ヒロインは私が絶対に守ります(10)
光が強ければ闇も深くなる――――――
遠い昔、誰かがそんなことを言っていたような気がする。
だとしたら、この深い闇はどこかに存在する強い光のせいなのだろう。
そしてそれはおそらく、ヒロインの中にある“フィリア”の聖なる光。
ねぇ、お願い。
今だけ私に力を貸して。
共鳴している今ならそれも可能なはずよ。
お願い、フィリア――――――――
「うん、これで何もかも綺麗さっぱりだ…………ってあれ?あのウサギ、まだ沈んでない。あぁ……あの光でできた結晶のせいか。まったく、これだから光ってやつは。ボクの邪魔ばかりする」
アリオトは片腕で私を胸へ押し付けるようにして閉じ込めながら、シャムに向かって手を伸ばす。しかしシャムも黙ってはいなかった。
「魔獣のシャムに闇魔法をかけても、あまり効果はないにゃ。いざとなれば、闇の中でもシャムなら生きられるにゃ」
「まぁ……確かにね。元々魔獣はそういうものだし?ただ人間から魔力という“光”をもらうことで、従魔なんかになっちゃうだけでさ。それも魔力を与えた人間の影響を受けて、光魔法まで使えるようになるっていうんだから、ほんとわけわかんないって言うか、何なのそれ?って話だよね。でもさ、なんでウサギなのに“にゃ”なの?おかしくない?」
「セイリオスにウサギらしい言葉遣いを聞いたら、『語尾に“にゃ”でも付けておけ』って言われたにゃ!だからこれで正解にゃ!」
お兄様………シャムになんてことを……………
可愛いから良し!………ではなくて、これは屋敷に戻ったらお兄様を説教だわ!――――――と、心に決める。
そのためにも、全員無事に帰らなければならない。
そして今は、どうにかしてシャムとヒロインを助けなければならない。しかしシャムはシャムで…………
「ユフィ、大丈夫にゃ。セイリオスは簡単に死んだりしないにゃ。だから信じて待つにゃ。それまでシャムも一緒にいるにゃ」
私のことを想い、そんなことを言ってくれる。
えぇ、わかっているわ。お兄様がこんなことで簡単に死ぬはずはないって。シェアトだって、アカだって絶対に大丈夫。
それにお兄様は笑っていたわ。それはきっと問題ないと、私に知らせるためのはず…………
だったら私は――――――――――
「何、このウサギ、魔獣のくせにボクよりもあの人間の方がいいの?もしかして反抗期?すっかりあの人間に飼いならされてるし、もはや魔獣的要素が見当たらないんだけど…………でも、まぁ……なんだか愉快な奴っぽいし、君用のペットとして暫くは置いてあげてもいいよ。ボクの言うことをちゃんと聞けたらね」
そう言ってアリオトはシャムに向けていた手を下ろすと、私を抱き込んでいる腕を僅かに緩め、ほんの少し私との距離を開けた。そして改めて私の顔をまじまじと覗き込んでくる。しかしすぐに、眉を寄せた。
「う~ん……やっぱり少し邪魔かな」
などと呟き、今度は私を抱えていない方の手で私の頬に軽く触れてくる。
すると忽ち、私の顔の辺りを覆っていた黒い靄が晴れた。しかし、それでも身体は動かず、声も出せない。
「うん。これでよく見えた。あぁ……本当にとても愛らしいのに美しい……これは確かに光の神の愛し子だけあるね。正直言うとさ、君に会うまでは、“神の娘”の生まれ変わりがこれほどまでとは思っていなかったんだよ。だからね、すぐに殺してしまえると思ってた。だって、君はボクたちにとって邪魔な存在だからね。過去の君も、だから殺された…………いや、死を選ぶように仕向けられた。ボクの仲間……あいつを仲間と呼ぶのはなんだか腹立たしいな……とにかく、ボクと同じ眷属であるそいつの策略に嵌ってね…………」
過去の私…………いえ、過去のヒロインが………“魔の者”の策略に嵌って、死ぬことになった?
どういう……こと…………?
きっと私の顔に“意味がわからない”とでも書いてあるのだろう。
アリオトは「ま、過去の自分のことなんて覚えてるわけないか……」と、目を細め口角を上げる。それからふと俯き、ため息にもならない息を一つ吐くと、再びその黒い瞳に私を映した。
「でも、これは無理だ。というより、ボクの闇がずっと君の光を求めてる。今すぐこのまま真っ黒に穢して汚してしまいたい………ドロドロになるまでボク自身の闇で侵し尽くしてしまいたいとね。けれど、なんでかな…………その優しい光に包まれてもみたい……とも思ってる」
アリオト…………?
