ヒロインは私が絶対に守ります(1)
夢を見ていた。
ううん、たぶんこれは夢なんだと思う。
風景らしきものが何もない白い空間。
そこには学園の制服を着た私ともう一人――――――白いドレスを着た白金の髪の少女がいる。
年の頃は、まだ幼いような気もするけれど、膝に顔をうずめた状態で、後ろを向いて座っているためよくわからない。
けれど、その少女の柔らかそうな白金の髪を見つめながら、私は彼女こそがきっとヒロインだわ――――――と、そんな確信めいたものを感じていた。
そう思うのは当然のこと。
“神の娘”と同じ白金の髪色こそがなによりの証拠だ。
でも、私と少女の間には透明の壁があるので、近づきたくとも近づけない。
とはいえ、距離にすれば三メートル程の距離。
声をかければ聞こえるはずだと、私は少女に向かって叫んだ。
『どうしたの?泣いているの?』
そう尋ねたのは、少女が膝に顔をうずめたままピクリとも動かないからだ。
しかし、少女は一切顔を上げることなく首を横に振っただけだった。
『う~ん…………だったら、具合が悪いの?もしかしてお腹痛い?』
思いつくままに声をかける。けれど、やはり少女は首を横に振るだけだった。
困ったわね。これはどうすればいいのかしら?
顔が見たいという気持ちよりも、今はとにかく少女の頑なな態度が気にかかる。
どうにかしてこの透明な壁を破れないかしら――――――そんな不穏なことを考え始めた時、少女は顔を上げないままに告げてきた。
『こちらにはまだ来ないで』
『えっ?まだ…………?』
では、いつならいいのかという疑問がひょっこり顔を出すけれど、少女はそれを見越しているかのように続けた。
『まだ当分は駄目なの。ユフィが自分の目ですべてを確かめない限り、ここに来ては駄目なの』
さっぱり意味がわからない。私は何を確かめてくればいいのかも、その後どうすればまたここに来られるのかも、何一つわからない。
だって、これは夢なのに………………
そんな思いが渦巻くけれど、今は少女の言う通りにしようと決めた。
『わかったわ。私が自分の目で確かめれてくればいいのね』
『そうよ。お願い、そうして………そうしなければ、私はまたあの人を不幸にしてしまう』
『不幸って………一体誰を不幸にしたの?』
聞いてはいけないことだったのかもしれない。けれど、今聞いておかなければいけない気がすると、ある種の強迫観念のようなものが私の中で湧き上がる。
そして少女もまた、私のそんな思いに応えるようにして言葉を紡いでくれる。
『私が唯一愛した人。なのに、私がこの世界で一番となる不幸を与えた人。でも知らなかったの。私が彼にそんな不幸を背負わせてしまっていたなんて…………私は何も知らなくて…………だから消えたのよ。彼のいない世界を見ていたくなかったから…………でも、彼の愛した世界を壊したくもなかったから…………私はあの時、消えること選んだの。本当に何も知らなかったから、何度も何度も消えたのよ。彼をこの世界に一人置き去りにしたままで…………だからユフィ、あなたにはすべてを最後まで見定めてほしい。逃げないで、ちゃんと見つめてきて。そしていつか、私のしたことを許してくれるなら、この私を受け入れてほしい。あなたの一部として………お願い、ユフィ』
本当に意味がわからなかった。
この少女はヒロインではないのかしら?
私の一部として受け入れるってどういうことなのだろう。
そんなことをしてしまったら、あなたはどうなるの?また消えるの?
でもそんなことをすれば、あなたの愛した人が悲しむのではないかしら?
あなたの愛した人がまた――――――――
そこまで思考を巡らせた瞬間、私の胸がチクりと痛んだ。そして酷く息苦しくなる。
勝手に頬を伝い落ちてくる涙に戸惑いながらも、少女と自分の感情が共鳴し合っているのだと漠然と感じた。
そう、これは少女の想いであって、私の想いでもあると――――――
『わ、私は………………』
感情が溢れ出るままに、ポロポロと零れ続ける涙。
それを拭うこともできずに棒立ちとなる私の前で、少女はゆっくりと立ち上がった。
しかし、幼げに見えていた彼女は、今の私とほとんど変わらない背丈があり、それはまるで自分の後ろ姿を見ているような錯覚さえ覚えるものだった。
彼女の髪が白金でさえなければ……………
呆然と彼女を見つめる私に、彼女は背を向けたままで囁くように告げた。
『そう…………あなたもなのね。でも……あなたはまだ気づいていないようだけれど』
どこか幼かった声も、口調も、今は成人した女性のものだ。
でも、そんなことより――――――
『私は何を気づいていないの?』
『それを見定めるのも、あなた自身よ』
『全然わからないわ。私はこの先どうしたら…………』
しかしその問いかけは、突然頭上から降って来た声に、有耶無耶のままで立ち消えた。
『ユフィ、目覚めの時間よ。さぁ、あなたがいるべき場所へ戻りなさい』
『待って……あなたは………………』
――――――――――――誰?
