ヒロインは私が絶対に守ります(2)
薄闇を敷いた空には、今にも降って落ちてきそうな数の星々の瞬き。
前世では窓から星を眺めることもなかったけれど、おそらくこれほどの星も瞬いてはいなかっただろうと思う。
あの後、お兄様と私はシェアトと別れ、馬車で屋敷へと戻って来た。
その馬車の中でも私はお兄様から離れられず、お兄様の手を握り、もたれかかるようにしてその温もりを感じていた。
お兄様は何も言わず、そんな私をただただ受け止めてくれた。
しかし屋敷へと戻り、私を専属侍女であるミラとラナに預けると、『いい子にしているのだぞ』と言い置き、お兄様はさっさと自室へと引き上げてしまった。
おそらく服を着替えて、王都へ向かうつもりなのだろう。
一人のご令嬢が――――
ヒロインが――――――
“紅き獣”に襲われ命を落とした後に、その命を奪った“紅き獣”を取り押さえるために。
そしてそれをわかっていながら、私は黙って見送ってしまった。
膨大な魔力を持つと謂われる聖獣、“紅き獣”が相手ならば、お兄様の身だって十分危険だというのに、ただ遠ざかっていくお兄様の背中をぼんやりと眺めていた。
そんな私を心配して、ミラとラナがまたお抱えの医者たちを呼ぼうとしたけれど、それを丁重に断って、着替えもせずに一人で部屋に閉じ籠もっている。
そして、王都で“紅き獣”に襲われ命を落とすことになるヒロインと、その“紅き獣”と対峙することになるお兄様たちを思いながら、何とはなしに窓の外を覗いてみれば、そこはもう満天の星空となっていた。
「私は……どうしたらいいの?」
瞬きを繰り返す星空へと問いかけてみる。
“先見”で見られた未来は変わらない。これだけは確かだ。
だからといって、それを受け止められるかと言えば、そんなこと簡単にできるわけがない。
頭では理解できても、心は絶対に納得しない。
だったら、どうするの?心が納得するまで説得するの?それとも………………
“だからユフィ、あなたにはすべてを最後まで見定めてほしい。逃げないで、ちゃんと見つめてきて”
そんな台詞がふと胸を過る。
誰に言われたとか、どこで聞いたかとか、何も思い出せないけれど、この言葉だけは決して忘れはいけない言葉だったと心がそう叫んでいる。
だとしたら、私は見定めなけばならないだろう。
どんな残酷な現実からも逃げ出すことなく、すべてを最後まで見届けなければならないはずだ。
それに私の心は、こんな未来は絶対に受け入れられないと、先程からずっと訴えかけてきている。その心の声を無視して、何もしなければ、それは見殺しにしたのも同然だ。
ならば、足掻くしかない。無駄でも、意味がなくても、最後の最後まで足掻き続けるしかない。
そうすることがきっと、逃げずに最後まで見定めることへと繋ると思うから―――――
「相手は、“紅き獣”と変わらぬ未来。諦めの悪い私にはぴったりの相手ね」
同意するかのように瞬く星空にそう呟き返して、私はミラとラナを呼んだ。
「お嬢様、正気ですか?今から学園に戻るなどと……」
もう馬車に乗り込み、走り出しているというのに往生際の悪いミラが申し立ててくる。
「正気も正気よ。でも、私一人だと心配だというから、ミラとラナに付いてきてもらったの。だからいい加減、諦めてちょうだい」
「お嬢様のためなら、たとえ火の中水の中であろうとも、ご一緒させていただきますが、確か噂では王都で“紅き獣”が目撃されているそうです。そんな時に屋敷の外に出られるなど、やはり正気ではございません。セイリオス様にも怒られてしまいますわ」
「もうラナまでそんなことを言うなんて……でも安心して、本当に私は正気だから。それに、お兄様だって今は屋敷の外にいるわ。小さい頃ならともかく、もうデビュタントも済ませた成人の私が出られないなんて、不公平でしょ?」
「不公平ではございません。セイリオス様は殿方で、最強の魔法使いでございます」
「あらあら、どうせ私は最弱な魔法使いですよ」
ちょっと拗ねたようにラナに言い返してやれば、ラナはため息交じりに返してきた。
「お嬢様、そういうことではございません。こんな時間に公爵令嬢が出歩くこと自体、問題だと申し上げているのです」
「でも、いざとなったら、私をお得意の護身術で守ってくれるのでしょう?だったら何も問題はないはずよ」
