挿話【Side:シェアト】夢のような少女(4)
我が東の公爵家が“言霊”の能力を持つように、それぞれの公爵家、そして王家は特別な能力を有している。
西の公爵家なら“忘却”、南の公爵家なら“幻惑”、北の公爵家なら“読心”、そして王家ならば“先見”――――――
それぞれが違う特殊な能力を持つことで、他国では類を見ないほど、我が国の王家と公爵家は結束力が強い。
そのため、有事の際には現能力者は必ず呼ばれ、全力で事に当たることとなる。
実際、先日催されたスハイル殿下帰国祝いの夜会もまたそうであった。
表向きの理由は、もちろん帰国祝いと婚約者候補のお披露目会という、スハイル殿下にとってはまったくもって有難くないものだったらしいが、裏向きの理由としては、我々に新たな任務を伝えるためでもあった。
デオテラ神聖国が召喚した聖獣“紅き獣”の確保と、デオテラ神聖国第二王子であるトゥレイス殿下に対して穏便にご帰国いただくこと――――――――それが我々の任務だ。
言い換えれば、これ以上“紅き獣”の被害を出すな、ということなのだが、実のところ“紅き獣”の目撃情報はあるものの、被害と呼べるものはほとんど報告されていない。驚いた拍子に尻もちをついてしまったとかその程度のことだ。
しかし、スハイル殿下ははっきりと命じた。
『もうこれ以上、誰の命を奪わせるわけにはいかない。早急に対処するのだ!』
そう、王家の能力は“先見”。その現能力者は国王陛下。
国王陛下は見たのだ。
“紅き獣”によってうら若きご令嬢の命が奪われる様を。
そして、“先見”の能力で見た未来は、何があっても覆らない。それが定められし運命。
だからこそ我々は、これ以上の被害が出ないように、“紅き獣”を確保しなければならない。
本物の“神の娘”の生まれ変わりである彼女を守るためにも――――――――――
医務室でユーフィリナ嬢の話を聞いた時、私はまさか彼女が“紅き獣”の被害者となるご令嬢を探しているなどと夢にも思わなかった。
ケチャップ家のトマト嬢という少々風変わりな名前のご令嬢(ユーフィリナ嬢の記憶違いであるらしいが)にしても、一年生の女子生徒の中で癒し魔法に特化しているご令嬢にしても、ましてやスハイル王弟殿下のご推薦で入学したというご令嬢にしても、すべてが“紅き獣”の被害者となるご令嬢だとは結びつきもしなかった。
それどころか、もし本当にスハイル殿下がご推薦されるほど、特別に想われているご令嬢がいるのだとしたら、それは間違いなくユーフィリナ嬢となるだろう――――――などと、無用な悋気を起こしてしまったくらいだ。
彼女が『紅き…獣は……まだ……………』と、呟くまでは。
今から思えば、この時の私の浮かれ具合は相当なものだったのだろう。いや、その浮かれぶりは多少今も継続中だが、この日の私は天にも昇る気持ちでいた。もしかしたら、今もやはり天に昇っている最中であることは否めないが、とにかくこの日は酷いものだった。
だが、それも致し方あるまい。約十年間、探しに探し求めた少女が目の前にいて、他の誰でもなく自分を頼ってくれた。だからこそ私にもその姿が見えたのだと思えば、浮かれない方がどうかしている。
その中での、この彼女の呟き。
浮かれた頭に鈍器が振り落とされたかのような衝撃があった。
しかしそれは、私にユーフィリナ嬢こそが“神の娘”であると確信を深めさせるには十分であり、同時に何故彼女は“紅き獣”の存在を知り得えたのか、さらにはその被害者となるご令嬢を、何故ここまで必死に探す必要があるのかという疑問が湧いた。
その疑問を解消すべく、私は思わずユーフィリナ嬢との距離を詰めてしまったが、その疑問の解消までは至らなかった。
なぜなら、この医務室の癒しであるウサギ型魔獣のシャムが、闇の神、魔王も斯くやのセイリオス殿を連れてきたからだ。
この場合、癒しが恐怖を連れてきた――――――というより、恐怖が癒しを従えてやって来た――――――といったほうが正しいところではあるのだが。
今でこそ言うが、私……生きて帰れるだろうか?と、思ったのは大げさな話でもなんでもない。それほどの恐怖がそこにはあった。