そう問いかける間もなく、別の場所で覚醒していく意識。
曖昧となる世界で彼女が振り向き、ふわりと微笑む。
その顔に、その笑みに、私は息を呑んだ。けれど――――――――――
夢は夢のままで、私の記憶からも消えた。
「ユーフィリナ嬢、起きて」
シェアトの声に目を覚ます。
心配そうに私を見つめるシェアトと、その後ろで一切の感情を閉じたかのように、私をただ見ているだけのお兄様。
ここは……一体何があったの…………
そう思ったのも刹那の事。忽ち、あのトゥレイス殿下との記憶が私の中に雪崩のように押し寄せてくる。
「あ……あの、私……ごめんなさい………」
そう告げながら慌てて身体を起こし、何気なく頬に手をやると、そこは涙で濡れていた。
「私……泣いて………………」
「ごめん。怖い夢でも見てしまった?」
たとえ私が怖い夢を見ていようとそれは決してシェアトのせいではないのに、シェアトは申し訳なさそうに謝ってくる。そして、ロイヤルブルーのブレザーのポケットから、綺麗に折りたたまれた白いハンカチーフを取り出すと、「よかったら、使って」と、私に差し出した。
一瞬躊躇ったものの、お断りするのも失礼な気がして「ありがとうございます」と素直に受け取り、そっとそれで濡れた頬を押さえる。それから、未だ心配そうに眉を下げるシェアトに向かって淡い微笑みを返しながら、「怖い夢を見たわけではないと思います。でも、何も覚えていなくて…………」と正直に答えた。
そう、ここは医務室。
それは見ればわかる。
しかし、夢の内容云々の前に、いつ眠ってしまったのかもまったく覚えていない。
『だからユーフィリナは医務室で少し休んでいなさい』
――――――と、お兄様に言われて、何が“だから”なの?と思ったことは覚えている。
そして、お兄様に呼ばれたシャムが文字通り飛んできて、猫語を喋り、さらには私を抱きかかえて……それから……えっと…………私はいつ眠り込んでしまったのだろう。
しかも、こんな非常時に…………
うん、完全に自己嫌悪だわ。
でも最後に、シェアトの声を聞いたような……いえ、聞いていないような………
う~ん……駄目だわ。全然思い出せない。
仕方がないわね。こういう時はシャムでも見て、まずは癒やされましょう。
我ながらなんて名案!とばかりに、ベッドの上から医務室を見回してみるけれど、シャムの姿はどこにもない。
あぁ……私の癒しが………………
そんな私の心の声が駄々漏れていたのか、「シャムなら、馬車へ使いにやっただけだ。すぐに戻る」と、お兄様が心なしか、呆れを含んだ口調で教えてくれた。
本当にお兄様は抜かりがないわね…………と、思いつつ私は改めて頭を下げた。
「この度は、お兄様にもシェアト様にも大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。もう少し私が上手に対応できていればこんなことには…………」
眠りに落ちる前にも口にした謝罪の言葉を再び繰り返す。しかし、それを遮ったのは、お兄様ではなくシェアトだった。
「いや、ユーフィリナ嬢は何も悪くない。君はトゥレイス殿下が落としたハンカチーフを拾って、届けただけなのだろう?」
それはどこか事実確認をも含んでいるような響きがあり、私はしっかりと頷き返した。
「えぇ、その通りです。私はトゥレイス殿下が落とされたハンカチーフを拾って、声をかけました。でも、その時はまだトゥレイス殿下とも気づかず…………申し訳ございません」
事実だけを言葉にしてみるけれど、何をどう口にしたところで言い訳めいて聞こえてしまう。
シェアトから受け取ったハンカチーフへと視線を落としながら押し黙ってしまった私に、「やはり君は何も悪くない」と、シェアトは断言してから、お兄様へと視線を向けた。
そのシェアトからの視線を受けたお兄様は小さく頷き、私の傍へと寄ってくる。そして、やはりどこかに感情を置き忘れてしまったかような口調で、「ユーフィリナ、話がある」と告げた。
お兄様……一体どうしたの?
