ヒロインは私が絶対に守ります(4)
さて、決意を固めたのはいいけれど、一体どうすればいいのでしょう。
“フィリア”という“神の娘”の生まれ変わりの気配を察してから、聖獣から立ちのぼる火柱の勢いがさらに増した気がする。それも、聖獣が『会いたい』という気持ちを逸らせる度に、熱風を目一杯含んだ衝撃波が起こるため、私たちはただただ守護魔法で(私の場合シェアトが発動している守護魔法で)、我が身を守っているのが精一杯の状況だ。
しかし、そのような状況下で私たちがまずしなければならないことは、今も尚、火柱の前で倒れたままとなっているご令嬢の救出だった。
「シェアト様!この状態でも“言霊”を使うことは可能ですか!」
「もちろんだ!」
「では、聖獣の動きを制してください。しかし、意識を閉じさせてはいけません!意識を保ったままで、動きだけを止めてください!できますか!」
「つまり、眠らせるな、ということだね。もちろんできる!しかし眠らせた方がより安全だよ」
「えぇ、わかっています。でも眠らせて一時的にも自我を閉じさせてしまえば、呪いが一気に聖獣を浸食する恐れがあります。これはあくまでも私の想像ですが、今の聖獣はギリギリのところで自我を保ち、自ら暴走を食い止めようとしているように思われます。ただ、フィリア様の気配を感知したせいで、会いたいという想いまでもがこの暴走に拍車をかけてしまっているため、まったく抑えきれてはいませんが」
「なるほど。何が何でも君はご令嬢と聖獣の両方を救いたいのだね」
「はい!」
私は譲れぬ想いを、この返事にすべて凝縮させた。
それはシェアトにもしっかりと伝わったようで、守護魔法を発動したまま笑みを零す。そして――――――
「他でもない君の望みとあらば、私はそれに全力をかけよう。君のためなら、私は命だって差し出すよ」
などと、思わずこちらが恐縮してしまいそうな台詞をさらりと口にすると、シェアトは聖獣に向かって“言霊”を発した。
「紅き聖獣よ!怒りと嘆きを鎮め、我が声を聞け!動くな!」
シェアトの声は、まるで地を伝うようにして“紅き獣”――――――聖獣へと届く。
その刹那、天を焦がし続けていた炎の柱は、何かに吸収されていくかのように細くなり、やがて消えた。
そしてそこに残ったものは、体長が三メートルはゆうにあろうかと思われる美しき炎狼だった。
しかし――――――――――
「い、一体誰がこんなことを………………」
私は我が目に映る光景に、それ以上の言葉を口にすることはできなかった。できるはずもなかった。
本来であれば、神が神自身のために創造したと謂われるが故に、この世のものとは思えぬほどに美しい聖獣。
もちろん、目の前のこの聖獣もとても美しい。
けれどその左目には、柄の部分に金の飾り細工が施された短剣が深々と刺さっており、無傷である右目も含め、顔の約半分以上が黒く変色してしまっている。
つまり、この短剣こそが聖獣の受けた呪いの元凶であることは容易に察せられた。但し問題は――――――
「ま、まさか、そこにいるご令嬢がやったのか………………」
聖獣の状態にシェアトもまた“水盾”を解除しながら、俄かには信じられないとばかりに呟く。
今やシェアトの“言霊”のおかげで炎による衝撃波もおさまり、それから身を守るために発動されていた守護魔法も解除されている。さらには、私たちの前に陣取っていた“嘆きの神の像”なる彫像も、聖獣が発した衝撃波で跡形もなく消滅したため、今や視界を遮るものは何もない。
だからこそ鮮明となる状況。
私たちの視線の先には、俯せで地面に倒れているご令嬢がいる。今が夜なだけに、そのドレスの色はとても鮮やかとは言えないけれど、東の公爵家の者たちが照らす魔法灯で、それが水色だということはわかる。そして髪が淡いブロンドであるということも。
そして、そのドレスが所々赤く染まっていることからも、ラスの報告通り、彼女は相当の深手を負っていると思われた。
しかしその中で、どうしても理解できないものがある。いや、理解したくないというべきか………
彼女の手に握られている短剣の鞘らしきもの。
それはどう見ても、彼女が――――ヒロインが――――聖獣にとっては“フィリア”が、聖獣の左目を刺したとしか思えない状況だった。
まったく意味がわからない。
とてもではないが思考が目の前の状況に追いついていかない。
もし、この目に映るものが、ありのままの事実だけを告げているのだとしたら――――
何故、ヒロインはそんなことをしたの?