「いえいえ、私の護身術は人間限定でございまして、“紅き獣”相手に通用するとはとても………」
「あら、そうなの?だったらそれは今後の課題ね」
なんてことを返しながら、私は王都を馬車で駆けている。
但し、学園に大事なものを取りに行く――――という曖昧な口実のもとに。
そのためもあって、今の私は依然として制服姿のままだ。とはいえ、学園に戻る気はない。目的はあくまでも“紅き獣”という聖獣だ。だから途中で、何かしらの理由をつけて道を誘導する必要があるのだけれど、まぁそこはなんとかなるだろう。
それにしても――――――と、考えることは………………
“紅き獣”はどういう理由でヒロインを襲うことになり、あまつさえ命まで奪ってしまうのか――――と、いうことだ。
当初、シェアトからこの話を聞いた時は、探し求めていた“神の娘”の生まれ変わりと会えた嬉しさで、前後の見境なく過剰にじゃれつき、それが襲っているように誤解されてしまったとばかり思っていたけれど、命を奪うまでじゃれつくなんてさすがに考えられない。
だとしたら、“紅き獣”はヒロインを襲うだけの正当な理由があるということになる。
それも命を奪うほどの殺意をもって………
「聖獣にとっての絶対的な敵は、誰になるのかしら…………」
「お嬢様?何か言われましたか?」
「ううん、ごめんなさい。なんでもないわ。あ、ところでミラ、御者に頼んでもらえるかしら。少し遠回りをしたいから、次の大通りを超えて、一つ目の辻を左に曲がってほしいって」
「まぁ、外出だけでも頭が痛いことですのに、遠回りだなんてあり得ませんわ」
「お願い、ミラ。ほんの少しお兄様に内緒で冒険をしてみたいの。遠回りなんてなんとも可愛い冒険でしょ?」
そう告げて、にっこりと笑う。ミラはやれやれと首を横に振って「お嬢様のその笑顔には誰も勝てませんわ」と、御者に声をかけてくれた。
そして私はまた思考へと沈む。
聖獣にとっての敵。考えられるとしたらそれは、闇の神である魔王の眷属――――――魔の者たちだけだ。
しかし、ヒロインがそうだとはとても思えない。ならば、今夜襲われるご令嬢はまた別のご令嬢の可能性も出てくる。
けれど、ゲームではヒロインが最初で最後の被害者となっていた。
駄目だわ…………どう考えても辻褄が合わない。
私はう~んと唸りながら頭を抱え込みたくなった。もちろんミラとラナの手前、そんなことはしなかったけれど。
そして、私は一度目を瞑り、それからある一つの決断をして目を開けた。
そうね。まずはここがゲームの世界であるという前提を捨てることにしましょう。
どう考えてみても、やはりこの世界はゲームの世界とは微妙に違っているとしか思えない。
そうであるならば、すべてにおいてゲームありきで考えるのは逆に危険だわ。元々このゲームに関しての予備知識なんて、ほとんど持ち合わせてはいなかったけれど、むしろこれは好都合だと言えるのかもしれないわね。
何なら、前世の私を褒めてあげてもいいくらいだわ。
だからここは、ある一人のご令嬢を“紅き獣”から助けるために全力を尽くす――――――その一点のみを考えて、行動することにいたしましょう。
私は一先ずそう結論を出すと、窓から馬車の外へと注意を向けた。
ゲームありきとして考えないとするならば、“紅き獣”はどこでご令嬢を襲うことになるのだろうと改めて思ったからだ。
確かゲームでは、ヒロインの生家は爵位を持つ貴族だったけれど、今やすっかり落ちぶれ、ヒロインは得意の裁縫でかつて自分が着ていたドレスを仕立て直し、日々の生活の糧にとお金に替えていた。そしてその帰り道に、“紅き獣”と遭遇し襲われることになる。
そのため、わざわざ大通りから逸れて問屋が軒を連ねる通りを選んでみたのだけれど、今やそれすらも見直す必要が出てきてしまった。
そもそも、“先見”ではどこまで見ることができたのだろうかと、ようやくそんな初歩的なことに気がつく。
お兄様たちだって、それなりに広い王都を当てもなく探しているとはとても思えない。
つまり、ある程度の見当はつけているはずで………………
あぁ、もしかしてまた私、やっちゃった系?
それも今度は前世の私ではなく、この私がやっちゃったってこと?