私の中で芽生えた疑問はそのまま不安へと形を変える。
こういう時のお兄様はいつだって、一人では抱えきれないほどの膨大な感情を、無理矢理押さえ込んでいるような気がするのだ。しかしそれを、無表情という仮面で隠してしまうから、私はいつだって泣きたくなってしまう。
泣きたくても泣けないお兄様の代わりに………………
今もまた、私はそんなお兄様の閉ざされた感情を少しでも見つけ出そうと、食い入るように見つめ返してみるけれど、結局何も感じ取れないままに、「私も聞きたいことがあります」とだけ口にした。
医務室の窓にかけられた乾燥中の薬草が、カサカサと音を立てて揺れる。
私はその薬草を見つめ、さらにはその向こうで西の空をオレンジ色へと焦がし始めた落陽に目を細めて、私はベッドから抜け出した。
お兄様とシェアトはそのままでいいと言ってくれたけれど、どこも具合が悪くないのに自分だけがベッドの上にいるのは、とても気が引ける上に、居心地が悪い。
しかし、この世界は何と言っても紳士淑女の世界。
前世のように、えい、やーと勢いよく跳ね起きるわけにもいかない。いや、さすがに前世でもそんな起き方はしないだろうけれど、ここまでの慎ましやかさを求められることもない(たぶん………)。
しかし今世の私は公爵令嬢。淑女の中の淑女であるべき存在だ。
そんな私のために、正真正銘の紳士であるお兄様とシェアトは一旦医務室を出ていき、私は急いで身だしなみを整え直した。
とはいっても、シャムはとても丁寧に私を寝かしつけてくれたらしく、制服にはほとんど皺もなければ乱れもない。やることといえば、胸元を飾る大ぶりのシルクのリボンを綺麗に結び直し、ブラシも櫛もないので手櫛で軽く髪を梳き直したくらいだ。
そして改めてお兄様たちへと声をかけると、そこには使いから戻ったらしいシャムもいた。
忽ち私の顔は癒しでふにゃりと緩んでしまう。それはもう蕩けたチョコレートのように………
お兄様の視線がチクチクと突き刺さってくるけれど、シャムが目の前にいればもはや痛くも痒くもない。
今や癒しパワーで最強となった私は、お兄様からの無言の視線攻撃を物ともせず、早速シャムへと声をかけた。
「シャム、お使いから戻ったのね。さっきは私をここまで運んでくれてありがとう」
正直に言うと、シャムが言葉を返すのはお兄様だけかもしれないという不安はあった。しかしそれは杞憂だったようで…………
「ユフィは軽いから全然問題ないにゃ。それよりセイリオスはやっぱりウサギ使いが荒いにゃ。ユフィ、お願いだからセイリオスをちゃんと躾けるにゃ」
と、お兄様への文句やら、私へのお願いやら、もう悶えるしかないような台詞を可愛らしい男の子の声で返してきた。
そこへ無言から一転、お兄様が口を挟む。
「シャム、ユフィと呼ぶな。そしてユフィに私の躾を頼むな。そんなに躾がご希望なら、まず私がお前を躾てやろう」
「そんなものいらないにゃ。それに躾が必要なのはセイリオスにゃ。ユーフィリナよりもユフィのほうが可愛いから、ユフィと呼ぶにゃ」
ちょっとした反抗期の子供のようにシャムはお兄様にそう言い返すと、そのまま私を盾にして隠れてしまった。もちろん私よりも身体が大きいため、ほとんど隠れてはいなかったけれど…………
そんなシャムに私は苦笑となり、シェアトは「なんて命知らずな…………」と、呟いている。
しかしお兄様は、一人と一匹(?)に対し、じとりとした視線を向けただけで、すぐにやれやれとばかりにため息を吐いた。どうやらこれ以上の反撃をする気はらしい。
