私、気づいてしまいました(3)
え〜っと………………
ちょっと色々おかしくない?
どうして“魔の者”であるアリオトの執事を、聖獣の雪豹がしているの?
いや、それを言うなら、“神の娘”の生まれ変わりである(少し自覚してきた)私が、“魔の者”であるアリオトを愛していることも、よくよく考えてみたらおかしいのだけれど………………
つい先程まで、アリオトから与えられる熱に浮かされていた私は、どうしても思考を繋ぐことができなかった。
でも今は、ただただ揺蕩う淫らな熱から――――アリオト自身から――――解放され、少しずつ思考が回り始めている。
但し、完全に混乱の坩堝の中で―――――
私は至極ご尤もな疑問で脳内をマーブル模様にしながら、神が特別に創造したと謂われる聖獣を呆けたように見つめた。
キラキラと輝く雪の如き艷やかな白銀の毛。ほんのりと水色を含む白銀の瞳。少し丸みを帯びた耳とマズル。床を掴むように立つ手足は逞しいのにスラリと長く、フリフリとゆったり振られているしっぽはその先端にリボンを付けてあげたくなるほどに愛らしい。
『フィリア……』
切なげにかけられる声は、とても耳障りよく響く。
なのに、何故か慟哭にも聞こえて、私はシーツから飛び出し、彼の首元に抱きついていた。
雪豹はそんな私を受け止め、堰を切ったように想いを吐露する。
『…………会いたかったのです。ずっとずっと貴女様に。貴女様を失ったあの日から……私は寂しくて、悲しくて、ただ声が聞きたくて、気が狂ってしまいそうでした』
「ごめんね……ごめん……なさい…………」
当たり前のように口を衝いて出た謝罪の言葉。その言葉に、彼の声はさらに涙に滲む。
『フィリア………フィリ……ア…………』
何度も何度も、かつて仕えていた主の名を呼び、私に甘えるように、頭を擦り付けてくる雪豹。その大きな頭に私もまた頬を寄せて、より強く抱き締める。
頬に降れる毛はさらさらと肌触りよく、ひんやりとしていて、火照った頬には心地いい。
あぁ…………あの子の毛とは手触りも、長さも違うけれど、私はどちらも好きだわ。
不意に頭を横切った思いもよらない感想。
自分の思考なのに、当然のように出てきた“あの子”が誰のことなのかわからず、私は雪豹に抱きつきながら身体を強張らせた。
身体を密着させていたせいで、どうやらそれを敏感に感じ取ったらしい。
『フィリア、どうしましたか?』
彼もまた僅かに身体を強張らせながら、心配と不安に揺れる声で聞いていくる。
そんな彼に「違うの…………」と呟き、ぎゅっと抱きしめ直した。そしてさらに、彼の柔らかい猫毛に顔を埋め、今度は私が彼に頬摺りをする。
そう、それはとても不思議な感覚だった。
どうしようもない幸福感に包まれ、そこに酔いしれるのではなく、混乱しかなかった頭が、絶対的な安心感で落ち着きを取り戻し、徐々に冴えてくる感じだ。
やはりこれは聖獣である彼の存在と、アリオトの熱から解放されたからだと結論付けた私は、ここぞとばかり必死に考えを巡らせた。
そして現在、自分の中で最大の謎と言っても過言ではない疑問を雪豹にぶつけてみる。
「あの……どうして聖獣のあなたが“魔の者”であるアリオトの執事をしているの?」
しかしその問いかけに対して返ってきたのは、執事をしている理由ではなかった。
『シロと……呼んでくださいませんか?』
突然雪豹から寄せられた懇願。そのことに私はまた言い知れぬ既視感を覚えて、彼から少し身体を離した。
どうやらそれを拒絶と受け取ったらしく、大きな雪豹が花が萎れるように、しゅんと項垂れる。
それは主に怒られた犬のように耳が垂れ、フリフリと揺れていたしっぽまで、ダラリと床に沈でいる有様だ。
あぁ、どうしましょう。勘違いさせてしまったわ。全然違うのに……
それに気づいた私は、大急ぎで否定する。
「ち、違うわ!勘違いしないで!呼びたくないとか、そうことではないからね!」
それからもう一度身体を寄せ、彼の望み通りの名を口にした。
「シロ…………」
『はい…………』
「ふふふ、シロ」
『は…い…………』
やはり雪豹は立派なネコ科なのか、喉奥をゴロゴロと鳴らしながら甘えてくるシロが純粋に可愛いと思う。たとえその体長が三メートル程あろうともだ。
それに、口にすればするほどその名前は私の中でしっくりときた。
フィリアがこの雪豹のことをそう呼んでいたんだろうな、と微笑ましく感じられるほどに。
そして、もはやただの気のせいでは片付けられない既視感を募らせるほどに。