少し不思議に思って、アリオトを見つめる。
そんな私にアリオトは苦笑とも困惑とも取れる笑みを浮かべた。
「………うん、わかってる。矛盾してるよね。自分でも訳わかんないよ。だいだいさ、ボクたち“闇の眷属”には愛なんていう感情はない。いや、そのはずなんだけれど…………この気持ちが君たち人間が言うところの愛だというのなら、これはこれで決して悪くはないね。悩ましいほどに狂おしく、胸が張り裂けんばかりに、君だけが欲しい。あぁ………でも、そうだね。光があるからこそ闇がある。君がいるからこそボクがいる。ボクたちは対だ。対なら離れるわけにはいかないよね。君がどれだけ泣き喚こうとも、もう離してあげない。永遠にね。君はボクだけのものだ。ふふふふ…………怖い?でも、残念。君はボクの手に落ちた。それとも哀しい?やっぱり泣きたい?もちろん泣いてもいいよ。ボクが嬉しくなるだけだから。ねぇ…………これからボクたちは一つになる。身も心もすべてね。闇と光が混ざり合えば、そこには一体何が生まれるのか…………それはそれで興味深いね。けれど、そんなことはどうでもいい。君は君の光で、ボクの闇をもっともっと昏く深めてしまって。代わりにボクはボクの闇で、君の光を美しい闇色に染めてあげる…………これ以上ないほどにね」
アリオトはそう甘く囁くように告げると、私の顎を指で軽く持ち上げ、そのまま口づけを落とそうとする。
い……や…………
心は拒絶するのに、身体がぴくりとも動かない。
けれど、アリオトの唇が私の唇に触れる寸前、“魔剣”の力がぐっと強まり、再び黒い靄が私に濃く絡みついた。
「まさか、短剣まで反抗期?それともボクとユーフィリナの関係に嫉妬しちゃってるとか?だいたい、ユーフィリナの中の聖なる光に惹かれるからって、必死すぎだから。ま、ボクもこいつのこと言えた義理じゃないけどさ。あぁ………さっきむしゃくしゃしてつい鞘を燃やしちゃったこと、後悔したくなってきた。解除できなくはないけれど、今ユーフィリナを大人しくさせてくれているのは実際こいつだし…………そうだな、何も慌てることはない。二人の時間はこれからだ。お楽しみは戻ってからにするか。ね、ボクの可愛い光のお姫様」
蕩けるような笑顔で、甘くそう囁くと、アリオトは常闇の海原に立ちながら周りを見渡した。そして首を撚る。
「あれれ、おかしいな。あのペットのウサギはともかくとして、聖獣はもう闇に消えたはずのに、この炎の壁はまだ消えない。もちろん実体化を解きさえすれば、通れることは通れるんだけれど…………」
アリオトが怪訝そうに呟いた刹那――――――――それは起こった。
「うわッ!…………なんだこの光ッ!」
突如として一面を照らした眩き光。
その光を放ったのは“魔剣”。
ずっと私の手から放れなかった“魔剣”が突然光を発したのだ。
そして俄かに霧散する黒い靄。その靄から解放された私の身体もまた、忽ち白く発光する。
「ユーフィリナッ!一体何をしたぁぁぁぁッ⁉」
周りの空気をも震わせるアリオトの怒声。
しかし、その眩しさに堪え切れず、アリオトは片手で目を覆いながら思わずといった体で私を突き放した。と同時に、私ができる唯一の魔法を発動させる。
「光魔法!光結晶ッ‼」
「なにッ⁉」
アリオトの驚愕を他所に、現れた光結晶。それはそのまま私を包み込んだ。
そう、これは先程お兄様が私に分け与えてくれた魔力。そして、新たに書き込まれた――――――
「ユフィ、いい子だ!暗黒星ッ‼」
私とお兄様を繋ぐ転移魔法陣。
お兄様は一瞬のうちに私たちの前に姿を現すと、まったく状況が見えていないアリオトの胸にこぶし大の黒い球体を押し当てた。次の瞬間――――――――
「ああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……………」