できれば二度とご対面したくないほどの………………
だが、この時の私はよく頑張ったと思う。
禍々しいほどのオーラを背負ったセイリオス殿の圧にも屈することなく、少々回りくどい言い方ではあったが、ユーフィリナ嬢に対するこれからの自分の立ち振る舞いについて告げることができたのだから。
まぁ、それなりの反撃も喰らったが………
そして、ついでとばかりにしっかりと釘も刺された。
『ところでシェアト殿、ユーフィリナを見ておわかりいただけたとは思うが、ユーフィリナは君が探す“彼の君”ではない。スハイル殿下のように無駄な期待は抱かない方が君のためだ』
――――――――などと。
しかし、これには正直笑ってしまった。
出会ってしまったからこそわかる。どんなに髪色や瞳の色を変えたからといって、そうそう誤魔化されるものではない。
おそらくスハイル殿下も一目見れば、ユーフィリナ嬢こそが自分の探していた少女だとすぐにわかるだろう。
それを知っているがゆえに、スハイル殿下に一度として会わそうともせず、こんな大仰な“幻惑”まで仕掛けてユーフィリナ嬢を守っているのだ。この超シスコンのセイリオス殿は。
おそらくあの夜会の日だって、もしユーフィリナ嬢が怪我で欠席とならなければ、強力な“幻惑”で彼女を守っていたはずだ。
たとえば、周りの目にはまったくの別人に見える“幻惑”を施すなりして――――――
むしろそうすることで、スハイル殿下の想いを完全に封じ込めることができたかもしれない。だが神は、私たちに味方した(絶賛行方不明中ではあるが)。
だからこの釘ももはや役には立たない。それどころかやぶ蛇だ。
セイリオス殿には、『スハイル殿下が持つ期待と、まったく同じものを抱くようになりました』などと、飄々と答えたが、もう期待ではない。確信している。
そのため、もうすでに手遅れなんですよ―――――――と、内心で付け添えた。
おそらく誰よりも鋭いセイリオス殿なら気づいているだろう。
やはりこれが、セイリオス殿への宣戦布告だったということに。
その日の夜、私は興奮と不安の中にいた。
去り際に見せた彼女のはにかむような笑顔と、親し気に小さく手を振ってくれたあの姿。
できれば私の記憶からその映像を取り出し、一幅の絵にしたいものだと私室の壁をうっとりと眺めてしまったほどだ。
しかし次の瞬間、果たして明日、私の“言霊”はしっかりと機能してくれるのか――――と、忽ち不安に襲われ頭を抱え込む。
それを目撃した執事が、当家お抱えの呪術師を連れてきたが、もちろんこれは“恋の病”であって、呪術師がどうこうできるものでもない。
したがって、心配してくれことに感謝の意だけ伝え、早々にお帰り願った。
そしてまた、ユーフィリナ嬢だけで私のすべてを埋め尽くす。
『白金の髪で空色の彼女もそれはそれは愛らしかったが、淡紫のライラックの髪とエメラルドの瞳を持つ彼女もまた麗しかった。いや…………ユーフィリナ嬢はどんな色合いだってきっと似合う。しかし、笑顔だけはまったく変わらないな。あの笑顔を向けられれば、誰だって簡単に魅了されてしまう。うん、危険だ。セイリオス殿が隠していた意味がよくわかる。できれば私も彼女を隠しておきたい。私の腕の中で永遠に…………いや、その前に先ずは彼女を“紅き獣”から守らなければならない。すべてはそれからだ』
私は決して独り言の多いタイプではない。むしろ“言霊”の能力者として自制している分、かなり少ない方だと思う。
それがユーフィリナ嬢のこととなると、何かの箍が外れたかのように、ブツブツと呟いてしまう。これではまた呪術師を呼ばれかねない。自重しなくては……と、緩みっぱなしの己を引き締め直す。が、そうは反省するものの、彼女への想いが溢れ出すように、いつの間にやら私の口から思考が駄々漏れる。
『それにしても、セイリオス殿は何故彼女をまったくの別人にしてしまわなかったのだろうか。そうすれば、私に確信を持たれることもなかっただろうに、こんな大掛かりな“幻惑”を仕込むくらいなら………………』
そこまで考えて、あぁそういうことか――――と、思い至る。