いくら、ちょっとした冒険をしたいとお願いし続けたとして、一晩中王都を走らせるわけにはいかない。どんなに笑顔を重ねたところで、過去の経験則からいえば三回が限度だ。
早い話、使えるのはあと二回。いや、この馬車を出してもらう際にも使ってしまったから、あと一回。
その残り一回で“紅き獣”へとたどり着かなければ、用もない学園へ行って、何の収穫もなく屋敷へ戻ることになる。
これでは何のために、ここまでの決意を固め、屋敷を出てきたのかわかりゃしない。
とにかく、山勘だろうと、当てずっぽうだろうと、必ず“紅き獣”を見つけるわよ!と、王都の地図を脳裏に広げてみる。
けれど、生憎その地図もほぼ白紙に近い状態だった。
そりゃそうだろう。常に馬車に乗っているだけ公爵令嬢が、王都の地理に詳しいはずがない。
私が知っているのは学園への道くらいなもので、それだってとても曖昧だったりする。
先程、御者へ指示した道にしても、『どの道が比較的に明るいかしら?やはり小さなお店が軒を連ねている通りかしら?』と、屋敷を出る前にさりげなく御者へ確認し、『大通りの向こうの通りは問屋街となっているため、それなりに店も多いですが、この時間になると閉めてしまう店がほとんどなため、大して明るくはないですよ』という、情報を得ていたからに外ならない。
とどのつまり完全に詰みだ。笑顔の回数云々の話ではない。
しかし、こんな中途半端な状態で諦めきれるものでもない。
さて、どうしましょう……………と、再度窓の向こうへと目を凝らした時、一台の馬車が街中とは思えぬスピードで、この馬車の横をすり抜けるようにして追い越していった。その馬車に施された紋章は――――――――
「あれは東の公爵家の紋章だわ。お願い!あの馬車を追ってちょうだい!あの馬車に用があるの!」
突然私から飛び出した指示に、ミラもラナも目を丸くした。
結果から言って、私はその馬車を追走する必要はなかった。
なぜなら、その馬車がすぐに止まってしまったからだ。もちろんそうなれば、私が乗るこの馬車も自然と止まることになる。
そして、目の前の馬車から降り立った誰かが、うちの馬車の御者に声をかけているようだった。しかもその声に、私は聞き覚えがあった。
ううん、聞き覚えなんてものではない。今ではその声を聞き、その姿を目に捉えてしまえば、声をかけずにはいられない親しきあの人。
私は「お嬢様、お待ちを!」というミラとラナの制止の声も振り切り、馬車の扉を開けた。
「シェアト様!」
「ユーフィリナ嬢!」
馬車から飛び降りるようにして出てきた私を、シェアトは驚きつつも、しっかりと両手で受け止めてくれた。
「君って人は本当に…………私を驚かせる天才だな」
「申し訳ございません。でもこんなところでシェアト様に会えるなんて思ってもみなくて…………」
嬉しさのあまり、私は笑み綻んでしまう。そんな私をシェアトは呆けたように見つめたけれど、「コホン」というミラの咳払いで我に返ったらしく、慌てて私から手を放した。
「御者が、前の走る馬車に南の公爵家の紋章があるというものだから、まさかと思って追い抜かせてみれば、やはり君だったか……」
「はい。私でございました」
「それで、どうしてこんなところに?…………と、聞くだけ野暮かな?」
「はい。それは野暮というものですわ」
シェアトのパールグレーの瞳を真っすぐ見つめ、きっぱりとそう返す。
そんな私を困った子を見るような目で見つめてから、シェアトの視線は上下に往復した。
「制服のままなんだね」
「えぇ、こちらの方が動きやすいかと思いまして」
半分本当で、残り半分はただただ時間が惜しかったからと、屋敷を出る口実が学園に戻るというものだったからだけれども、この際そんな説明はいらないだろう。
ちなみにシェアトの服装は、シンプルだけれど一目で上等だとわかるブラウスにシルクのクラバットと、黒生地を銀の刺繍で上品に飾ったベスト。そして、同じく襟元に銀の刺繍をあしらった黒のフロックコートだ。
シェアトもまた一応は正装ではありながら、動きやすさを考慮した服装だと言える。
私の制服に比べれば、段違いにおしゃれではあるけれど………………
「諦める気はないんだね」
「えぇ、諦めるのは一番最後でも問題はないはずです」
「確定している未来相手でも?」
「たとえどれほど絶対的な未来相手でも、やはり諦めるのは最後の最後です。それまでは全力で足掻きますわ」
その言葉にシェアトは額に手をやり、天を見上げた。もちろんそこに広がるのは無限にも思える星空だ。
何を考えているのかはわからない。しかしシェアトは、天を仰いだままゆるりと口角を上げると、徐に私へと視線を戻した。そして恭しく胸に手を当て、頭を下げる。
「紳士としてご令嬢の望みを叶えないわけには参りません。不肖、東の公爵家子息、シェアト・オリエンス。南の公爵家ご令嬢、ユーフィリナ・メリーディエース嬢の願いを叶えるべく、付き従わさせて頂きます」
「シェアト様…………」
「セイリオス殿には後から一緒に怒られるとしようか」
「シェアト様!」
私の嬉々とした声に、シェアトはふふっと笑った。けれど、それも刹那のこと。
