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“紅き獣”騒動 後日譚(1)

 目が覚めたらそこは“異世界”だった――――――

 

 というのはもちろん、私の前世である“白井優里”の実体験そのものではあるのだけれど、この私、ユーフィリナ・メリーディエースにとっても、今回の目覚めはそれくらいの衝撃があった。

 それはもう色んな意味で…………

 あの日の記憶は、私の中から抜け落ちることなく、しっかりと残っていた。

 アカの暴走に始まり、“魔の者”の登場に至るまですべて。

 さらに付け加えるならば、トゥレイス殿下からの求婚も何もかもだ。

 そのため、自分が眠り込んでいた理由に、然程疑問は抱かなかった。むしろあっさりと納得さえ覚えていた。あの時の私は、限界まで体力と精神を使い果たしてしまったのだろうな――――――などと。

 けれど、眠り込んでしまっていた時間は、私の想像を軽く超えていたようで……………

「お、お嬢様が、やっとお目覚めに…………もうあれから三日でございます。どれほど皆心配したことか……」

「お嬢様……あぁ、お嬢様…………本当によかった………」

「この三日間……生きた心地がしませんでした。あぁ……神様、ありがとうございます。私どもにお嬢様をお返しくださって、本当に心より感謝いたします」

 どうやら執事のムルジム、そして私の専属侍女のミラとラナの言葉からすると、アカの一件からすでに三日経っているらしい。

 そのため前回(前世の記憶が戻った時)同様…………いや、それ以上に、屋敷内は歓喜と号泣で大騒ぎになってしまった。

 小躍りするうちの優秀な執事とお抱え医師たち、さらにはコック長の歓喜の雄叫び。

 この騒ぎを目の当たりにして、これまた前回同様、私が目を瞑り直してしまったことは言うまでもない。

 うん………非常に有難いし、申し訳なさも感じるけれど、取り敢えず皆仕事をしようか…………

 なんてことを思いながら………………

 その後、医師の診断と回復師から癒し魔法を施され、さらには“魔の者”に遭遇したということで、呪術師から念入りに闇払いの魔法をかけられた。そして、コック長自ら運んでくれた前世でいうところのかぼちゃのポタージュスープを飲み、ようやく落ち着いたところで、今度は執事のムルジムを筆頭に、侍女長のアダーラ、私の専属侍女であるミラとラナからこんこんと説教される。

 特にミラとラナに対しては、状況が緊迫していたとはいえ途中で置いて行ってしまったという罪悪感がある。

 しかも、無茶をした自覚も大いにあるわけで、どれだけ長い説教になろうともここは大人しく聞くしかないと、私は潔く腹を括った。しかし――――――――

「お嬢様の身に何かあれば、このムルジム生きてはおれません!」

「えぇ、私もですわ」

「私も同じくでございますぅぅぅ」

「そんなこと、言うまでもなくですぅぅぅ」

 説教から突如、涙の大合唱へと変わってしまう。

 そうなると、私も大人しく聞いているわけにはいかない。

「だ、駄目よ!皆、心配してくれる気持ちは嬉しいけれど、命を粗末にしては絶対に駄目!本当に私は大丈夫だから、皆してそんなに泣かないで………………」

 必死に宥めながら、ムルジムたちの心の安寧のためにも、暫くは自重しようと心に決める。

 これはある意味、説教よりも効果抜群だった。

 ――――――とまぁ、そんなこんなで目覚め早々疲労困憊となりながら、私は改めて部屋を見回した。

 集っていた家の者たちが仕事へ戻ったことで、本来ならば閑散となるはずの部屋。

 しかし今度は、別のモノで部屋が溢れかえっていることに気づく。

 大量の花に、愛らしいぬいぐるみの数々と、有名メーカーの高級菓子の箱の山。さらにはこれで新しいドレスでも新調してくださいと謂わんばかりの生地まである。

 一体これは何?と首を傾げる私の横で、ムルジムが白いハンカチーフで涙を押さえながら、淀みなく説明を始めた。

「これらの品々はすべてお嬢様へのお見舞いの品でございます。国王陛下、スハイル王弟殿下、東西北の公爵家のご子息たちと、そしてさらにはデオテラ神聖国の第二王子、トゥレイス殿下からもこの三日間毎日届いております。そのためとてもこの部屋だけでは入り切らず、さらにもう一部屋設けて、そちらにもお見舞いの品を置かせていただいております」