「この話はまた今度だ。今は時間がない。シャムは一旦戻って休んでおけ」
「うぅぅぅ~セイリオスはまたシャムをこき使う気にゃ」
「シャム!」
お兄様の声に、脱兎の如く医務室から逃げ出したシャム。その光景に私は思わずクスクスと笑ってしまった。
実のところ、お兄様とシャムはどういった関係なのだろう―――――と、とても不思議に思うけれど、時間がないというお兄様の言葉は本当だったようで、「さぁユーフィリナ、こちらに」と、有無を言わせず、医務室に備え付けられている椅子に座らされてしまう。
そして、お兄様自身はいつかのシェアトのように窓際に立ち、すぐに話を始めた。
「まずは、お前が聞きたいだろうことからだ。あの後、スハイル殿下たちが駆けつけ、一連のことを話しておいた。そしてシェアト殿の“言霊”の能力で一時的に教室に閉じ込めた生徒たちの記憶も、サルガス殿の“忘却”の能力で、トゥレイス殿下とお前のことだけ消した。つまり、トゥレイス殿下がお前に求婚したことは誰の記憶にも残っていない。我々とトゥレイス殿下と傍にいた護衛騎士以外にはな」
「はい………大変ご面倒をおかけしました」
再度頭を下げた私に「そのことはいい」とだけ告げて、お兄様は先を続けた。
「それから、非常に面倒なスハイル殿下がお前を見舞いたいと言ってきかなかったが、けんもほろろに…………いや、丁重にお断りをしておいた。シェアト殿と一緒にな。ユーフィリナも、こんなところに初対面となる王弟殿下が押し掛けて来ては困るだろう?」
「えぇ、それはとても。お気遣いいただいてありがとうございます。シェアト様も、ありがとうございました」
お兄様と対面するような形で、薬品が入れられた戸棚の前に立つシェアトにも頭を下げる。
そんな私に、シェアトは軽く微笑んでみせたものの、その時の状況を思い出したのか、一瞬遠い目となりそのままげんなりと項垂れた。
このシェアトの様子から想像するに――――――――
スハイル王弟殿下はお兄様が毎回枕詞として、“厄介な”やら、“面倒な”やらを付けるように、本当に面倒な人なのだろう。乙女ゲームでの話を聞く限りそんな印象は受けなかったのだけれど、やはり実際とゲームとでは多少違ってくるのかもしれない。
この私がそうであるように………………
そんな人の御学友だなんてお兄様も大変ね――――――などと、しみじみと思いながら、お兄様に同情の目を向ける。なんせ今回は“非常に”までが付いていたのだ。
おそらくスハイル殿下から、余程の我儘をぶつけられたのだろうと、お兄様とシェアトの苦労を思って、私はとても申し訳ない気持ちとなった。
しかしその気持ちも、次に続けられたお兄様の言葉で霧散することになる。
「さて、お前が聞きたかったことはこれくらいだろうか。それでは私の話に移るが、今夜、あるご令嬢が“紅き獣”に襲われ命を落とす。そしてそれはおそらくお前が探しているご令嬢だ」
「セイリオス殿ッ!」
シェアトの声が聞こえた。それも同じ医務室にいるのにやけに遠くに。
けれど、今の私はその事を気にしている余裕はまるでない。ずっと私の頭の中で同じ言葉だけが、ぐるぐるととぐろを巻くようにして回り続けている。
今夜、あるご令嬢が“紅き獣”に襲われ命を落とす?
今夜、あるご令嬢が“紅き獣”に襲われ命を落とす?
今夜、あるご令嬢が“紅き獣”に襲われ命を落とす?