そもそもどうしてそんな剣を持っていたの?
どうしてこんな酷いことができたの?
この聖獣はあなたを探していただけなのに………………
言葉も出ない私の両目からは、はらりと涙が零れ落ちた。
しかし、今は泣いている場合ではないと、頭を振って涙を飛ばす。
そこへ、東の公爵家の護衛騎士であるラスの声が鼓膜を揺らした。
「さすがシェアト様です!今のうちにご令嬢を聖獣から引き離しましょう!」
「あ……あぁ、そうしてくれ!」
私同様、呆然と現状を眺めていたシェアトだったけれど、ラスの声で瞬時に立て直し、即座に指示を出す。その指示に従い、数名の者を引き連れて、ラスはゆっくりとヒロインへ近づいていった。けれど―――――――
≪その者に触るな!そいつはオレの獲物だ!聖獣を呪いし者を捨て置くわけにはいかない!それとも先にオレの餌食になりたいか!ならば、構わん!来い!≫
シェアトの“言霊”により、身体が動かないため、口も当然動かない。なのに聖獣は、直接私たちの頭の中に話しかけてきた。
そしてそれは、ラスたちの足を止めるには十分だった。
「聖獣の声に怯むな!早くご令嬢を………」
シェアトがすかさずラスたちに指示を出すけれど、それを言い切る前にラスたちの身体が一気に吹き飛ばされた。聖獣が無詠唱で風魔法らしきものを発動させたのだ。そして、再び話しかけてくる。
≪残念だな。“言霊”の能力を持つ者よ。奴らへの命令は“言霊”ですべきであった。ならば、オレの言葉如きでこの者たちが怯むこともなかったろうにな≫
「あぁ、ご忠告には感謝する。今度から大事な命令に関してはそうすることにしよう」
二十メートルほどの距離を、紙屑同然に吹き飛ばされていったラスたちが無事に起き上がるのを目におさめながら、シェアトは淡々と返した。
気高き聖獣は、シェアトの言葉に満足したのか、さらに話しかけてくる。
≪お前はなかなかに優秀な“言霊”の能力者であるらしい。おかげで少しばかり頭が冷えた。とはいえ、その者への怒りはおさまらんがな。しかしそれよりもだ。今そこにフィリアがいるのだろう?オレの両目は呪いに侵され何も見えぬ状態だが、フィリアの気配だけは感じる。いや、フィリアの力と魂を感じたのだ。頼む!フィリアに会わせてくれ!オレがオレ自身であるうちに!≫
頭に響いてきた声は、悲痛だけではなく焦燥も伴っていた。
もちろんできることなら、聖獣の望むままに“フィリア”に会わせてあげたい。“神の娘”である“フィリア”に――――――――
しかし、その“フィリア”の生まれ変わりであるヒロインに、聖獣は短剣で目を刺され呪われてしまった。
聖なるモノが呪われば、その身体は穢れ、朽ち果てるだけだ。もはやそこに救いはない。
そんな残酷な未来を与えた彼女こそが、あなたが探していた“フィリア”だと告げるの?