「まぁ……ど、どうしましょう。そんなにたくさん?毎日?それも私なんかが迂闊にもらってはいけない方たちばかりだわ。早速お礼状をお出しして目覚めたことをお知らせしなくては…………」

「はい。その手配はすべてセイリオス様の指示により終わらせております。あとは目覚めたお嬢様に一筆認めていただくだけです。後程のお持ちいたしますのでどうぞよろしくお願いいたします」

「助かるわ。ありがとう」

 そう答えて、私は再びお見舞いの品々へと目を向ける。けれど、その目はただそれらのモノを映すのみで、そこに興味も感情も伴ってこない。それどころか、私の目は目覚めてからずっとある人の姿を探していた。そしてその人の名前を聞いた瞬間、会いたい気持ちがますます加速してしまう。

 いつもなら誰よりも真っ先に飛んできてくれる人。

 私を安心させるために微笑みをくれる人。

 そして、私のためなら犯罪だって厭わない超絶シスコンなあの人。

 そんなお兄様の姿が目覚めてからまったく見えないことに、今や不安と焦燥で胸が押し潰されそうになる。

 もしかして、私が意識を飛ばした後に何かお兄様たちの身にあったのではないかしら………………と。

 そう思えば居ても立ってもいられず、ムルジムへ声をかける。

「ところでムルジム……お兄様はどうされたのかしら?ずっとお姿が見えないのだけれど…………」

 すると優秀な執事であるムルジムは、私の問いに卒なく答えてくれる。

「セイリオス様は、あの日から毎日王城より招集がかかり、報告と事後処理に追われていらっしゃいます。そのため、セイリオス様がお留守の間は、お嬢様のお傍から絶対に離れないようにと、我々はきつく厳命されております」

 なるほど……それであのお祭り騒ぎとなるわけね………と、私は若干遠い目となった。しかしすぐに気を取り直して、さらに質問を重ねる。

「そうだったのね。ところでお兄様にお怪我は?」

「ございません。しかし、また例の黒い袋を持ち出そうとされておりましたので、もし三日経ってもお嬢様がお目覚めにならない時にはよろしくお願いいたします――――と、一先ずお止めしておきました。あぁ……本当に、お嬢様が今日お目覚めにならなければ、明日はあの黒い袋の出番となるところでございました。これで南の公爵家も安泰でございます」

「そ、それは…………苦労をかけたわね、ムルジム」

 私は顔を引き攣らせながらもそう答えて、あ、危なかったぁぁぁ………………と、内心で盛大に息を吐く。

 でもすぐに――――――っていうか、三日経ってもよろしくお願いしないで!と、ムルジムを軽く睨んでおいた。

 