「さぁ、時間がない。ユーフィリナ嬢、私の馬車に。さぁ君たちも来て」
シェアトは忽ち真剣な表情へと戻ると、ミラとラナにも口早に声をかけ、御者には後から付いてくるようにと指示を出した。
「「お嬢様が、見ず知らずのご令嬢のために“紅き獣”を探すなどと、とんでもないことでございます‼」」
東の公爵家の馬車の中で、双子でもないのに、ミラとラナの声が綺麗にハモった。
私にとってはいつものことであるため、今更驚きもないけれど、やはりシェアトの目には衝撃として映ったらしい。
しかし、僅かに目を瞠っただけで、すぐに口を開く。
「ユーフィリナ嬢にお仕えする侍女のお二方にしてみれば、とても寛容できる話ではないだろうが、ユーフィリナ嬢の誰よりも優しい心根を今はどうか理解してあげてほしい。そして私も、東の公爵家の名に誓い、必ずユーフィリナ嬢をお守りすると約束しよう」
麗しの公爵令息、シェアト・オリエンスから真摯な目を向けられ、そんなことを告げられてしまえば、女性であるなら誰しも嫌だと言えるはずがない。そしてそれはミラとラナにも漏れなく当て嵌まり――――――
「シェ、シェアト様が、うちのお嬢様をお守りしてくださるのであれば」
「私たちは何も申し上げることなどございませんわ」
――――――――と、頬を赤らめあっさりと懐柔されてしまった。
うん、シェアト恐るべし。
「ところでシェアト様、“紅き獣”がどこでいつ令嬢を襲うのか、その場所と時間はおわかりになっていらっしゃるのでしょうか?」
先程まで私が抱えていた疑問をそのままぶつけてみる。しかしシェアトは首を横に振った。
「それがわからないんだ」
「…………はっ?」
そんなことってあるの?
だったら、お兄様も含めて皆でどこを探しているの?
まさかの山勘?当てずっぽう?
私じゃあるまいし、嘘でしょう?
唖然として見つめる私に、シェアトは困ったように形のいい眉を下げた。
「実はね、“先見”の能力でわかるのは、何がどの日に起こるかってところまでなんだ。その日についても、漠然とこの日だと感覚で掴むものらしくてね、多少の誤差もある。そして、正確な場所や時間については見えた映像を分析しなければ特定できない。つまり、どれほど詳細にその映像を見たとしても、国王陛下がその場所を知っているか、余程特徴深い建物でもない限り特定できないんだ」
「それでは今回は………………」
「“今夜、王都のどこかで淡いブロンドで碧眼のご令嬢が“紅き獣”に襲われて、命を落とす”ってことかな。映像というより、断片的にしか見えなかったらしい」
「で、では、シェアト様は一体どこに向かわれているのですか?」
「王都の東側が私の担当だから、その周辺をくるくると回っている、といったところだろうか」
「それではお兄様は…………」
「セイリオス殿は王都の南側、レグルス殿は北側、サルガス殿は西側を馬車で駆けているところだよ。そしてその内の誰かが“紅き獣”を見つけた際には、魔法光を空に放って場所を知らせ、王都の中央広場で待機中のスハイル殿下と殿下直属の近衛騎士団、そして残りの我々が駆けつけることになっている」
なんとまぁ、これでは当てずっぽうと何も変わらないではないか…………と、若干呆れすら感じながら思う。
「しかし、私には運があるらしい。こうして君にここで会えたのだからね」
シェアトが嬉しそう微笑み、私もまたそれに微笑みを返しながら、それを言うなら私もだわ、と内心で同調する。
そもそも私は学園に行くと馬車を走らせていたため、学園がある王都の南側へと向かっていた。つまりそこはお兄様の担当エリアだ。けれど、大通りを超えて左へと辻を曲がった。そう、図らずも東側へと逸れたのだ。そしてシェアトと出会うことができた。
後々、お兄様に怒られることは已むを得ないとしても(シェアトと一緒に)、今はまだ自由に行動ができる。
あぁ、“紅き獣”と出会う前にお兄様と鉢合わせしていたら…………今頃間違いなく箱入り令嬢に逆戻りだったわね。
本当に危ないところだったわ――――――と、胸を撫でおろしたところであることに気がついた。
「あの……シェアト様は、お一人なのですか?」
いくらシェアトが“言霊”の能力者で、優秀な魔法使いだとしても、相手は“紅き獣”と呼ばれる聖獣だ。後から応援が駆けつけるとはいえ、それまでの時間を一人で持ちこたえるのはなかなか難しいはずだ。
そんな私の気持ちを皆まで言わずとも察したシェアトは、「問題ないよ」と、軽く笑った。
「君のところもそうみたいだけど、うちの御者も東の公爵家専属の護衛騎士でもあるんだよ。そしてこの東側のエリアの要所要所に、うちの者たちを配備してある。おそらく、ここだけでなく各担当エリアでもそうしているだろうから、たとえどこで“紅き獣”が出ようとも、出し抜かれることはないよ」
「まぁ、そうだったのですね」
「さすがですわ」
そううっとりと感心の声を漏らしたのは、私ではなくミラとラナだ。
シェアトはそれに苦笑し、私は呆れた視線を二人に送る。しかし、ふと思った。
どうしてミラもラナもそのことを知らなかったのだろう?
