挿話【Side:シェアト】夢のような少女(2)
今から思えば、それはとても不思議な時間だった。
頬を滑り抜けていく風はとても心地よく、降り注ぐ陽光は柔らかい。
そして、私の隣にいる少女は、思わず目を細めてしまうほどに眩しかった。
そんな少女に、私は甘ったれた愚癡でしかない話を、ぽつりぽつりと話して聞かせた。
途中、涙声にもなったし、鼻もたくさんすすった。
今思い出してみても、みっともないことこの上ないが、少女は嫌な顔一つせず、むしろ哀しげにも見える表情で、私の話を聞いてくれた。
そして最後にただ淡く微笑んだ。
私も、気恥ずかしさから、はかむように微笑みを返す。
しかしだ。その微笑みから一転、急に何を思ったのか、少女は一歩前に足を踏み出すと、眼下の王都に向かって思いっきり叫び始めた。
『ルークスの馬鹿ぁぁぁぁぁぁ―――ッ‼』
なッ‼
度肝を抜かれるとはまさにこのことだと身を持って体験した。
だが、私の話を聞いて叫び出す意味もわからなかったが、何よりも先ず、“ルークス”って誰だ?という嫉妬にも似た感情が私の中で渦巻いた。
そしてその想いが、そのまま言葉となって出てしまう。
『ルークスって誰?』
少女は私へと振り返り、少し首を傾げながら『う~ん……わたしの生みの親……というか…………おとうさま?』と、少女の中でも明快な答えを見出せないままに答えてくれた。
どうやら少女は、とても複雑な環境で育ったらしいと子供ながらに理解する。そしてこれ以上は聞いてはいけないと、自制も働かせた。
それに相手がお父様なら…………と思いかけて、私は自分のこの感情に戸惑った。
けれど、目の前の少女は私の困惑にも気づかないままに、とても屈託なく笑って無邪気にも告げてくる。
『ほら、あなたも叫んでみて』――――と。
いやいや、無理だろうと思う。
一応私は公爵家の三男で、それなりの教育も受けてきている。人目も憚らず大声で叫ぶなど、私の受けた教育ではもっとも恥じ入る行為であるとされていた。
つまり、叫ぶなんてことはあり得ない。
しかし、邪気もなく真っすぐと私だけを見つめてくる少女の瞳に、仕方がないな………と、絆されてしまう。
もし、自分に妹がいればこんな気持ちになるのかもしれないな、などと私らしくないこと思いつつ、私は少女から誘われるままに足を一歩前へと踏み出した。そして腹の底から叫んでみる。
『約束を守らない兄上たちなんて大嫌いだぁぁぁぁぁぁ――――――ッ‼』
正直に言うと、とても気持ちがよかった。
私の表情からそれを察したらしい少女は、ここにきてようやく『あなたのお名前は?』と聞いてきた。
『シェアト…………』とだけ名乗り、家名は敢えて伏せる。そして私も少女の名前を聞こうと口を開きかけた瞬間、少女はまたもや叫んだ。
『こんなに可愛いシェアトとの約束を破るなんて、最低だぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――ッ‼』
いやいやいや、可愛いのは私ではなくて君の方だから!
そして兄上たちは決して最低ではないから!
それにさっきは、“大嫌いだぁ!”などと叫んでしまったが、本当は“大好き”だから!