 お兄様に聞きたいことがあった。

 私が意識を失ってからのことすべてだ。

 あの後、ヒロインはどうなったのか。

 アカの左目は大丈夫なのか。あのままデオテラ神聖国へ帰ってしまったのか。それともヒロインが正真正銘の“神の娘”の生まれ変わりだと気づいて、彼女の所へ行ったのか。

 シェアトに大きな怪我はないのか。

 あの広場にいた東の公爵家の者たちは皆無事なのか。

 シャムはちゃんと学園に戻ったのか。

 それに、シャムのことではお兄様を説教しなくてはいけない。

 お兄様を一途に慕っているシャムに、あんなデタラメを教えてはいけませんと。

 そして何より、ムルジムからお兄様に怪我はないと聞いたけれど、それでもお兄様の顔を直接見て、私は心底安心したかった。

 一度はアカたちと一緒にアリオトが発動した常闇の海に沈んだお兄様。

 その闇はお兄様たちにどれほどの恐怖を与えたのだろうと、今考えるだけでも身体が俄に震え出す。

 けれど、お兄様はその闇へ沈む前に、ふわりと笑って見せた。恐怖の欠片も見せず、何も心配はないと告げるかのように。

 実際その笑みに、不安を覚えなかったといえば嘘になる。もっと何か違う意味が、そこにはあるのではないのかと考えたりもした……………

 しかしそんなことを考える前に、私はお兄様を信じようと思った。

 そして発動した“光結晶”。そこに書き込まれた転移魔法陣を使い、お兄様は私とアリオトの前に現れた。

 あの時――――――状況が許せば、そのままお兄様に抱きつき、私は泣き出していたかもしれない。

 本当に怖かったのだ。

 アリオトが…………ではなく、お兄様がもし現れなかったらと思うと…………

 意識なく闇の底に沈んでしまっていたら?

 もう手遅れだったら?

 このままお兄様を失うことになったら?


『その時は私も死ぬだけだ』


 えぇ、そうね。私も死ぬだけだわ…………

 あの日、お兄様がシェアトの問いかけに対し答えた台詞に、深く同調している自分が確かにいた。

 だからかもしれない。

 目覚めた瞬間、この目に最初に映ったものがお兄様ではなかったことに、私は少なからずショックと不安を覚えていた。

 王城からの招集ならば仕方がないと頭では理解しているのに、ずっと心が聞かん坊のようにお兄様に会いたいと叫び続けている。そして、その姿を目に映し、さらにその声を聞き、お兄様の温もりを感じて一刻も早く安心したいと、私の心が駄々を捏ねる。

 本当に自分の心なのに、どうにも抑えが効かない。

 そのため、ミラとラナに頼んで湯浴みをし、夜着から比較的楽なクリーム色のドレスへと着替えた私は、まるで檻の中の熊さながらにさっきから部屋をウロウロと歩き回っている。

 もちろん運動不足を解消するために歩き回っているわけではない。お兄様の顔を見るまでただただ落ち着かないだけだ。

 お礼状に一筆書かなければと思うのに、それすらも手に付かない。

 それも、お兄様からの厳命を忠実に守り、私から一向に離れようとしない、執事のムルジムと私の専属侍女であるミラとラナの前で。

「お嬢様、少し落ち着かれてはどうですか?セイリオス様なら、じきに戻っていらっしゃいます」

「ミラの言う通りですわ。いつもお目覚めにならないお嬢様の傍を離れようとなさらず、それはもう毎回ムルジムに馬車へ押し込まれるような形で王城へ向かわれますのに、戻られる時にはその馬車を置いて早馬のように単騎で駆けてらっしゃるんですよ」

「まったく…………公爵家としての外聞もありますのに、セイリオス様にも困ったものです」

 それはもうしみじみと実感を込めてムルジムからそう零され、私は思わず苦笑してしまう。

 この三日間、本当に大変だったのだろうな…………と。

 しかしそう思ったのも一瞬のことだった。

 窓の外に聞こえた馬の蹄の音と嘶き。私の耳がそれを捉えた瞬間、私は部屋を飛び出していた。そして、玄関ホールでまだコートすら脱いでいないお兄様の姿を見つけ、そのまま階段を駆け下り飛びついてしまう。

「お兄様ッ!」

「ユーフィリナッ!」

 公爵令嬢としての所作や挨拶をすべてなおざりにして、私は一日千秋の想いで待ちわびたお兄様に抱きついていた。お兄様もまたそんな私を危なげなくその腕におさめ、抱き返してくれる。