その光をも逃がさない強い重力を持つ黒い球体の中に、完全に不意を突かれたアリオトの身体は見る見るうちに吸い込まれていく。もはや抵抗する間もなく、私たちの前からその姿を消した。
狙った獲物を呑み込み、お兄様の手から蒸発するように消失する黒い球体。アリオトが創り出した常闇の海原もまた泡沫となる。
しかし、その代わりに現れたモノがあった。
「アカ…………シェアト様!」
それはおそらくお兄様が発動したと思われる光結晶に守られたアカとシェアト。
私は自ら発動した光結晶をすぐさま解除すると、涙と笑顔でその一匹と一人に駆け寄った。
『…………つまり、なんだ?その“魔剣”……いや、“聖剣”か…………それがユーフィリナから離れなかったのは、ユーフィリナの中の聖なる光にただ反応していただけではなく、呪いを払ってほしいと、再び“聖剣”に戻りたいと必死に懇願していたってことだな』
現在、アカの提案でちょっとした反省会が行われている。
このまやかしの炎の外に出てからでもいいのでは?という私たちの意見に、アカは首を縦に振らなかった。
どうやら誰にも邪魔されることなく、ヒロインのことも含めここですべてケリをつけてしまいたいらしい。
そんなアカの気持ちもわかるため、私たちは結局その提案に頷いた。けれど、そこでまたひと悶着が起こる。
反省会といっても、もちろんここにはテーブルもなければ椅子もない。しかし私はもう限界だった。
先程の“光結晶”で魔力も枯渇し、ここへくるまでに王都を全力疾走という、普段公爵令嬢としてまったく使わない体力を使ってしまっている。さらに言えば、アカの暴走に、“魔剣”………もとい“聖剣”の取り付き、それから“魔の者”の登場に、またもや求婚(今回のアレを求婚と言ってもいいのかもわからないけれど…………)。
元喪女の私にはあまりに刺激が強すぎた。そのため肉体的にも、精神的にも、すべてが軽く限界値を突破しており、ただその場に立っていることさえままならない状態だった。
そうなると、もちろんここに登場するのは超絶シスコンのお兄様。
さっさと地面に腰を下ろしたお兄様が、「さぁユーフィリナは私の膝の上に腰かけなさい」と、さも当然のように告げてきた。それに対して物申したのが、シェアトとアカだ。
「いやいやいや、いくら兄妹でも、それはさすがに構いすぎです。だいたいユーフィリナ嬢はもう成人した麗しき淑女なんですよ。こんな人前で兄の膝の上に座るなんてことができるはずありません。ユーフィリナ嬢、私がこのフロックコートを地面に敷きますから、どうぞこの上に腰かけてください。なんならそのまま私にもたれかかってくれてもいいですよ」
『シェアトよ。それもどうかと思うぞ。結婚前の令嬢が婚約者でもない男にもたれかかるなど醜聞が悪すぎる。ここは守護獣であるオレにもたれかかるべきだ。ユーフィリナ…………いや、もうユフィでいいな。オレのところへ来い。立派な背もたれになってやるぞ。セイリオスよりも、シェアトよりのもたれ心地抜群だ』
「アカ、何をどさくさに紛れてユフィと呼んでいるのだ。背もたれを主張するなら、その減らず口は閉じておいた方がいい。それにシェアト殿、兄妹の数だけ兄妹の在り方がある。これがメリーディエース家の在り方だ。問題はない」
三者三様でそんなことを言い出し、まったく譲らない彼らに困ってしまった私が最後に選んだのは――――――――
「ごめんね、シャム。重たくない?」
「全然大丈夫にゃ。でもちょっと刺さってくる視線が痛いにゃ」
「えっ?痛いの?シャム怪我でもしてる?」
「そういうことじゃにゃいにゃ。う~ん……ユフィは聞きしに勝る鈍感さんにゃ」
「ど、鈍感さん?私が?」
シャムは一体誰に何を聞いたのかしら?