スハイル殿下も言っていた。セイリオス殿はユーフィリナ嬢が困るようなことはしないと。
つまり、今の彼女が生まれた時から今の髪色であり、瞳の色だと信じるように、ユーフィリナ嬢もまたセイリオス殿の“幻惑”の影響を強く受けている。そんな状態で別人に見える“幻惑”を施せば、彼女は自分の造形すら知らず、毎日を過ごすことになる。それはあまりに忍びないと、セイリオス殿は色合いだけを変えることにしたのだろう。
『確か、セイリオス殿の顕現は三歳の時だと聞くから…………ユーフィリナ嬢が生れる前か、その直後。ユーフィリナ嬢が生まれた時からこの色合いだと言うのは、そういうことなのだろう。しかし、三歳で顕現し、ユーフィリナ嬢を“神の娘”の生まれ変わりであると察するなど、セイリオス殿の知能は一体どうなっているのだ?ちょっと……いやかなり、恐ろしすぎるだろう』
どれだけ敏い三歳児なんだと全身の肌が粟立つ。
そんな三歳児がもし大人になったら――――――『あぁなるのか…………』と、その完成形を思い出し、ガクンと項垂れた。
しかし今は、セイリオス殿のことでない。ユーフィリナ嬢のことだとあっさり思考を切り替える。
『ユーフィリナ嬢は“紅き獣”のことを知っていた。セイリオス殿が話したとはとても思えないから、おそらく広がりつつある噂を、どこかで耳にしたのだろう。だが、それでも腑に落ちないことがある。なぜ彼女は“紅き獣”の被害者となるご令嬢を探そうとしているのか………それもスハイル殿下のご推薦のご令嬢とまで断言していた。どうしてそう思ったのか………とにかく明日、聞いてみないことには何もわからないな』
そう結論を出したはいいが、またもや振り出しに戻る。
『話を聞く以前に、そもそも私はユーフィリナ嬢に会えるのだろうか…………私の“言霊”は彼女を私へと導いてくれるのだろうか…………あぁ……不安でしかない』
こうして私の夜は悶々と更けていった。
翌朝、私は歓喜の中にいた。
私の昨夜の不安はすべて杞憂に終わり、ユーフィリナ嬢は私を見かけるや否や、真っすぐに私のところまで来て声をかけてくれたのだ。
その際に、昨日同様飛び上がってしまったのは、私の心臓がまだ彼女の愛らしさと美しさに一向に慣れないせいであり、決して彼女の突然の出現に驚いたからではない。そこだけは断固として主張だ。
しかし昨日もそうだったが、私にユーフィリナ嬢が話しかけたことにより、クラス全員がユーフィリナ嬢を一時的に視覚できるようになったらしく、至極当然のこととはいえ非常に騒がしい。いや、正確に言えば騒がしいのは女子生徒たちだけで、男子生徒たちはユーフィリナ嬢の可憐な天使の如き笑顔に、皆して顔を真っ赤に染めた石像と化している。
はっきり言って面白くない。不本意ながらセイリオス殿の気持ちがこれまたよくわかる。
気持ち的には、今すぐにでもユーフィリナ嬢を教室から連れ出し、ゆっくりと“紅き獣”の話を聞きたいところではあるが………間違っても、ただただ彼女をひたすら眺めて愛でていたいなどと、そんなことは微塵も…………いや、そんな気持ちも多少あるにはあるが、それをここで実行へ移せば教室内にさらなる混乱を生む。
それだけは是が非でも避けねばならない。
よし!話は昼食の時だ!と、私は決めた。
そして待ちに待ったランチタイム。私は朝同様、歓喜の中にいた。
あれほど要らないと思い続けてきた“言霊”の能力だったが、事ユーフィリナ嬢に関して言えば、“言霊”の能力万歳だ。
だが、それよりも今はセイリオス殿の徹底ぶりに、もう恐れを通り越して呆れるしかない。
ユーフィリナ嬢自身に“幻惑”を施すだけでなく、さらには食堂の一角に周囲からは見えないエリアを作り出し、ユーフィリナ嬢の昼食時の安全を確保するとは、その過保護っぷりたるやどれだけだ!という話だ。
冗談でも何でもなく、この学園全体がセイリオス殿の“幻惑”の中にあるのかもしれない。
しかし、このユーフィリナ嬢の前では、もうそんなことさえ些末事に思える。むしろ、それをして然るべきだとも――――――
