私、気づいてしまいました(1)
色がない世界。
無味乾燥な世界。
きっとこれは夢なのだと思う。
だって、どこにもあの人がいないから。
……………………
……………………
……………………
……………………あの……人?
あの人って…………誰のことかしら?
自分であの人がいないと思ったのに、そのあの人が誰だかわからない。
名前も顔もわからない。
どんな笑顔で、どんな瞳で私を見つめていたのか、何一つとして思い出せない。
でも、どこか遠くで声が聞こえる気がする。
切なげに、哀しげに、苦しげに、何度も何度も私を呼ぶ声が。
ユーフ……ィリナ……
ユーフィリナ……
ユフィ………………
そうよ。私はユーフィリナ。
ユーフィリナ・メリーディエース。
南の公爵令嬢。
けれど、それ以上のことを思い出そうとすると、何故か途端に苦しくなる。
どうしようもなく胸が締め付けられて、息をすることさえままならない。
この無味乾燥な世界を涙で濡らしてしまうほどに。
ねぇ、そんなにも切なげに私を呼ぶのに、どうして貴方はここにいないの?
貴方がいないから、この世界は色を失ったの?
貴方は……………一体、誰なの?
ごめんなさい。
何もわからないの。
貴方のことも、あの人のことも。
貴方があの人なのか、それさえもわからない………………
色のない世界。
あの人がいない世界。
貴方がいない世界。
そんな世界で唯一、私の心を染め上げるのは――――――――
「……ユー…フィリ………ユーフィリナ嬢、起きて」
耳を擽る甘さを含んだ男性の声に、どこかに沈んでいた意識がゆっくりと浮上してくる。
そして、頬を伝うものをひんやりと冷えた指で撫でるように掬われて、私は薄っすらと瞼を開けた。
美しく誂えられているにもかかわらず、どこか寂寥が漂う広い部屋に、ポツンと置かれた豪華で立派な天蓋付きベッド。
窓はあるけれど、差し込んでくる陽の光はなく、サイドテーブルで心許なげに小さな炎を揺らすランプの灯りだけが頼りな状況。
その僅かな灯りに照らされながら、私に寄り添うように、直接ベッドに腰かけている私と同じ制服姿の男性。
銀と言っても差し支えない灰色の髪が、ゆらゆらと漂うランプと影に染まっていた。
「…………あなた……は…………」
ぼんやりとした視界に映る美しすぎる相貌。
瞳の色は琥珀。
飴のように甘そうな琥珀の瞳が、安堵と不安の狭間で、ランプの灯火と一緒にゆらゆらと揺れている。
それが酷く寂しそうに見えて、私は思わずさらさらと僅かな動きにも流れる灰色の髪に手を伸ばす。
そして私は自分の手の甲に付いている真っ赤な薔薇のような紋様に気がついた。
「綺麗………………」
思わず口を衝いて出た言葉。
その言葉に、目の前の彼はさらに嬉しそうに目を細めた。
「気に入ってくれた?」
「えぇ…………とても…………」
そう答えながら、酷く胸が軋んだ。
何故か、右手も。
でも、その理由がわからず、私は左手の甲に刻まれた紋様を見つめながら、彼の髪に指を通し、そっと撫でた。
そして、私の頬を撫でたせいで濡れてしまった彼の指に視線をやって、やおら尋ねる。
「もしかして……私…………泣いていたの?」
「みたいだね。怖い夢でも見たのかな?」
そう言って、さり気なく濡れた指を自分の唇に当てがい、私から視線を逸らさないままにリップ音を立てる。
その甘さしかない仕草を、私は一つの風景のように目におさめて、ふわりと微笑んだ彼の表情に違和感を覚える。
この人はこんな風に笑う人ではなかったわ………………
どちらかというと表情筋が死んだような人だったはずだと、私は未だ覚醒しきれずぼんやりとする思考を巡らすけれど、頭の中に靄がかかったかように何も見えず、私は早々に考えることを放棄した。
そこで、彼の質問に答えることにする。