「このお転婆な眠り姫。なかなか目覚めないから心配したぞ」

「申し訳ございません、お兄様。でももう大丈夫です。それよりお兄様は大丈夫なのですか?怪我はないと聞きましたが、本当に…………」

「そうか、ユフィはその辺りのことは何も覚えていないのだな…………あぁ、怪我はない。ただただユフィが目覚めないことに、私の心が心配で死にそうになっていただけだ。だがそれももう問題ない。ユフィが元気に私の腕の中にいる。それだけで私の心は今、息を吹き返した」

「お兄様……さすがにそれは大袈裟です」

「大袈裟なものか。これは事実だ。だから、このままもう暫くユフィを実感させてくれないか」

「はい、お兄様」

 さらにぎゅっと私を力強く抱きしめ直したお兄様に、私もまたお兄様の温もりと鼓動を感じ安堵の息を吐く。

 しかし、ようやくここで気がついた。というか、我に返った。

 顔を見るまで不安で堪らなかったとはいえ、自分からお兄様に抱きつき、あまつさえ更なる抱擁を許容してしまった。

 しかも周りには、お兄様を出迎えるために集まった家の者たちがいる。私の後を追いかけるようにしてくっ付いてきたムルジムたちもだ。

 俄かに暴れ出す心臓。顔に向かって駆け上ってくる熱と羞恥心。

 もちろん、この南の公爵家に仕える者たちは、私とお兄様の兄妹仲を知っている。この見目麗しいお兄様がとんでもないシスコンであることも。

 そのため、ここで邪なことを考える者など誰一人としていない。皆が仲睦まじい兄妹だと目を細めるくらいだ。

 けれど………………

 私は前世の記憶が戻って以来、お兄様への耐性が極端に弱体化している。以前のユーフィリナならば、全然問題なかった兄妹のスキンシップも、今の私にはちょっと……いや、かなり刺激が強すぎる。

 とはいえ、たった今お兄様に許容したばかりの口で、「あの、もう限界なので、そろそろ離していただけると有り難いのですが………」とは、さすがに言い出しにくい。せめてあと十秒はこのまま息を止めて堪えようと思う。しかし、頬の火照り具合からいって、自分の顔がこれ以上なく真っ赤に染まっていることは手に取るようにわかる。つまり限界だ。

 そこでお兄様の胸に顔を押し当て、その赤面を隠してみようと試みる。けれど、その仕草といい、体勢といい、お兄様の胸に深く顔を埋めた形となり、ますますお兄様にきつく抱き込まれてしまう。

 あ、あのお兄様。私はそういうつもりではなくってですね…………あぁ……私って大馬鹿者だわ…………

 とはいえ、今更この顔を上げて皆に晒す勇気など私にはない。自分から抱きついておきながら、兄からの抱擁に照れまくっている妹なんていくらなんでも間抜けすぎる。

 できることなら、ほとぼりとこの熱が冷めるまで部屋に閉じこもってしまいたい。

 そんな私の心の声が聞こえたのか――――――――

「この続きは、じっくりとユフィの部屋ですることにしようか。このまま二人きりで」

「なっ、ちょっ……お兄様ッ‼」

 聞きようによっては危険極まりない台詞をサラッと吐いたお兄様。

 その台詞に胸に顔を埋めながらも、慌てる私。

 もちろん私とお兄様の間に、危険な要素など何一つとしてない。

 そう、あるわけがないのだけれど…………

「そろそろユーフィリナには、私の気持ちをわかってもらう頃だと宣言したことだしな」

 なんてことを私だけに聞こえるように耳元で囁いてくるお兄様に、私の身体がピクリと跳ね、忽ち心臓が止まりそうになる。

 そんな私にお兄様はクスクスと笑い出し、家の者たちはそれを微笑ましいというより、生暖かい目で見つめてくる。実際は顔を隠しているため、どんな目で見られているかなんてわからないけれど、絶対にそんな気がする。間違いない。