色々突っ込みたいところや、修正を入れたいところがあるのだが、『ほらほら、シェアトもどんどん叫ぶ』と少女が急かしてくるためそれもできない。けれど――――――――
私の能力が一切効かない不思議な少女。
天使のような容姿でありながら、自由に叫び出してしまうような天真爛漫すぎる少女。
出会った瞬間から、私の心を揺さぶり続ける美しくも愛くるしい少女。
そんな少女の笑顔と強引さに負けたのだと勝手な言い訳をして、私は心の箍を自ら外した。
『いつもいつも私一人を置いていくなぁぁぁぁぁ――――ッ!』
『乗馬も、魔法も、絵もちゃんと見せたかったんだぁぁぁぁぁ――――ッ!』
『兄上たちのようになりたくて私は頑張ったんだぁぁぁぁぁ――――ッ!』
『頭を撫でるだけでなく、私の話を聞いてほしかったんだぁぁぁぁぁ――――ッ!』
『私はこんな能力なんてほしくなかったぁぁぁぁぁ――――――――ッ!』
最後にそう叫んだ時、私の心が空っぽになったかような錯覚を覚えた。
いや、実際に空っぽとなったのだろう。
痛みすら覚えるほどに重かった心が、今は爽やかな清々しささえ伴って、羽でも生えたかのように軽い。
そして、どういう原理なのかはさっぱりわからなかったが、最後に叫んだ言葉には力が宿っていないことだけは実感できた。
そう、私の“言霊”の能力の暴走は止まったのだと――――――――
『君は………………』
私はこの気持ちをどう伝えればいいのかと、空っぽになった自分の心を覗き込みながら途方に暮れる。
しかし、その言葉を見つけ出す前に、少女は最後の締めくくりとばかりに満面の笑みで叫んだ。
『やっぱりルークスは大馬鹿者だぁぁぁぁぁぁ―――――――――ッ‼』
この少女にここまで馬鹿呼ばわりされる父親って、一体どれほどの放蕩者なのだろうかと、またしても少女の家庭環境に多少の不安を覚えるが、この弾けんばかりの眩しい笑みを見る限り大丈夫なのだろうと、自分を納得させる。
そんな私の両手を掴むと、少女は嬉しそうにクルクルと回り始めた。
それはお世辞にもダンスと呼べるような代物ではなかったし、ただただ目が回るだけのものだったけれど、私も少女も笑顔で草の上を一緒に回り続けた。そして案の定、目が回ってしまった私たちは、手を繋いだまま草の上へと転がり込むようにしてひっくり返った。
しかし、またその状況が楽しくて、私たちは声を上げて笑う。
何がそんなに楽しいのかと聞かれても、おそらく答えなんてものはない。
楽しいから楽しい。おかしいから笑ってしまう。ただそれだけのことが、とても幸せに感じられた。
このままこの少女の温かい手を放したくないと思ってしまうほどに………………
暫くして、私たちの笑い声は舞い上がる風の中に溶けて消えた。
そして、視界いっぱいに広がった空を見上げながら、私の隣で同じように転がっている少女の瞳を思った。
この空よりもずっとずっと綺麗だったな…………と。
そう思えば、無性に少女の瞳が見たくなった。
それどころか、その瞳に囚われてしまいたいとすら思った。
その誘惑に抗いきれず、私は少女を見つめるために横を向く。と同時に、少女の口が開いた。
『シェアトの心はとても柔らくて、大きいのね。だからあれほどたくさんの言葉が詰まっていたんだわ』
少女の言いたいことがわからなくて、私は返す言葉もなく、ただぼんやりとその横顔を見つめていた。
横顔さえも美しいと思ったのは、生まれて初めての事だった。
『本当は伝えたいのに、相手のことを考えて伝えられなかった言葉たち。それは、シェアトの優しさがたくさん詰まった言葉だったのね。けれど、たくさんたくさん心に詰まりすぎて、苦しくなって、抱え込めなくなって、その想いをそのまま言葉に乗せてしまったんだわ。“言霊”として』
『違う!私はそんな………………』
そんな優しさなんてなかった。なかったと思う。兄たちを困らせたくないとは思ったけれど、それは嫌われたくなかったからだ。
しかし、そんな私の言葉を封じるかのように、少女が私へと視線を向けた。
あぁ…………やっぱり頭上の空なんかよりもずっと綺麗だ………と、少女の瞳を見て思う。
『シェアトの言葉は優しくて、真っすぐで、ちゃんと体温があって、想いもたくさん詰まっている…………だからこんなにも重くて苦しかったのよ。でも今、ぜ~んぶ吐き出したわ。だから、また一から言葉を集めていけばいい。今度は心に溜め込むだけの言葉ではなく、相手に伝えるための言葉をね』