聖獣が心底憎み、殺そうとしている相手こそが、その“フィリア”の生まれ変わりなのだと―――――――
でも今の私に、どんな彼女であれ救わないという選択肢はない。
そして同様に、この聖獣を救わないという選択肢もない。
たとえ、その身体は朽ちることになったとしても、せめてその心だけは救ってあげたいと思う。
………いいえ、そうではないわね。
私は聖獣の呪いを、是が非でも解いてあげたいのだ。どんな手段を講じようとも。
そのために、今の私にできること。それは――――――――
「あなたの探していた“フィリア”の生まれ変わりはここにいるわ!」
「ユ、ユーフィリナ嬢!」
私の考えを瞬時に察したらしいシェアトの慌てた声が、すぐ傍で聞こえたけれど、私にはもうこれしか思いつかなかった。
本物の“神の娘”の生まれ変わりであるヒロインに意識はない。というより、命さえも危うい状況だ。その彼女を助けるためにはまず聖獣から引き離すしかない。けれど、自分を呪った者に対する聖獣の憎しみもまたわかる。しかも、その者が自分の探し人であるという真実は、確実にこの聖獣の心を殺してしまうと思われた。
だからここは、この場にいる唯一の令嬢である私が“神の娘”の生まれ変わりを演じるしかない――――――と、短絡的にもそう思ってしまったわけで………………
シェアト様、大丈夫です。私は誰よりも自分のことを理解しております。
元喪女で、隠密スキル持ちの地味で冴えない公爵令嬢。魔力も枯渇寸前で、最弱すぎる魔法使い。
自分がそんな大層な存在だと思い込んだがゆえの暴走ではございません。
これはれっきとした人助けであり、聖獣助けのために行う最終手段のようなもの。
うっかり自分のことを“フィリア”だなんて、思い込んだりしていませんから、ご心配なく。
―――――――という気持ちを込めて、シェアトに微笑み返す。
なのに、シェアトはなんてことだとばかりに天を仰いでしまった。
まぁ、私では力不足なのはわかっていますが、何もそこまで嘆かなくても……………と、少し口を尖らせながら拗ねた目をシェアトに向ける。
その私からの視線に、「そんな顔も愛らしいが………いや、今はそういうことではなくて……ユーフィリナ嬢、その発言はかなりまずい………」と、さらに慌て始めたシェアトは意味不明なことを口走っている。しかしそれを遮るようにして、聖獣の喜色に満ちた声が脳内に響いた。
≪フィリア!!あぁ……会いたかった、フィリア!千年待ち焦がれたぞ!なぁフィリア、頼む!オレの傍まで来てくれ!今はもう目も見えなければ、鼻も利かない!だからまだオレが少しでもフィリアを感じ取れる間に……早く‼≫
これほどまでに求められて断れるはずもない。むしろ、あの場所からさっさとヒロインを回収してしまいたい私にとっては、願ったり叶ったりな状況に思われた。
「もちろんよ。今すぐ行くわ」
「ユーフィリナ嬢!君に“言霊”を……って、それも無理だった!」
紳士の鏡であるはずのシェアトが完全に自棄になったように叫ぶ。そのことに私は内心で首を傾げながら、聖獣に向かって足を踏み出した。
「聖獣殿!私も彼女の護衛として聖獣殿の傍に行ってもいいか!もちろん私だけだ!」
シェアトはそう叫ぶと、今は動くなと周りを固める東の公爵家の者たちに片手を挙げることで告げ、聖獣を見据えた。
そのシェアトの言葉に、聖獣は思いの外あっさりと許可を出した。
≪いいだろう。だが隙をついてオレの獲物を奪われても適わん。悪いが、周りと遮断させてもらう≫
そう言うや否や、またもや無詠唱で魔法を発動させた。瞬間―――――――
聖獣を中心に、私とシェアト、そしてヒロインを閉じ込める形で、天を衝くほどに高い真っ赤な炎の壁がそそり立った。
それはまるで炎の壁で作られた直径十メートルはあろうかという巨大な鳥籠。轟々と唸り声を上げながら、私たちの逃げ道を完全に塞いでしまう。
「ユーフィリナ嬢、私の後ろに!」と、すぐさまシェアトが私を庇うように“水盾”を発動する。けれど、とても不思議なことに、その壁からは炎としての熱さが一切感じられなかった。
「これは…………幻なのか?」
シェアトはそう呟きながら“水盾”を消すと、完全に東の公爵家の者たちを閉め出してしまった炎の壁を注意深く観察する。
私もシェアトの横で、その温度を感じない不思議な炎の壁を眺めながら、思わず本物かどうかを確かめてみたくなった。そんな好奇心からそっと手を伸ばしかけた時―――――
≪その壁に触れようなどと思わない方がいいぞ。触れなければ、それはまやかしの炎にすぎないが、触れれば忽ち本物の炎となり、触れた者を確実に焼き殺す。今すぐ焼け焦げたいというのであれば、まぁ止はしないがな≫
などと、聖獣からとてもご親切な忠告があった。その内容は決して有り難いものではなかったけれど。
そもそも私は、あなたが死ぬほど会いたがっていた“フィリア”の生まれ変わりなのよ(あくまでもフリだけれど)。その私を焼き殺してしまっては本末転倒ではないかしら?