「ねぇ……シロ。教えて欲しいの。もちろんあなたが執事をしている理由もだけど、私は今、どういう状態なのかしら。あなたのことを懐かしく思う度に、どうしようないほどの既視感に襲われるし、大切な何かをどこかに置いてきてしまったかのような喪失感?……みたいなものもあったりするの。でもね、考えようとする度に、頭がアリオトでいっぱいになって、愛するアリオトが傍にいてくれるなら、それでいいかなって思ってしまう自分がいるのよ。こんな状態はおかしいと思うのに…………私は一体どうしてしまったのかしら」
『…………………………』
シロは鳴らしてた喉を沈黙させ、その代わりにグルルと小さな唸り声を立て、毛を逆立てた。
それだけでわかる。
やはり聖獣のシロは、“魔の者”であるアリオトの忠実な執事ではないのだと。
そして、シロは“神の娘”であるフィリアの絶対的守護獣なのだと。
つまり、それは“神の娘”の生まれ変わりであると国王陛下から認定され、最近ではそれを自覚の有無に関係なく認めざるを得なくなりつつある私にとっても、絶対的な守護獣であるはずで………………
「お願いよ、シロ。アリオトが傍にいなければ、私はこうして少しは冷静に考えられる。あなたが答えられる範囲でいい。完全に私の心がアリオトで染まり切ってしまう前に、私に教えてほしいの」
明らかな苛立ちと怒りを全身から立ちのぼらせていたシロは、ふぅぅぅ〜っとまるでガス抜きでもするように息を吐いた。そして、逆立てた毛を落ち着かせ、スリッと私に頭を擦り付けてから、口を開く。
『もとよりそのつもりです。すみません、千年ぶりに貴女様に会えて、感情の制御ができませんでした。神聖なる守護獣でありながら、本当に情けない…………あの暑苦しい馬鹿狼のことは言えませんね』
シロは自嘲するように笑って、名残り惜しそうに全身を私に念入りに擦り付けると、長いしっぽを私の両足にギリギリまで纏わりつかせながら離れた。
「シロ?」
急に離れていったシロに慌てて声をかけるものの、フリフリと揺れながら遠ざかるしっぽについつい気を取られてしまう。
どうやら私は重度のモフモフ依存症を発症しているらしい。そんなことすらも、今初めて知ったかのように感じてしまう自分に、やはりこれは普通の状態ではないわね…………と、内心で嘆息する。
おそらく、シロが口にする“馬鹿狼”さんのことも私は知っているはずだ。そして、モフモフ依存症を存分に発症させていたに違いない。
うん、これは由々しき事態だわ。
いえ、この場合、こんな時でさえ発症させてしまうこの依存症の重篤ぶりを嘆くべきか、難しいところではあるけれど。
しかしここは、しっかりシロに説明をしてもらわなければ…………と、改めてシロを見やれば、雪豹であるシロの身体を細やかな雪が覆い始めていた。
それは雪華のベールに包まれたかのような、幻想的な光景。
「シロ!消えないで!」
咄嗟にそう叫んでしまったのは、シロがあまりに儚く見えてしまったからだ。そして、いくらアリオトに心を寄せているとはいえ、一人取り残されることに、心細く感じたからかもしれない。
そんな私に真っ白な雪のベールを被ったシロが、氷解するようにふわりと笑う。
『大丈夫ですよ。人型に戻るだけです』
「あっ………………」
そう言えば、シロははじめから説明してくれる気でいたんだったわ…………と、自分の必死さが酷くまぬけなものに思えてくる。当然、そこには羞恥心もブラスだ。
でもシロは、慈雨のような優しい笑みを浮かべただけで、清涼なる風の中で淡き雪のベールを脱ぐように人型へと戻った。
「へっ?シロは執事ではない?」
そう聞き返すまでもなく、シロが執事でないことはわかっている。
そもそもシロは聖獣であって人間でもない。
しかし、人間に扮している間は執事として暮らしているのかと思いきや、どうやらそれも違ったらしい。
「そう言えば、まだきちんと名乗っていませんでしたね。ここでの私は、ニウェウス・アンゲリーと名乗っております。そしてこの屋敷は、アンゲリー伯爵である私のもの。つまり私は当屋敷の主であって、執事ではございません」
「うッ………………」
「嘘ではありません」
「じょッ……………」
「冗談でもございません」
さすが“神の娘”の守護獣だけあって、私が発しようとした言葉をすべて先読みして、悉く切り捨てていく。
情け容赦もあったものではない。
けれど現在、部屋に備えつけてあった魔道式ポットを使い、無駄な動き一つなく、流れるような所作でお茶を入れながらそんなことを言われても、まったくもって説得力がない。