――――――――――と。
シェアトの言葉にもあったように、東側のエリアに東の公爵家の者たちを配備しているならば、南側のエリアには当然、南の公爵家の者たちを配備しているはずだ。
その中で、私が出かけるなどと言い出そうものなら、どれほど笑顔をしてみせたところで、誰も首を縦に振ることはなかっただろう。
もちろんミラとラナは侍女であって、南の公爵家専属の護衛騎士でもなければ、攻撃魔法に特化した精鋭たちでもない。だから、今回の件に関して、はじめから知らされていなかったということも十分に考えられる。いや、彼女たちの言動からしても、実際知らなかったのだと思う。
しかし、執事のムルジムはどうだろう。ムルジムもいい顔はしなかったけれど、最終的には「お嬢様の笑顔の前では頷くより外ありませんな」と許してくれたし、何なら自分も一緒に行くと言い始めたムルジムを置いてくるのに少々手間取ったくらいだ。
それにだ。あの時は呆けていたので気づかなかったけれど、今に思えばお兄様だって妙にあっさりとしすぎていた。いつもならば『いい子にしているのだぞ』などという言葉一つで簡単に出ていくわけがない。
私を外に出したくなければ、それ相応の手段なり、厳命をしていくはずだ。
馬の蹴られそうになったあの時だって、学園は疎か家の庭に出ることだって禁じられ、私は三日間自室で過ごしたのだから…………
これは一体どう解釈すればいいのだろう。
お兄様は医務室で『諦めなさい』と私に言った。しかし私がそう簡単に割り切れる性格でないことも十分に知っている。
なのに、私を自由にさせた。そう、お兄様は敢えて私に自由を与えたのだ。
まるで、口では『出るなよ』と言いながらわざわざ鍵の開いた牢に入れ、さぁ逃げたければいつでも逃げればいいと、暗に示すかのように――――――――
お兄様は、私を試しているの?
それとも何か目的があるのかしら?
何となく雲を掴むような心境となりながら、何気に窓へと視線をやった。その時――――――――
ドンッ‼
腹の響くような地響きと、それに驚いた馬たちの嘶き。
そのせいで大きく揺れる馬車と、ミラとラナの悲鳴。
しかしその馬車の揺れを、巧みな手綱さばきですぐさま立て直した御者が叫ぶ。
「シェアト様!11時の方向に巨大な火柱が!」
私はその声が聞こえるや否や、全開になるまで窓を押し下げ、状況を確認しようと身を乗り出した。
「ユーフィリナ嬢、危ないッ!」
「「お嬢様ッ‼」」
走っている馬車から身を乗り出すなんて、公爵令嬢のする行為ではない。いや、公爵令嬢でなくてもあり得ない。けれど、今はそんなことに構ってなどいられなかった。
王都に犇めく建物の頭上を越え、天を衝くようにして立ちのぼる一本の紅き火柱。
それは地獄の業火のようでもあり、神聖なる炎の化身のようでもある。
「まさか……あれが“紅き獣”なの…………」
轟々と燃え盛りながら、夜空を茜色に染め上げていく紅蓮の火柱を見上げて、私は声を震わせた。
そんな私の横から「まったく君って人は困ったご令嬢だ…………」などと、ため息と一緒に零しながらシェアトもまた窓の外へと顔を出してくる。そして、空へ向かって真っすぐそそり立つ炎の柱を目視で確認すると――――――――
「やはり、私には運があるようだな」
ピリリとした緊張感を纏わせながら、シェアトが呟いた。