 しかし、お兄様はこの状況を全力で愉しむ気らしく………………

「では、行こうか。私の愛しのユフィ」

 極上の声で甘くそう囁いて、お兄様は私を横抱き(所謂、お姫様抱っこ)にすると、颯爽とその場から連れ去ってしまった。



「さぁ水だ。飲みなさい」

 私の部屋に用意されている水差しからグラスに水を注ぐと、お兄様はベッドの上に座らせた私へ、そのグラスを差し出した。

 未だ冷めやらぬ熱を持て余しながら、私はその水を両手で受け取り、コクリと飲む。

 ひんやりとした水が喉元を通り、ゆっくりと身体に染みていく。それでもまだ顔の熱が取れることはなく、私はコップを手にしたまま顔を隠すように俯いた。

 お兄様はそんな私に目を細めてから、側机用の椅子をベッドの傍まで運んでくると、その背もたれに着ていたコートをかけ、優雅な仕草で腰かけた。それからまた私の顔を覗き込み………………

「ユフィ、真っ赤だな」

 などと言って、クツクツと笑う。

 あぁ、本当に質が悪い。

 しかし、そうは思うものの、私の顔はますます熱を帯び、さらに赤くなってしまう。

 しかも先程まで王城に上がっていたお兄様は、決して煌びやかではないけれど、品よくまとまった礼装姿で、いつも以上に麗しい。首元を飾る細かいレースをあしらった純白のクラバットさえ、私の目には眩しく映る。

 そんなお兄様をとても見ることができない私は、ただただ手の中のグラスに視線を落とし続けた。

 少しでも私の顔の熱が、このグラスの水に移ってしまうことを祈りながら。

 けれど、お兄様は相変わらずで……………

「ここまで赤くなられると、私もさすがに照れてしまうな。ようやく私を兄ではなく、一人の男として認識してもらえたようだと。ふむ……やはりこの際、おまじないの方法を成人男女らしい方法に変えるというのは有りなのかもしれない」

 顎に手をやり、さも真剣に悩んでるかのような口調で告げてくる。

 しかし、この台詞は一度聞いたことがあるものだ。まさに私が前世の記憶を取り戻した時と同じもの。

 あの時の私の意識は“白井優里”の方が強く、完全にしてやられてしまったけれど、今の私の意識はお兄様の妹であるユーフィリナとなっている。多少、お兄様への耐性がなくなったとはいえ、同じからかいに二度もひっかかるほど弱体化はしていないはずだ…………と、思いたい。そこで―――――

「お兄様、お言葉ですが、私も妙齢の女性とはいえど、お兄様の前ではまだまだ甘えたい盛りの妹でいたいのです。ですから、おまじないの方法は今まで通りで問題ありませんわ」

 というか、成人男女らしい方法がまったく想像もつきませんが、私の精神衛生上のためにも是非とも今まで通りでお願いします!

 ――――――と、口では余裕たっぷりに、内心では切実に訴える。

 けれど、そんな私からの訴えを、何故かお兄様は面白くなさそうに聞くと、最後にはやれやれとばかりにため息を吐いた。それからポツリと呟く。

「やはり私は育て方を間違えたらしい。これは長期戦になりそうだ…………」

「お兄様?」

 さっぱり意味がわからなくて首を傾げた私に、お兄様がまたもやため息を吐く。

 しかもお兄様にしては珍しく、かなり重そうなため息だ。けれどすぐにお兄様は自力で立て直したようで、苦笑さえも滲ませながら微笑んだ。

「…………そうだな。まだ今はそれでいい。そのことが誰よりもお前の傍にいる私の免罪符でもあるしな。だが……目に見えている事実と実際の真実は必ずしも同じではない。我々の関係にしたってそうだ。いつかユフィの心が私の心に追いついた時、ユフィには私の妹を卒業してもらう。それまではユフィの兄としてお前を守ろう」