「怖い夢というより、色も、何もない夢でした…………ただ、声が聞こえていて…………遠くのほうで私のことを呼ぶ声が…………」
そんな漠然とした答えに、彼は柔らかく表情を崩すと、嬉しそうに口を開いた。
「それは私の声だ。ずっと、眠ったままの君に呼びかけていたからね」
「あの声は、貴方様の声でしたのね。とても切なげで、哀しそうに響いてきた声は……」
私は縋りつくような視線を彼に向けて、念押しでもするかのようにそう尋ねると、彼は力強く頷き返してくれた。
「そう、その声は私だ。私の眠り姫に一刻も早く目を覚まして欲しくて、必死に呼びかけていたからね」
「……気づかなくて、ごめんなさい………」
するりと出た謝罪の言葉が、妙に薄っぺらいものに感じて、私はどうして?と、一度は放棄した思考を寄せ集める。けれどそれも、彼の問いかけの前に、散り散りとなった。
「ユーフィリナ嬢、私が誰だかわかるかい?」
何を馬鹿な…………と思う。
わからないはずがない。
だって、今の私の心を染め上げているたった一色の色は、彼なのだから。
「貴方様は、私の愛しい人。トゥレイス殿下…………」
そう名前を口にしただけで、私の身体は忽ち高揚感に包まれた。
私の口から出た名前に、彼もまた嬉しそうに目を細めたものの、すぐに訂正を入れてくる。
「二人でいる時は、殿下はやめてくれ。トゥレイスでいい。さぁ、もう一度私のことを呼んで」
甘く囁かれたお願いに、私はベッドの上でクスクスと笑うと、彼の望みを叶えるべく、彼の名前を呼んだ。
「トゥレイス様…………」
自分でも驚くほど陶酔と甘美に満ちた声だった。そんな自分の声に、私は恥ずかしさのあまり全身を真っ赤に染め上げた。おそらく瞳は涙で潤んでいるに違いない。そのせいなのかはわからないけれど………………
「可愛い…………」
などと告げて破顔した彼の顔が、どこか水面に映る月のように現実味なく見えてしまう。
だけど、不意に落とされた額へのキスだけが熱を孕んで、今ここに彼が存在するのだと教えてくれた。
「トゥ……レイス……さ……ま……………」
「ユーフィリナ嬢、愛している」
額を皮切りにして、そのまま私をベッドへ深く縫い付けながら、頬、鼻へと順々に落とされるキスの雨。
そんな優しくもどこか淫らに降り注ぐ雨に溺れて、身体は熱を帯びていくのに、心は相反するように徐々に冷えていく。
どうして?
私は彼を愛しているのに…………
最後に、チュッとリップ音付きで頬にキスを落とし、トゥレイス殿下が私から離れる。
そして、重なり合った瞳と瞳。きつく絡まり合う視線。
一度絡まった視線は解けることなく、何かの引力が働いたかのように、トゥレイス殿下の熱が私の唇へと落ちてくる。
けれど、彼の吐息が唇に触れたと同時に、「駄目……です」と、私は強引にそれを断ち切った。
何故かなんてわからない。
でも、このままでは心が凍え死んでしまう思った。
「ユーフィリナ嬢…………?」
そんな私に、今度は不安そうに降ってきた声。
「私とのキスは嫌か?」
「嫌…………ではないです」
だって、今の私の心には貴方しかいないのだから。
そのはずだから。
けれど………………と、目を逸したままで口を噤む。
すると、冷たい指先が私の頬の形のなぞるように顎に向かって伝い落ち、そのまま顎に指をかけ、否応なしに瞳を合わせられた。
「私のこと愛してる?」
「……愛して……います」
たどたどしくもそう答えた私に、トゥレイス殿下は困ったように眉を下げた。しかしすぐに、その顔を隠すように俯く。
そして私から手を離し、ゆっくりと立ち上がると、二歩、三歩と後退し、突然顔を両手で覆った。
「トゥレイス様…………?」
私はベッドに沈んでいた鉛のように重い身体を持ち上げ、言いしれぬ不安と違和感を改めて胸に抱え込みながら彼を見つめる。
小刻みに震える彼の身体。
泣いている?
いえ、笑っている?