自分では結構察しがいい方だと自負しているのですが…………と思いつつ、まぁ可愛いシャムの言うことだからここは許してあげましょう…………と、私は寛大な気持ちで聞き流してあげることにする。
こうして、これだけは絶対に譲れないと言い張るお兄様のフロックコートを下に敷き、シャムにもたれかかりながら私は反省会へと挑んだ。
ちなみに座る位置は、アカを前に置いて、右からシェアト、私とシャム、そしてお兄様。
もちろんヒロインの入った“光結晶”はアカから守るために、私とシャムの真後ろにある。その“光結晶”の中では我が学園の医務室の癒しであり、使役獣であるシャムによって癒し魔法が発動されており、劇的な回復はなくとも現状維持だけはできているらしい。
私はまたいつ何時ヒロインを殺すと言い出しかねないアカに用心しながら、お兄様たちが闇に沈んだ後の話を聞かせた。
そして、アカの最初の発言に戻る……………わけだけれど、私自身、自分でも半信半疑なのだ。
ずっと感じていた“魔剣”からの執拗すぎるほどの執着。私を呪っているわけでもなく、ただ私の中にあるという聖なる光に反応し、纏わりついているだけだった。もちろん実際は、私の中の聖なる光ではなく、私と共鳴状態にある“ヒロインの中の聖なる光”――――――――が、正しいところなのだけれど、ここでそれを説明すれば余計な混乱を生みそうなので、頃合いを見計らって改めて説明することにする。
しかしアリオトから、かつてこの“魔剣”は“聖剣”だったという話を聞いた時、私の中にある種の納得が降りてきた。
そっか………この“魔剣”も呪いから解放されて、聖なる光を取り戻したがっているのね――――――と。
だったらその望みを叶えてあげなければいけないと、私の思考はまたもや単純にもそう傾いた。
そしてあの時、アリオトの腕の中で常闇の海原の真ん中に立ちながら、私はただただ光を求めていた。
お兄様たちが沈んだ闇を照らす光を――――――
この“魔剣”に取りついた呪いを払うだけの光を――――――
ねぇ、お願い。
今だけ私に力を貸して。
共鳴している今ならそれも可能なはずよ。
お願い、フィリア!
この私に闇を照らすだけの光を…………
この剣に取りつく忌まわしき呪いよ!
あまねく光の前に消え去れ―――――――
その瞬間、“魔剣”は“聖剣”として光を放ち、自由を得た私は“光結晶”を発動する。
闇に沈んだお兄様を転移魔法で救い出すために。
けれど、今にして思えば、腑に落ちないこともある。
確かに私の中にはお兄様から分けてもらった魔力があった。しかし、お兄様たちと一緒に闇の中へ身体を沈めた時に、そのほとんどを闇に吸われ、奪われていたとしてもおかしくはなかった。
私一人、すぐにアリオトから引き上げられたとはいえ、元々枯渇寸前の魔力量しか持たぬ身である。
常識で考えても、それこそものの一瞬で底を突く可能性の方が断然高かったはずなのだ。なのに、“光結晶”を発動できるだけの魔力は十分に残っていた。
どうしてなのかしら?と、首を傾げて膝の上の“聖剣”に視線を落とす。どちらかと言うとゴテッとした金色だった剣の柄は、今や白金へと変化しており、その刃にも淡き光が灯っている。
もしかして、“魔剣”であった時から、私を守ってくれていたの?
アリオトから口づけをされそうになった時にも助けてくれたように、闇に沈んだ時も、敢えて黒い靄で包むことによって私を助けてくれていた………………とか?
そんなことを思いながら剣を眺めていると、シェアトも隣から剣を覗き込んでくる。
「すっかり禍々しさがなくなって、もう完全に尊き聖剣だ。柄も白金で、本当に美しい短剣だね」
「はい…本当に美しい短剣です………」
シェアトからの率直な感想を受けてそう頷き返した時、私の中で妙な感覚が駆け巡った。既視感とでも言えばいいのか、とにかく不思議な感覚が…………
しかしそれについて考え込む前に、アカが「白金?」と聞き返してきた。
そういえば、まだアカには“聖剣”に戻ってからのこの短剣を見せていなかったわね…………と思いつつ、鞘がアリオトに燃やされてしまったために、今や抜き身となっている短剣を注意しながら持ち上げ、アカへ見せる。
するとアカは、無傷の右目をわかりやすく丸くした。
『おい……その短剣って……フィリアのじゃねえか!』
「えっ?」
思わず私は後ろにいる“光結晶”の中のヒロインへと振り返る。