……………いえ、すみません。私が触らなければいいだけの話ですよね。はい、失礼いたしました。ご忠告に感謝です。すみません。
その前に、本物の“フィリア”なら、まず触ってみようとか思わないわよね…………
と、自分の好奇心にガックリと項垂れる。けれど――――――
≪特にフィリア!絶対に触るなよ!お前が一番やりかねないからな!≫
聖獣から名指しでそう注意されて、“フィリア”もやっちゃうタイプの人なんだ………と、私は若干遠い目となりながら、とても複雑な気持ちとなった。
さて、ここからが本番だわ。
もちろん演じるのは、悪役令嬢でも引き立て役令嬢でもなく、ましてやラスボスでもなく、“神の娘”である“フィリア”の生まれ変わりだ。
私はデオテラ神聖国に召喚され、“紅き獣”としてデウザビット王国の王都を騒がせていた聖獣の前にようやく立った。
距離としては一メートルもない。手を伸ばせば確実に届く距離だ。
気持ち的には、感知魔法でまだ息があるというヒロインへ真っ先に駆け寄り、自分の目で怪我の具合や状況を確かめたかった。しかし、今それをしてしまえば聖獣の気持ちを逆撫でしてしまいかねないとなんとか堪える。
シェアトも同じだったようで、私のすぐ後ろに立ってはいるものの、すぐ傍に倒れているご令嬢の様子を窺っているようだった。
もちろん、私と違ってシェアトは感知魔法が使えるため、ある程度は把握できているのだろうけれど。
それにしても、私の眼前の聖獣は本当に美しかった。
聖獣は、神が神自身のために創造したと謂われる神聖なる獣だ。そしてこの聖獣は、紅き炎の毛を持つ大型の狼、“炎狼”。
そのふわりとした紅き毛の一本一本すべてに焔を纏い、まるで風にそよぐかのように、ゆらゆらと揺らめている。しかしやはり私たちを閉じ込めている炎の鳥籠同様、聖獣からは炎の熱さを感じることはなく、むしろ赤にも茜にも色を変え、優しい光を灯らせる紅き毛は私に恐怖ではなく、言い知れぬ安堵感をもたらした。
そして私はまた触れてみたいという衝動に駆られてしまう。というより、撫でたいと言った方が正しいのかもしれない。
思うがままに抱きつき、満足するまでわしゃわしゃと撫で回す。そして最後にはボサボサとなった聖獣にムスッとされてしまい、『ごめんね』と苦笑しながらその毛を整え直してあげる。
まるで過去にそんなことがあったかのように、ここまでの一連の流れを想像し、きっとこの毛はとても柔らかくて温かいはずだから、幸せな気持ちになれるはずだわ――――――と、私は内心で悶えてしまう。
ここまでくると、もはや病気だ。病名はおそらくモフモフ依存症。間違いない。
けれど、触れてもいないのに私はこの毛の感触を何故か知っているような気がした。想像ではなく、実感すら伴うこの手に宿る記憶。
私はその感覚に引き摺られるようにして、一瞬意識が遠のきそうになる。けれど――――――
「ユーフィリナ嬢!」
≪フィリア!≫
耳から聞こえた声と、脳内で響いた声に、私は忽ち自分の意識を繋ぎ止めた。その拍子に身体が傾ぎ、シェアトが後ろから支えてくれる。
「ユーフィリナ嬢、大丈夫なのか?」
「え、えぇ……すみません。少し、不思議な感覚に捉われてしまっただけです。もう大丈夫ですから…………」
心配そうに私を見つめてくるシェアトにそう声をかけて、私はふと思う。
もしかしたら、ヒロインの中に存在する“フィリア”の魂と共鳴しているのかもしれない―――――と。
実際そんなことが起こり得るのかわからないけれど、“フィリア”の魂もこの聖獣に対して、少なからず懐かしさを感じているはずだ。
しかも、ヒロイン本人の意識は負傷により完全に閉じられている状態。
そのような状態で、聖獣が“フィリア”を呼ぶように、“フィリア”の意識もまた聖獣を必死に呼んでいるのだとしたら、“フィリア”の代わりを務めようとする私が、強く影響を受けてしまったとしても何もおかしくはない―――――――ような気がする。