今夜………命を……………
「嘘です‼」
そんなことあるわけがない!――――――と、私はそう断言して立ち上がった。その際に座っていた椅子が倒れてしまったけれど、私は振り向きもしなかった。
私は転生者だ。そしてこの世界は、前世の知人“江野実加子”がはまりにはまっていた乙女ゲーム“魔法学園で恋と魔法とエトセトラ”であることを知っている。
そして、“紅き獣”に襲われたヒロインが癒し魔法を覚醒させ、スハイル殿下の推薦で魔法学園へ入学することも知っている。なんなら、私もゲームをしてその辺りまでは経験済みだ。
だから何があっても、ヒロインが“紅き獣”に襲われて命を落とすことはない。
さらに言えば、ヒロインこそが“紅き獣”の最初で最後の被害者となるため、他のご令嬢が命を落としてしまうこともあり得ない。
なのに…………どうしてお兄様はこれほどまでにはっきりと、こんなにも残酷な未来を言い切ってしまうのか―――――
お兄様が悪いわけでもないのに、私は理不尽な憤りすら覚えてしまう。
「ユーフィリナ嬢、落ち着いて!」
やはりどこか遠くに聞こえるシェアトの声。
私はその声を振り払うようにして、気が付けばお兄様に詰め寄っていた。
「どうして、そのようなことが言い切れるのです?どうして、命を落とすなどと………」
「国王陛下が“先見”の能力でご覧になられた。この意味はわかるな?」
そのお兄様の言葉で、私の勢いは忽ち削がれてしまう。
「先……見…………そんな………………」
「そうだ。この未来だけは、何があっても覆ることはない」
先見の能力――――――――
これから起こる絶対的な未来を見る能力。
そのため、先見によって見られた未来は、どれほど願い祈ろうとも、どれほど回避するべく手を尽くそうとも、決して覆ることはない。
でも……そんなことって…………“紅き獣”がヒロインを殺してしまうだなんて、そんなことがあっていいはずがない。
思わずよろけた私の身体を、お兄様の手がしっかりと支えてくれる。
こんなにも温かくて、力強くて、最強の魔法使いでもあるのに、そんなお兄様でさえ彼女を救えないの?
私は縋るような気持ちでお兄様のアメジストの瞳を見つめた。その瞳に私だけが映り込んでいる。
わかってる。先見は絶対だって…………お兄様でも無理なことくらいわかってる。
だからこそお兄様は、私にこのことを告げるために、ずっと感情を押し殺していたことも、話を聞いた今ならわかる。
それでもなお、私の心は何か手立てはないのかと、お兄様の瞳に問いかけてしまう。けれど――――――
「ユフィ、無理だ。諦めなさい」
諭すようにお兄様は殊更優しく告げた。そして私を支えたままでゆっくりと歩を進めると、私が倒した椅子を起こし、また私をそこに座らせた。それから今度は床に片膝を付き、小刻みに震える私の手を握りしめながら、私を見上げるようにして話しかけてくる。
「今後、王家と公爵四家でトゥレイス殿下からお前を守ることもあり、先程シェアト殿と情報共有をしたのだ。その際に、お前も“紅き獣”と同じご令嬢を探していることを聞いた。昨日、馬車の中で話してくれた癒し魔法に特化したご令嬢のことだな?何も肝心なことを隠していたと責めているわけではない。それに、あの時のお前の言葉に嘘はなかったと思う。だからそのことはもういい。そして、お前がそのご令嬢を探そうと思い至った真の理由についても、今は聞くまい。とても説明できる状態ではなさそうだからな。だが、これだけは覚えておきなさい。私がこのことを事後報告ではなく先に告げたのは、お前にこの未来を受け止める時間を与えるためだ。決して苦しめるためではない。誰かの死は悲しい。それが探していた人なら、親しき人なら、愛した人なら…………尚更の事だ。しかし、悲しむばかりで目を涙で曇らせてはいけない。その先にも未来は続いているのだから、ちゃんと前を向いて生きていくべきだ。だからユフィ、自分の心をしっかりと持ちなさい。私はいつでもお前を愛しているよ」
そう告げてお兄様は立ち上がると、ずっと握ったままでいた私の手を優しく引いた。
私の身体は傾き、座ったままの状態でお兄様へともたれ掛かる形となる。
そして、大丈夫、大丈夫とでも言うように、お兄様が私の頭を撫でてくれる。
またお兄様は、私を子供扱いして…………
混乱の中でふとその言葉だけが浮かび上がり、すぐに混乱の渦の中へ呑み込まれていった。
どうすればいいのかわからない。
答えがどこにあるのかもわからない。
何が正くして、何が誤りなのかもわからない。
私は……私は………どこかで間違えたの?
ヒロインを殺してしまうような過ちをしたの?
私が………完全な悪役令嬢になれなかったから?
引き立て役令嬢なんてものを……目指してしまったから?
だからヒロインは……死んでしまうの?
医務室にはシェアトもいる。
こんなみっともない姿を見せていいわけもない。
けれど、今だけはと………すべてを見失った私は、お兄様の温もりだけを心のよすがにした。