そんな私の行動に、『何故後ろを振り返る?』と、すかさずアカからの追及がきたけれど、「ほ、本当にこの短剣はフィリア様の物なの?」と、質問に質問返しという裏技で誤魔化しを図る。
当然いつかは話さなければならないことだけれど、「こちらのご令嬢が本当はあなたの探していた“フィリア”の生まれ変わりなの」と言ったところで、今はまだアカを傷つけるだけのような気がする。なぜなら、その“フィリア”の生まれ変わりに呪われ、その彼女を殺そうとしていたのだから(もしかしたら、まだ現在進行形かもしれないけれど)、やはりこの件に関してはタイミングが重要だわ…………と、私は再度心に決める。
しかしアカは、この私の後ろめたさしかない逃げの一手を特段気にするでもなく、むしろ晴れやかに続けた。
『あぁ、そうだ。フィリアの短剣だ。こいつも無事聖剣に戻れて喜んでいるはずだ。それもフィリアの生まれ変わりであるユフィによって…………だったら、さっきの話も容易に頷ける。ユフィから離れなかったのは、ユフィの中の聖なる光にただ反応していただけではなく、そいつがフィリアの短剣だったからだ。そりゃ、千年という月日をかけて、自分の正真正銘の主を会えたんだ。必死にもなるだろう。オレと同じようにな』
そしてアカは呵々大笑となる。私はそんなアカを少し困惑とともに見つめ、それからもう一度“魔剣”から“聖剣”へと戻った短剣に視線を戻した。
そう……あなたそうだったの。だからあれほど纏わりついてきたのね。
でも、私を守ってくれてありがとう…………心配しなくてもちゃんと本来の持ち主のところへ返してあげるからね。
改めて自分の中でずっと持て余していた不思議な既視感に納得して、私は目を細めた。
それから隣に座るお兄様へ話しかける。
「お兄様、暫く私がこの短剣をお預かりしてもよいのでしょうか?」
わざわざ“暫く”と付けたのは、言わずもがなだ。
しかしその前に、これが“聖剣”なのだとしたら、それはデウザビット王国の国宝にもなり得るわけで、一介の公爵令嬢でしかない私が持っていていいものとも思えない。
そこでお兄様に確認したのだけれど………
「お前以外が持つことをこの短剣自体がもう許さないだろう。今度は手放さず、しっかり持っていてあげなさい」
お兄様はそう告げて、ベストの胸ポケットからハンカチーフを取り出すと、「鞘は一流の職人に作らせるとして、今は危ないから一先ずこれで包んでおきなさい」と、私に手渡してくれる。
いやいやお兄様の言い方だと、私が過去手放してしまったばかりにこの短剣が呪われてしまったかのように聞こえますよ。それに正しくは私の短剣ではなく、ヒロインの短剣ですからね。
だからこれはあくまでも彼女の意識が戻るまでの、暫定的なお預かりですからね。あ、でも鞘は作ってあげましょうね。
なんてことを内心では目一杯返しながら、「わかりましたわ、お兄様」と、私は有難くそのハンカチーフで短剣を巻いておくことにした。
「さて、これからが最も肝心な話となるのだが………まずアカ、ユフィと呼ぶな。そして、次にこちらのご令嬢の件だが、頭が冷えた今ならもう殺そうなどとは思わないだろう?たとえ、このご令嬢が“魔物落ち”しようとも、しなくとも。それでいいか?」
しかしそのお兄様の問いかけに、アカよりも早く反応したのは私だった。
「お兄様、“魔物落ち”しようとも、しなくとも…………とは、どういう意味でしょうか?アリオトはお兄様が発動した“暗黒星”に呑まれて消えてしまいました。これで彼女と“魔の者”との縁は切れたはずです。なのに、“魔物落ち”ってそんなこと…………もしかして、アカを呪ってしまったからですか?でもそれは…………」
「ユフィ、落ち着きなさい。アカの呪いも完全に消えた。ちろろんその罪が消えることはないが、だからといってそれだけが理由で彼女が“魔物落ち”することはもうないだろう。しかし、アリオトとの縁に関して言えば、正直まだわからない。“暗黒星”如きで“魔の者”が死ぬとは思えない。それなりのダメージを受け、再生に手間取るかもしれないが、時が来ればまた現れる可能性も十分にある。だから、縁が完全に切れたとは言えないのだ」
「そ……んな…………」
カタカタと震え始めた私に、「ユフィ、大丈夫にゃ?」と、シャムが心配そうに声をかけてくる。
私は、一応の意思表示としてコクンと頷いてみたけれど、全然大丈夫でないことは誰の目にも明らかだった。