そんな小さな勘ぐりは、すぐに事実だと証明された。
彼が我慢しきれないとばかりに声を立てて笑い始めたからだ。
「アハハハッ……もう駄目だ。さすがに……限界だ………っていうか、“真紋”まで付けたというのに、キスを拒否されるなんて……ほんと報われないなぁ…………」
“真紋”――――――――
その言葉に引っかかりを覚えて、私は無意識のうちに、自分の左手の甲に視線を落とした。
そこには、先程も思わず綺麗と呟いてしまった真っ赤な薔薇のような紋様が、可憐に花開いている。
しかし、どんなに思い出そうとしても、それがいつどのようにして付けられたものなのか、何一つ思い出せない。
ただ漠然と、彼が愛の証としてここに刻んでくれたという認識があるだけ。
だから、この紋様に嫌悪などない。むしろ、とても美しく、これを見つめる度に彼への想いが募るばかりだ。
なのに、意味なく涙が溢れてくる。
拭っても拭っても、堰を切ったかようにポロポロと零れ落ちる涙は止まらず、左手に咲いた薔薇を濡らした。
「へぇ……そんなに泣くほど、その“真紋”が嫌なんだ」
笑いの余韻を目一杯引き摺ったままそう告げてきた彼に、私は反射的に否定の言葉を口から滑らせる。
「ちが…………」
しかし、言葉を言い切る前に心がそれを制した。
本当に違うのか――――――――と。
そしてさらに、改めて抱え込んだ違和感が、私を困惑させる。
自分の目の前にいる人の姿形は、間違いなく私が愛するトゥレイス様だ。
なのに、明らかに何かが違う。
私にこの紋様を付けてくれた人は、彼であってこの彼ではない。
そんな違和感に、私の身体が拒絶反応を示すように震え始め、ベッドの上でじりじりと後退る。けれど、この豪華な天蓋付きベッドは大人しく寝るだけならばとても広いけれど、逃げ場としては非常に狭すぎる。
トゥレイス殿下が、逃げることは許さないと謂わんばかりに、片膝をベッドに乗せた。そしてロイヤルブルーのブレザーを床に脱ぎ捨てる。
「あ……あ、貴方は誰?ここはどこなの?」
今更過ぎる質問。しかし、彼の外見がどれだけトゥレイス殿下にしか見えなくとも、私の中で違うと警告が為されている以上、彼は私にとってもはや見知らぬ人だ。
トゥレイス殿下に向けるべき愛情を、彼に渡すわけにはいかない。
それなのに、目の前の彼はどこか嗜虐的な笑みを湛えながら、私をじわりじわりと追い詰めてくる。
「ふふふ。まずはここがどこなのかって話だけど、王都のどこかってことにしておうか。そしてこの部屋は、君のために設えた特別な檻さ。ボクはね、ちゃんと約束を守るタイプなんだよ」
「ボ……ク…………?」
彼の一人称が変わったことに気づき、私はそれをそのまま口にした。途端、彼の口角がニタリと弧を描く。
トゥレイス殿下の顔でありながら、その表情は完全に別の誰かだった。
「そうだよ。ボクだ。アリオトだ。ちゃんとボクだとわかったご褒美に、いいことを教えてあげよう。“魔の者”に愛情はない。というか、人間は利用し、穢し、闇へ突き落とすべきものであって、愛すべきものではない。だからこんな執着心の塊ともいえる“真紋”なんてものを、ボクたち闇の眷属が人間に付けることはできない。でもさ、不思議だよね。ユフィと出会い、そして偶然トゥレイスの望みを知った時、無性にユフィに付けたくなってしまったんだよ。このボクの“真紋”をね。でも、それは無理だから、まずはトゥレイスをボクの僕にしたんだ。といっても、僕にしたのは、あの魔道具が暴走した後だ。予想外の暴走で、急ぐ必要に駆られて仕方なくね。ま、遅かれ早かれこうなっていたんだし、時期なんてどうでもいいんだけどさ」
トゥレイス殿下の姿で、アリオトと名乗る“魔の者”が愉しげに話してくるけれど、まったくと言っていいほど、その内容は頭に入ってこなかった。
それよりも、トゥレイス殿下の顔が醜悪な笑みに歪むことを酷く痛々しく思う。
彼は決してこんな風に笑う人ではない。なのに、こんな………………………と、唇を噛みしめる。しかしその刹那、一瞬で私との距離を詰めたアリオトに、私の左手は取られていた。
ベッドの上には逃げ場がない。今や、二人一緒にベッドの上にいる状態だ。
「やめ……て………………」
もちろんそんな懇願は聞き入れられることなく、その手の甲にアリオトの唇が触れる。いや、正しくは、トゥレイス殿下の唇と言うべきか。
瞬間――――――――――
