただきありがとうございます♪
喉風邪絶好調。
私は絶不調。
そんな中で(どんな中?)ようやく待ちに待ったお兄様登場です。
やれやれですね。
しかし次回は怒れるお兄様。
怖そうです。
恥ずかしながら誤字脱字は見つけ次第、すぐに修正いたします。
何卒ご容赦のほど………。:゜(;´∩`;)゜:。
どうぞよろしくお願いいたします☆
星澄