そんな私に、シェアトが言葉を選ぶようにして慎重に告げてくる。
「ユーフィリナ嬢、おそらく君はもう国王陛下がご覧になられた“先見”の未来を変えてしまっている。こちらのご令嬢は、本来であればすでに聖獣殿によって殺されているはずだった。それがまだ、虫の息とはいえ生きている。そして、聖獣殿もたとえこのご令嬢と“魔の者”の縁が切れていようが、いなかろうが、もう殺そうとは思ってはいないだろう。なぜなら、君は私たちに証明して見せた。どんなに絶対的な未来であろうとも、諦めることを諦めさえすれば必ず変えることができるとね」
「シェアト……様…………」
「このご令嬢の未来はまだ誰にも計れない。ならば、訪れた未来でまた悩むことにすればいい。違う……かな?」
最後の最後に不安そうに付けられた言葉に、私は思わず笑ってしまう。
そしてやはりシェアトの言葉には、とても心地よい体温があると思いながら「違わないです」と、泣き笑うように返した。
そんな私とシェアトとのやり取りを聞き終わった後で、お兄様がアカへともう一度問いかける。
「ということだが……アカ、どうする?このご令嬢にもう未来はないとこの場でさっさと切り捨てるか?それが聖なるものの務めだと割り切るか?それとも、この先に残酷な未来が待ち構えていようとも、それに立ち向かうことを選ぶか?さぁ決めろ。もちろん返答次第では、もう一戦交えることになるがそれも已むを得まい。千年も引き籠っていたなら、頭も必要以上に固くなっているだろう。それを解してやるのは少々骨が折れるが、可愛いユフィを悲しませる聖獣を懲らしめてやるのも私の愉しみ…………いや、重要な役目だ」
どう聞いても、宣戦布告にしか聞こえないお兄様の言葉に、私とシェアトは顔を引き攣らせつつアカへと視線を向けた。
「聖獣の目が完全に据わっているにゃ!セイリオス、今すぐ謝るにゃ!」
真実だけを口にするシャムに、あぁ…………あの目は完全にそうよね……と、若干現実逃避したくなる。けれど―――――
『もう……いい………………』
「えっ?」
『もういい。その令嬢は殺さない。“魔の者”との縁がまだ続いているかどうかは知らんが、その時はまたその縁を断ち切ってやればいい。ユフィならそれができる……だろ?』
「アカッ!」
「ユフィと呼ぶな!」
見事に被った私とお兄様の声。
一つは喜色だけに満ちて、もう一つは不満と呆れと喜色で混ぜこぜだ。
そんな二つの声を掻い潜るようにしてポツリと落とされたアカの自問自答のような呟き。
『今の……ユフィの髪色は……淡紫……なのだな。だとしても……あぁ、なるほど……これはそういうことか…………』
「えっ?」
アカの呟きが聞き取れずに首を傾げると、『なんでもない』と返される。
けれど、どこか安堵と懐かしさを滲ませるアカの表情に、私は妙に嬉しくなってふふふと笑うと、短剣を手にしたまま立ち上がった。もちろんアカへと抱きつくためだ。
しかしどうやらここで、私は活動限界に達し、見事強制終了となってしまったらしい。
突然、支えるものを失ったかのように、ふらりと後ろに向かって傾く身体。
それを咄嗟に支えてくれたのは、やはりお兄様で………………
「ユーフィリナッ!」
「ユーフィリナ嬢ッ!」
『ユフィッ!』
「ユフィ、しっかりするにゃ!」
私のことを、心配そうに、不安そうに、どこか泣きそうに、皆が覗き込んでくる。
でも、その皆の顔もまた火傷や切り傷でボロボロで…………
アカの左目もあまりに痛々しすぎて、私の方が泣きたくなってくる。
意識のないヒロインにしたって重傷だ。
あぁ、確か……“神の娘”はあらゆる病気や怪我を一瞬で治せたと聞くわ。
もしも、まだ私の中に“フィリア”の力が残っているのだとしたら、お願い………………
この件に驚き、逃げ惑っていた王都の人たちの怪我も
アカの暴走を止めようとしてくれた東の公爵家の人たちの怪我も
私のことばかり心配してくれる皆の怪我も
本当の“神の娘”の生まれ変わりであるヒロインの怪我も
どうか、すべて消え去って―――――――
私は内心でそう祈り願いながら、短剣を持たない手を天へ伸ばした。
いや、正直伸ばせたどうかはわからない。
でも薄れゆく意識の中で…………
“大丈夫。強く望みさえすれば、いつだって君の望みは届くよ”
不思議と温かく、とても愛しげに響いた男性の声に、私は淡く微笑んだ。