しかも、私の記憶が正しければ、アリオトはシロに向って『執事であるお前の仕事だろ?』と言っていた。
つまりそれは、アリオトにとってシロは執事に外ならないわけで……………………
う〜ん、さっぱり意味がわかりません。
降参とばかりに、シロに対し早々に白旗を揚げた私の前に、キャスター付きのサイドテーブルを引き寄せ、シロは恭しくお茶を置いた。
ちなみに、今私が腰かけているのは椅子ではなくベッドだ。
もちろんその理由は、この部屋がれっきとした寝室であり、お茶を楽しむための応接がないためである。
そして、そんな寝室におけるメイン家具であるベッドのシーツもまた、シロによってそれはもう優秀なメイド並みの手際で取り替えられてしまった。
ベッドをこんなにしてしまった(ほとんどはアリオトのせいだけれど)私が、羞恥のあまり再びシーツお化けとなって部屋の隅で悶えている間にだ。
この手際で伯爵家当主だというのだから、俄かに信じられるわけがない。
しかし、シロの言い分はこうだった。
「千年前からやっていたことですからね。さすがにそれだけの年数やり続けていれば、たとえどんなに不器用でも身につきますよ。だいたいあの馬鹿狼は、こういうことには興味がないなどと言って一切やらないし、私がするしかないでしょう?」
確かに………………
積んできた経験値が千年分のシロが、下手くそなわけがない。
むしろ、どれだけ有能な執事であったとしても、はたまた優秀なメイドであったとしても、シロにとっては所詮駆け出しのようなもの。
それも赤子同然のだ。
なるほど、シロにとってはこんなことは朝飯前ってことなのね―――――――と、手前勝手な納得をしつつ、爽やかな香気を漂わせる白い陶磁器のティーカップをソーサーごと手に持ち、香りを愉しみつつ口をつけた。
そして私は目を瞠る。
「私……このお茶が好きだった…………と思うわ」
とても曖昧な表現になってしまったのは、記憶としてあったからではなく、感覚でそう感じたからだ。
けれど、その感覚は正しかったらしく、シロはうんうんと嬉しそうに頷いた。
「でしょうね。千年前も貴女様はよく好んでこのお茶をお召し上がりになっておられました。それも、私が入れたお茶が一番美味しいなどと仰って…………」
何故かここで言葉を詰まらせたシロは、すぐに何かを思い直したらしく、小さく首を横に振ってから、一際静かな口調となった。
「申し訳ございません。ちゃんとわかっているのです。今の貴女様はもう私の知るフィリアとは異なる存在で、別の人格をお持ちであるということは。しかし、貴女様の魂に千年ぶりに触れたことにより、抑えようもなくあの頃の記憶が押し寄せて参りまして、あまつさえ貴女様をあの頃のようにお呼びしてしまいました。ですが、今の貴女様は南の公爵令嬢。その愛らしくも美しい造形は、千年前とほとんど変わりませんが、髪の色があの頃とは異なるように、貴女様もまたフィリアではございません。本当に大変失礼なことを致しました。これからはユーフィリナ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
改まってそんなことを告げてくるシロに、私の方が恐縮してしまう。
確かに私は、フィリアの魂を持つ“神の娘”の生まれ変わりかもしれないけれど、今の私はシロが言うように、決してフィリア自身ではない。
だから、シロの申し出は十分に理解できるし、当然とも言えるものだった。
しかし、それに頷く前に、どうしても気になることがあり、私はサイドテーブルにお茶を置いて、「その前に一ついいかしら?」と、シロを見つめた。
シロは伯爵家当主というよりも、執事然として私の前に立ち、酷く神妙な顔で頷いた。
そのため、少し笑って「たいしたことではないわ」と付け加えておく。実際のところ、本当に他愛もないことだ。ただ少しこれから名前を呼んでもらう上で、若干気になっただけの話で………………
「その…………シロはとても礼儀正しいわ。紳士だし、マナーもとても立派だと思う。それに、フィリア……様のことを主としてとても慕っていることが十分に伝わってきて、私も嬉しく思っているほどよ。でもね、同時に違和感もあるの。どうしてフィリア様を呼ぶ時に、敬称が付いていないのかしら?」
「そ、それは…………」
シロにとっては予想だにしてなかった質問だったのだろう。すごく決まりが悪そうに、目を泳がせている。
その姿に―――――――
駄目だわ。これではまるで呼び捨てを責めているようじゃない!