「それは……あの……どういう…………」

 そう聞き返しそうになって、私は遅ればせながら気がついた。

 いずれ私はメリーディエース家を出て、誰かの元へ嫁ぐ身。そしてお兄様もまた由緒正しきご令嬢を娶り、この南の公爵へを継いでいく身だ。

 それはつまり、いつまでもこんな仲睦まじい兄妹ではいられないということ。

 そうか…………妹を卒業するとはそういうことなのね…………

 今更そんな当たり前の事実に気づいて、目に見えて落ち込んだ私に、お兄様は三度目となる深いため息を吐いた。

「今、ユーフィリナの思考がどのように動いたか、尋ねるまでもなくわかった。確かにそんな未来もないわけではないが…………しかしそれは、私にとっても望まざる未来だ」

「えっ…………」

 いえいえ、お兄様。それは南の公爵家としては非常に問題ではないでしょうか?

 いくら我が国の国王陛下がご結婚されていないからといって、お兄様までそれに倣うことはないのですよ。

 むしろお父様とお母様がお許しにならないのでは?

 そんな思考までもお兄様には筒抜けのようで、お兄様は苦笑となる。

「お前が心配する諸々について、何も問題はないとだけ言っておこう。そして私はこの件に関して国王陛下に傚うつもりはない」

「えっ……………」

 だったらどういうことなのだろう…………と思うけれど、私はお兄様と違ってその思考がまったく読めない。

 いや、そもそも思考回路が単純な私とは違って、お兄様は複雑すぎるのだ。

 首を傾げながら眉を寄せた私に、お兄様はさらに苦笑を深めた。しかし急に何を思い立ったのか、私の手からグラスを抜き取ると、そのままサイドテーブルへと置く。

「お兄様……?」

 一体何を…………という問いかけを口にする間もなく、お兄様の手が私の腕を掴んだ。

 強引に引かれる腕。

 引き寄せられる身体。

 私は再びお兄様の腕に囚われてしまう。

 そしていつかのように、私の額へ落ちてくるお兄様の唇。

 お兄様から直接移された微熱に、私の額が途端に熱を持つ。

「お、お兄様ッ!」

「問題ない。これも兄仕様、妹仕様のキスだ」

「そ、そ、そうかもしれませんが…………」

 その兄仕様、妹仕様だというキスに、一気に再熱化する私の顔。そんな真っ赤に茹で上がった顔を覗き込んで、お兄様は満足そうに目を細めた。

 それはもうしてやったりと謂わんばかりに…………

 くぅ、一度ならず二度までも…………と、どう足掻いたところでお兄様相手に勝てるはずもないのに、私は無駄な抵抗と知りつつ赤面のままで膨れっ面となる。

 けれどお兄様は、いつもの声音に甘い蜜を含ませながら告げてきた。

「私は待った。だからあともう少しくらいなら待てる。その時間さえも今の私には愛しく感じられるほどだ。しかし、これほどまでにお前に求婚する者が現れては、心穏やかに…………とは、さすがにいかない。それにこの部屋を埋め尽くさんばかりの見舞いの品も、私にとっては悩ましいだけだ。だからこれだけは覚えておいてほしい。私が愛しているのはユーフィリナだ。その心も、魂もすべてユーフィリナだけを愛している。他の誰でもなく、ユーフィリナだけを………」

 ただただ耳当たりの良い台詞に、私はお兄様の腕の中からその顔を見上げた。

 絡み合う視線。

 お兄様のアメジストの瞳に映る私。

 他の誰でもないこの私。

 そして私を瞳に映したままで、お兄様が愛しげに微笑んだ。

 

 えぇ、わかってる。

 お兄様は私を愛してくれている。

 そして私もまたお兄様を愛している。

 兄として、妹として、これ以上なく…………

 そしてこのお兄様の微笑みは私だけに向けられたもの。

 今のお兄様のすべてが、この私のためだけに存在しているかのような錯覚さえ覚えてしまうほどに。

 けれど、何故だかはわからない。

 私はお兄様の瞳に映る自分を見つめながら――――――

 

 無性に泣きたくなった。

 

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