それ故に、どうにも気持ちが抑えきれず、告白めいたことを口走ってしまったが、どうやらユーフィリナ嬢は想像以上に鈍感だったらしい。
まぁ、だからこそセイリオス殿が作り出したこの摩訶不思議な状況を、ここまであっさりと受け入れられているわけで、ある意味大いに納得はできた。そう、納得はできたものの、これは手強すぎるだろう…………と、若干気が遠くなったことは否めない。
しかし、それも一瞬のこと。そこからの時間は、ただただ至極の時間だった。
どれほどの言葉を並べたところで、美味しそうに食べる彼女の可愛らしさは表現し切れるものではなく(私の語彙力のせいもあるが)、彼女自身をこのまま食べてしまいたいと思ったことは嘘ではない。
その彼女の柔らそうな唇を今すぐ奪って、彼女の呼吸ごと貪り尽してしまいたいと、そう何度も……何度も…………
しかし我慢した。当然だ。私は紳士であって、獣ではない。
そんなことをすれば直ちに消される。誰にって、もちろんセイリオス殿にだ。
私は、レディが食べる姿を眺めていることこそ紳士失格だと理解しつつも、彼女の愛らしい姿からどうしても目を逸らすことはできなかった。
そして彼女を愛でるという至福の時を終え、ようやく本来の目的である“紅き獣”の話へと入る。
ユーフィリナ嬢は“紅き獣”が聖獣だったことを知らなかったようで、どうやらすべてを把握しているわけではないらしい。
だが、その曖昧な表情を見るに、何かを隠していることもまた確からしく、私は深く詮索することを止めた。
そもそもレディの秘密を暴く趣味など持ち合わせてはいない。
ただこれも、私の勝手な想像にすぎないのだが、おそらくユーフィリナ嬢は“紅き獣”の存在を偶然知り、深層心理とも言うべき“神の娘”の意識によって、自分が狙われていることを漠然と察したのだろう。
けれど、今の自分の色合いは“神の娘”の色合いとは違う。そのせいで“神の娘”の色合いと酷似しているご令嬢が狙われると考えた。
そこでユーフィリナ嬢は、自分の身代わりで“紅き獣”から狙わることになったご令嬢の安否確認をしようとしたのではないだろうか。
一年の女子生徒と限定したのは、自分が一年であるがゆえ。そして何より、“神の娘”の生まれ変わりが誕生したことを察知したがゆえの捜索だとしたら、自分の年を知られていてもおかしくないと踏んだからに違いない。
癒し魔法に特化したご令嬢については――――“神の娘”はありとあらゆる怪我や病気を一瞬で治せたらしい―――――という言い伝えに因んだものだということは言うまでもない。
スハイル殿下ご推薦の件については正直さっぱりわからないが、強いてそれなりの理由を述べるとするならば、そのご令嬢を“紅き獣”から守るために、スハイル殿下なら王城の次に堅固な守りが敷かれている学園で保護するのではないか――――と、ユーフィリナ嬢は考えたのかもしれない。
うん、誰よりも慈愛に溢れている彼女のことだ。きっとそういうことだろうと、私は結論付ける。
そして、“紅き獣”が探している“神の娘”の生まれ変わりと思われる少女に、何か共通する特徴はあるのかと、改めて尋ねてきたユーフィリナ嬢に対し、私は一つずつ答えていきながら自分の推察に確信を深めた。
あぁ……まさに彼女が探していたご令嬢の特徴にぴったりだ―――――と。
しかしすぐに、不安へと囚われる。
もしかしたら、その身代わりとなるご令嬢を守るために、我が身を差し出そうと考えるのではないかと。
そしてそれを懸念しているのは、私だけでなくセイリオス殿も同じではないかと。
何しろ、そのご令嬢は“紅き獣”によって命が奪われてしまうのだ。
“先見”の能力でその光景が見られてしまった以上、いくらユーフィリナ嬢がその身を差し出そうとも、その未来を覆すことはできない。
だからこそ、私もこの事実だけはユーフィリナ嬢に伏せた。
彼女がそれを知れば、ただ悲しむだけではなく、これ以上の被害はもう出させないと、“紅き獣”を放った張本人であるデオテラ神聖国の第二王子、トゥレイス殿下に、自分が目的の“神の娘”の生まれ変わりだと宣言しかねないからだ。