――――と、慌てて足りてなかった言葉を補足する。
「違うのよ。責めているわけじゃないの。ただ、“貴女様”と呼んで敬意を忘れないあなたにしては、とても親しげな気がして……だからね、深い意味はないの。少し気になっただけというか…………不思議に思っただけというか…………」
必死に、責めるつもりはないのだと、猛アピールする私。もちろん口だけではなく、責める気など毛頭ない。
そんな私に、「わかっております」とシロは苦笑して、私の疑問に答えてくれた。
「融通がきかない私に、フィリアが敬称を省いて呼ぶようにと命じ…………いえ、お願いしてきたのです。もっとあなたたちと仲良くなりたいからと。それも、そう呼ばないと私もシロ様と呼ぶわよ――――――と、言われてしまい、已む無くそうお呼びすることに…………ちなみにあの馬鹿狼も、さすがにはじめは面食らっておりましたが、順応性があると言いますか、何も考えていないだけと言いますか、あっさりと“フィリア”と呼ぶようになり、私も対抗心を煽られる形でそのように…………」
そう答えるシロは非常に罰が悪そうだ。
おそらく、もう一匹の守護獣である“馬鹿狼”と張り合った末に――――――というところが、シロにとっては気まずくて仕方ないのだろう。
けれど、それだけではないと思う。
シロの様子からも、フィリアは自分の守護獣たちを殊更大事にしていたはずだ。その主を、自分たちは守り切ることができなかった。
そして千年という時を待ち、シロはフィリアの魂と再会した。その千年という気が遠くなるほどの長い時間を、シロはどれだけ自分を責めながら生きてきたのだろう。
なんとなくだけれど、フィリアが死んだのはシロたちのせいではないはずなのに…………
そこで私は決めた。
シロになんて呼んでもらうかを。
「そうね…………では、私のことはユフィと呼んでくれないかしら」
「えっ?」
シロは白銀の目を丸くした。麗しき怜悧な容貌が、愛らしさを伴って崩れたことに、私はクスクスと笑う。
「私もフィリア様に対抗心を燃やすわけではないけれど、できれば私も畏まって名前を呼ばれるより、親しげに名前を呼ばれたほうが嬉しいわ。だからシロお願い。私のことは“ユフィ”と呼んでね。それと、私も“シロ”と呼ぶのはやぶさかでないのだけれど、聖獣としてのお名前も教えてくれないかしら」
できる限りシロのすべてを知って、すべてを受け入れたいと思った。この忠義に厚い雪豹が千年間抱え込んできた罪悪感も一緒に。
ううん、それはさすがに烏滸がましいわね………………
そう、何度も言うようだけれど、私はフィリアではない。
今の私は正直記憶も曖昧だけれど、ユーフィリナ・メリーディエースという公爵令嬢であることに間違いはない。
だから、当人でもない私がシロに対し、その罪悪感を引き摺るな、とは安易に口にすることはできない。
けれど、ユーフィリナとして、これからたっぷりシロを慈しむことはできる。
もう淋しくないからと、寄り添うことも――――――――――
私の前に立つシロは、小さく唇を戦慄かせながら、大きく瞠っていた目を眩しそうに細めた。それから俯き、唇から全身へと戦慄きを伝播させつつ、私の質問の答えをようやく声にする。
「私はニクス……“シロ”はフィリアが付けてくれた愛称です。ユフィ……今から私と彼の者の関係、そして私がここで何をしているのか、すべてをお話しします。どうか驚かずに聞いてくださいね」
ニクス――――――――――
それはたぶん、私が飼っている雪だるまな愛猫と同じ名前だわ。
肝心な話を聞くよりも前に、早速シロから与えられた驚き。
さらには、自分が愛猫の存在を覚えていたことにまで驚いてしまう。
そして、突如として耳鳴りのように脳内で再生された声。
“ニクス……いいんじゃないかな。なんか面白いことになりそうな気がするし。うん、ニクス……いい名前だよ。これは楽しみだ”
悪戯に満ちた笑顔を添えて、そんなことを言ったあの人。
なのに、いつだって泣きそうな顔で私を見つめてくるあの人。
そう、私の中にはアリオトだけでなく、あの人もいて――――――――
心に満たす闇に、一瞬光が差したような気がした。