だったら、この妙な既視感も理解できるわね…………と、自分なりに納得し、私は改めて聖獣を見つめた。しかしすぐに、左目の刺さった短剣が目に入り、私は酷く泣きたくなる。
どうして……どうして…………あなたが呪われなきゃいけなかったの………………
けれど、脳内に響いてくる聖獣の声は喜色一色だった。
≪感じる!フィリアがいる!これは間違いなくフィリアの魂だ!≫
もちろん聖獣が感じている魂の在処は、私の中ではなく、倒れているヒロインの中にあるものだ。
でも今現在、視覚も、嗅覚も奪われてしまった聖獣には、その魂の本当の所在が分からなくなってしまっているのだろう。
私としてはとても都合がいいけれど、聖獣にしても、ヒロインにしてもこんな悲劇はない。
私は泣き声にならないように気をつけながら、声を絞り出した。
「そう……それはよかったわ。私もあなたに会えて嬉しい。できれば、その短剣を抜いてあげたいのだけれど、駄目かしら?」
≪駄目だ!これに触っては絶対に駄目だ!これは魔剣だ!聖なるものを呪い、人間に心を悪を染める忌むべき剣だ!だから絶対に触れてはいけない!どんなにその好奇心の血が騒ごうともだ!≫
いやいや、ちょっと待って。
私は決してその剣を好奇心で抜こうと思ったわけではないのよ。“フィリア”に前科がありそうなだけに、強く否定できないのがなんとも辛いところだけれど、これだけは絶対よ。一応、私の好奇心も時と場合を選ぶわよ。
なんてことを、内心で物申しつつ、「だったら、あなたの身体を撫でてもいいかしら?」と問いかけた。
うん、やはり私の好奇心は時と場合を然程選ばないらしいと、自分でも呆れながら…………
しかし聖獣の声は喜びに弾んだ。
≪撫でてくれ。但し呪われていないところをだ。今日だけは特別に、思う存分撫で回していいぞ≫
その声に私の涙腺はとうとう堪え切れず、涙を落とした。
それでも「だったら、お言葉に甘えて」と、努めて明るい声を出すと、私はシェアトに大丈夫だと視線だけで伝えてから聖獣の身体に手を触れた。
温かい………………
それは柔らかい春の日差しのようにポカポカとした優しい温もりで、私は手だけでは飽き足らず、そのまま顔をうずめた。
くんくんと匂いを嗅いでみれば、どこか懐かしい新緑の匂いした。すりすりと顔を動かせば、≪フィリアは千年経っても相変わらずだな≫と、聖獣が笑う。
あぁ………このままこの子を朽ち果てさせるわけにはいかないわ……………
心の深淵から聞こえてきた声に、私は強く同意した。けれど、次の瞬間――――――
≪フィリア‼オレから離れろ‼≫
聖獣の声が脳内に響き、それとほぼ同時に、私の身体は聖獣が放った魔法によって宙へと弾き飛ばされる。
「あッ!!」
「ユーフィリナ嬢!!」
飛ばされたと言っても、せいぜい三メートル程の距離。それでも完全に不意を突かれたシェアトは、体勢を崩しながらもなんとか私を受け止めてくれた。
「ユーフィリナ嬢、大丈夫か!怪我は⁉」
「あ、ありません。シェアト様、ありがとうございます。でも急にどうして…………」
そう口にしながら聖獣に視線を向ければ、呪いのために黒く変色した部分が顔だけではなく、私が撫でていた身体にまで及んでいた。しかも、その変色のスピードは急激に加速しているようで、すでに身体の三分の一ほどが黒く染まっている。
「聖なるものに反応したか……」
私を腕の中に捉えたままで、シェアトが呟いた。しかし、今の私にその言葉の意味を考える余裕はない。
それどころか、眼前の状況に戦慄を覚える。
「シェアト様!聖獣が!!」
一度はシェアトの“言霊”で落ち着きを取り戻し、動きを封じられた聖獣。けれど、再び聖獣の全身から火柱が立ちのぼり始めた。そして――――――≪クソッ!オレから逃げろ…………≫と、聖獣の声が脳内に響いた直後、聖獣は空へ向かって咆哮した。
『ウオォォォォォォォォォ―――――ッ!!』
「駄目だ!“言霊”が解除された!」
「そんなことって…………」
そう返しながら、相手が神の創りし神聖なる聖獣ならば、神より与えられし能力である“言霊”を解除できても、決して不思議ではないと思い直す。