急に叫び出したあの日の少女の突飛な行動からも、そして昨日、私の腕を突然掴み医務室へと連れて行こうとしたユーフィリナ嬢の行動からも、それは容易に想像できてしまう。
彼女ならばやりかねないと………………
案の定、私が危惧した通り、セイリオス殿は何があってもユーフィリナ嬢からトゥレイス殿下には話しかけるなと約束させていた。
もちろん私もそれに便乗し、ユーフィリナ嬢と約束をする。
だいたい、せっかくセイリオス殿が“幻惑”の能力でユーフィリナ嬢をあらゆる目から隠しているというのに、わざわざ自分から姿を曝しに行っては元も子もない。
それだけは何があっても回避だ。
ただその際に、これから度々ここで昼食を一緒にするという約束をも取り付けたのは、我ながら必死すぎるとも思ったが、実際必死なので仕方がない。
こうして僅かな不安を残しつつも、それを上回る安堵と歓喜の中で終えた昼食だったのだが、この世界の神はやはり相当質が悪いらしい。
それは、現在この学園の生徒会長を務めるサルガス殿に呼ばれて、生徒会室から戻る途中だった。
常々サルガス殿は何かと理由つけて私を呼び出し、次期生徒会長になるようにと薦めてくる。
もちろんその推薦の理由も、わからないわけではない。
基本的に生徒会長は、高爵位の者がなると暗黙の了解で決まっている。そのため、現在三年生であるサルガス殿が卒業してしまえば、私とユーフィリナ嬢、そしてサルガス殿の妹君であるシャウラ嬢がこの学園における高爵位者となるのだが、ユーフィリナ嬢が抱える諸々の事情はさておくにしても、女性ではなく男性が生徒会長になることもこれまた暗黙の了解で決まっている。
つまり、どう転んでも次期生徒会長は私となるわけだが、自分の“言霊”の能力を思えば、おいそれとは首を縦には振れない。
今は制御できているとはいえ、周りの人間に余計な不安や疑心を抱かせたくはないからだ。
したがって、『しっかり考えます』とだけ返し、今日もまた早々に引き上げて来たのだが、一年の階まで階段を上り、丁度廊下へと足を踏み入れたところで―――――――――
『風魔法!すべての鎖を噛み砕け!風牙‼』
というセイリオス殿の声とともに、魔法発動を感知した。
だが、その魔法を感知した途端、もう一つの禍々しい魔法を感知する。おそらく詠唱なしでかけられた束縛魔法だ。
それが解呪されると同時に『ユーフィリナ!』というセイリオス殿の声と、それに重なる別の声。そして続けざまに発動された守護魔法と、その刹那に繰り出された攻撃魔法。
廊下は忽ち阿鼻叫喚となる。
私は『ユーフィリナ嬢!』と叫びながら、無我夢中で廊下を駆け出した。が―――――
『シェアト!』
セイリオス殿の一声に、冷静な自分へと立ち返る。瞬間、医務室でのセイリオス殿の台詞が脳裏を過った。
“本当の忠告をしておこうか。大切なものを守りたいのであれば、今以上に魔法とその能力を磨いておくことだ。実戦は、授業で行うシュミレーションデュエルのように、決して甘くはないからな。シェアト殿”
――――――――あぁ、確かに。
そんな納得をしつつ、私はいつもなら使うことを躊躇う“言霊”を、一切の迷いなく使う。
『騒ぐな!教室に戻れ!目を閉じ、耳を塞げ!』
セイリオス殿の言うところの実戦が、こんなレベルではないことくらいわかっている。それこそ彼が言う実戦とは己の命をかけた戦いであろうことも。
だが私はこの時、実感したのだ。
大切な人を守るということがどういうことなのか。
愛する人をこの命に代えてでも守りたいと思うことがどういうことなのか。
そこに迷いも躊躇いも必要ない。
時に、自分の命だって必要に応じて差し出す。
できるだけ“言霊”の能力を使いたくないなどと、なんて陳腐な我儘だったのだろうかと自嘲しかない。
相手が他国の第二王子殿下相手にもかかわらず、一瞬の躊躇もなく魔法を発動させたセイリオス殿。
そんな彼を、安堵と不安を綯交ぜにしたような瞳で一心に見つめるユーフィリナ嬢。
セイリオス殿の覚悟に、ユーフィリナ嬢の信頼に、二人の絆に――――――――
この時私は、どうしようもなく負けた気がした。