ぞくり…………
全身の毛が逆立ち、背中を嫌悪が駆け抜けた。いや、そう思われた。けれど実際の私は、ただただ目の前の状況を凝視していただけだった。
身体が依然として気怠く、俊敏に動けなかったこともある。それでも手を払うことくらいできたはずなのに、私は素直にアリオトの行為を受け入れていた。
まるでこうすることが当たり前だとでもいうように……………
アリオトから移される熱。そこに魔力を感じたけれど、身体はそれを拒絶することなく、すんなりと受け止めた。
どうして………………
疑問が先に立つ。
しかしその疑問は、新たな形を為して、大きな波紋を広げた。
アリオトの熱から解放された左手。
数秒前まで確かにそこにあったのは、真っ赤な薔薇のような紋様。
なのに、今私の目に映るものは、刺々しい黒い茨の檻に閉じ込められた一頭の淡い紫の蝶。
「これは…………まさか……………?」
何かが、私の心臓に向って激しく脈打ちながら体内を逆流していく。
それが流し込まれたアリオトの魔力だと気づいた時には、私の心に真っ黒な影が差していた。
そしてすべてが塗り替えられる―――――
「あぁ、ユフィ……綺麗に付いたね。これが人間たちが言うところのボクの“真紋”だ。本当はさ、トゥレイスなんかを介さないで直接付けてあげたかったんだけどね、残念ながら、さっきも言ったようにボクには付けることができない。だからあの時、僕であるトゥレイスにボクの魔力を与え、ユフィに“真紋”を付けさせたんだよ。愛という名の執着の枷ってやつをね。そして今度はその枷に対して、このボク自身が直接魔力を注ぎ込んだ。元々ボクの魔力を持つ枷だったからさ、拒絶反応や、弾かれることもなく、トゥレイスが付けた“真紋”を、こうして完全にボクのものへとすり替えることができたんだよ」
そして私へと近づきながら、アリオトは告げる。
「ふふふ……ボクはさ、とても優しい主だからね、トゥレイスにはご褒美として、ユフィと少し愉しませてあげようと思ったんだ。ま、中身はボクで、気持ちいいのもこのボクなんだけどね。だけどさ、キスを拒まれるようでは、さすがにこれ以上のご褒美はあげられないよね。だからもう――――――――
――――――トゥレイスの身体は用無しだ」
そう告げるや否や、トゥレイス殿下の身体から真っ黒な靄の塊が抜け出した。
と同時に、抜け殻となってしまったトゥレイス殿下の身体が、前のめりにベッドへ倒れ込む。けれど、その身体はベッドに突如として広がった闇の海に呆気なく呑まれ、その闇の海ごと瞬く間に消えた。
さらに、私の目の前では真っ黒な煙のような靄が人の形となって、やがて実体を持つ。
ただただそれらの光景を、移り変わる景色同然として、呆然と見つめるだけの私の瞳。
そんな瞳に、少し癖のある黒髪と、闇だけを凝縮させたかのような黒い瞳に、右目の下の泣き黒子がとても印象的な人懐こい笑みが映った。
「やぁ、ユフィ。今の君が愛しているのは誰かな?」
「私が……愛しているのは…………アリオト……よ」
「あぁ、いい子だね。素晴らしいよ、ユフィ。最高の答えだ」
私の言葉を絶賛し、歓喜のままに伸ばされるアリオトの手。
その拍子に、紳士然とした純白のシルクのシャツに、繊細な刺繍が美しいクラヴァットが微かに揺れる。
そして、あらゆるご令嬢を魅了してやまない麗しき容貌に、危険な甘さと色気を滲ませながら、アリオトは私を捉えた。
頬に触れる手はやはりとても冷たい。
でも、私の瞳は、心は、すでにアリオト一色に染められていて――――――――
「さぁ、ご褒美としてあの時の約束を果たそうか。今からたっぷり君を穢してあげる」
毒しかないその言葉を陶酔の中で聞きながら、私はふわりと微笑む。
そんな私にアリオトは目を細めて、頼りなげなランプの光に揺れるシーツの波に―――――――私を沈めた。
こんにちは。星澄です☆
たくさんの作品の中から、この作品にお目を留めていただきありがとうございます♪
今回から新章突入でした。
そしていきなりユフィ大ピンチです。
この章ではまた新キャラ登場の予定ですので、
楽しみしていだけると嬉しいです☆
どうか皆様にとってドキドキワクワクできるお話となりますように☆
恥ずかしながら誤字脱字は見つけ次第、すぐに修正いたします。
何卒ご容赦のほど………。:゜(;´∩`;)゜:。
どうぞよろしくお願いいたします☆
星澄