聖獣は、自由を得たことを確かめるように、大きな身体をぶるりと振るうと、今度は私たちに向かって前傾姿勢となり唸り声を立てた。
駄目だわ、もう完全に自我が…………
先程とは違い、触れた者を確実に焼き殺す凶器としての炎をその身に纏い、私たちに対してありありと敵意を向けてくる様子からも、聖獣の自我は完全に失われてしまっていることがわかる。
つまり、今の聖獣には敵味方の区別もついていないということだ。
シェアトは受け止めたままとなっていた私を、ようやくその腕から解放すると、「ユーフィリナ嬢はご令嬢と一緒にいてくれ。何があっても私に近づいてきては駄目だよ」と、聖獣から目を逸らさぬままに告げた。
シェアトが私とヒロインを守るために、一人前線に立つ気でいることはわかる。
魔力枯渇寸前の私が、何の役にも立たないということも。
私に人並み程度の魔力があれば………と、己の不甲斐なさに自己嫌悪が募るけれど、今ここでそれを嘆いたところで状況が好転するわけでもない。
だったら私は、せめてシェアトの邪魔にならないように、少しでもシェアトの負担を減らすために、自分とヒロインの身だけでも守らなければならない。
それがシェアトをも守ることにもなるはずだと、私は身を切る思いでシェアトに頷き、ヒロインのもとへと駆け寄った。
意識なく俯きに倒れているヒロインの首元に手をあてがい、脈を確かめる。そして僅かに触れる脈を指先に感じて私は息を吐いた。
しかし、赤黒く染まる水色のドレスを目の当たりにして、私の焦燥は一気に駆り立てられる。
とはいえ、私の力ではヒロインを持ち上げて運ぶこともできない。それ以前に、私たちは籠の中の鳥だ。
とにかく今はここで、聖獣からヒロインを守らなければと、ヒロインを庇うようにして立ち、前を見据えた。
もちろん私の視線の先では、シェアトが水魔法と風魔法、さらには地魔法まで使って、聖獣からの容赦ない炎の攻撃を防いでくれている。しかし、自我失った聖獣は圧倒的だった。
「ッ!!」
「シェアト様!」
無数の刃のようにシェアトへと襲い掛かる鋭き炎の破片。その一つがシェアトの腕を掠めた。
肌の焦げる匂いと、血の匂い。
私はシェアトへと駆け出しそうになる足を懸命にその場に縫い付けた。けれど―――――――
「ユーフィリナ嬢!逃げるんだ!」
シェアトの守護魔法を掠めるようにして、私の方へと飛んできた炎の塊。大きさは私の顔約二個分。
しかし私が逃げればヒロインがその炎の犠牲になる。
どうすればと考える間もなく、シェアトが攻撃魔法“水槍”で粉砕してくれた。されど、間髪入れず二つ目の塊が飛んでくる。
しかも次は私の顔五個分。この大きさではたとえ私が逃げなくとも、ヒロインにまで被害が及ぶ。そして、もうシェアトの攻撃魔法も間に合わない。ならば、私にできることは一つ。
「光魔法!光結晶‼」
そう、これはお兄様が私に教えてくれた魔法。
そして私が使える唯一の魔法。
我が身を守るためだけに発動される、守護魔法だ。
その形状はまさしく光の卵。しかし、その強度はお兄様の折り紙付き。並大抵の攻撃にはひび一つ入ることはない。
けれど、私が発動できる大きさは一人分。
私は迷わずヒロインにその魔法を発動した。
これで私の魔力は完全に枯渇してしまったけれど、ヒロインは守れるわね…………
「ユーフィリナ嬢ッ‼」
私はシェアトの声を耳で捉えながら、目を閉じた。次にくる衝撃に備えるために。しかし―――――――――
「――――いやはや、これはどうしたものか。この魔法を発動させたことを素直に褒めるべきか、それとも“光結晶”の外にいてはまったく意味がないと嘆くべきか、悩むところだな」
目を閉じていてもわかる。
私がこの声を聞き間違えるはずがない。
「お兄様!」
私は目を開けると同時にその人を呼ぶ。
するとそこには、私を背に庇いながら、水と風の融合魔法“氷手”で炎の塊を受け止めているお兄様がいた。