『相手に伝えるための……言葉…………』
『えぇ、そうよ』
少女はそう言って笑うと、ゆっくりと身体を起こし、独り言のように呟いた。
『あの子が起きる前に戻らなきゃ…………』
その言葉に、私も跳ね起きた。繋いだ手を握り直し、少女に問いかける。
『帰っちゃうの?』
少女は困ったように眉尻を下げた。
そんな顔をさせたくないのに……………と思う反面、このまま“言霊”の能力で、少女を自分に縛り付けてしまおうかとも考える。
しかし、少女には“言霊”の能力が効かないことを思い出し、私はその馬鹿な考えを自分の愚かさとともに、即座に切り捨てた。
でも、この手だけはまだ放したくないと僅かに力を込めた時、聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。馬が地を蹴る音とともに。
『兄上!』
咄嗟に振り返りそう声を上げると、『お迎えが来たみたいね』と少女が優しげに言った。
そして二人一緒に立ち上がる。
あぁ、そうだ。別れる前に彼女の名前を聞いておかなければ――――――と、再び少女へと視線を戻す。いや、戻そうとした。
その刹那―――――――
一陣の風が、唸り声を上げながら、二人の間を突き抜けていった。
目を開けていることも、真っすぐ立っていることもままならない状況。自然と二人の手が放れ、私は『あっ、待って』と閉じられた視界の向こうへと声をかけていた。
けれど――――――
『シェアト、またね…………』
そう聞こえたのは、果たして本当に少女の声だったのか、それとも風の悪戯だったのか。
今ではもうわからない。
そして次に目を開けた時、少女の姿はもうどこにもなかった。
この日から私の能力の暴走はなくなった。
しかし、兄たちではなく自分が能力を顕現させてしまったことへの負い目。
一時でも兄たちを操ってしまったという気まずさ。
兄たちはまったくと言っていいほど気にしていないようだったが、私の中では年を重ねるごとに、そのわだかまりは色濃くなっていくように思われた。
そんな兄たちへの贖罪からくるものなのか、もしくは“言霊”の能力者としての自己抑制なのか、私は感情の揺れ幅が非常に少ない人間となっていた。
“言霊”の能力者であるがゆえに、言葉を発することにも慎重となる。
もちろん今では、自分の意思でこの能力を制御できるようにもなり、不特定多数の中から特定の人物のみにこの能力を使うことも可能だ。
それでも言葉の重みを知るからこそ、私は迂闊に言葉を武器として使いたくはなかった。そしてまた、心に言葉を溜め込まないためにも、感情を希薄にしたといってもいい。
けれど、私の心には未だ冷めない熱がある。
いつかは伝えたいと心の奥に仕舞い続けている言葉もある。
あの日から、私があの少女に恋い焦がれない日は一日たりとしてなかった。
そんな私に転機と呼べるものが訪れたのは、スハイル王弟殿下の帰国を祝う夜会でのことだ。
指定された時間にサルガス殿と、スハイル殿下専用の控えの間へ向かう。
スハイル殿下と、その御学友であるセイリオス殿とレグルス殿は、早々に控えの間へと引き上げたらしいが、私とサルガス殿はそういうわけにもいかず、ギリギリまでご令嬢方の環視の中にいた。というより、完全に獲物と化していた。もちろん、私とサルガス殿が、だ。
そのため、正直疲弊もしているし、恨めしくも思ったが、顔には一切出さない。
そして、何故かスハイル殿下からは、いつも以上の歓迎ぶりで迎えられ、秘蔵の高級ワインまで用意されたのだが、もはや嫌な予感しかしない。
そもそも、この顔ぶれが集められたのは、それぞれの能力を使わなければならないような、ろくでもない案件か、面倒な案件が持ち上がったからだと相場が決まっている。
とはいえ、この歓迎ぶりは解せない。
私達がここへ来るまでに何かあったのだろうか?と、少なからず勘ぐってしまう。
だが、所詮それも詮無きことだ。
私たちが能力者である以上、舞い込んでくるものは常に厄介事だけ。
如何なる高級ワインでもてなされようと、素直にこれを歓迎の証と受け取るほうがどうかしている。
コポコポとグラスに注がれていく高級ワインを眉一つ動かさず眺めながら、なんだかいつにも増して毒々しいな………と、私は諦観の境地となっていた。
しかしそう感じたのは、何も私だけではなかったらしい。
『夜会へと招待され、さらには控えの間にまで招かれ、秘蔵の高級ワインをご馳走になる。これらの事実だけを見てみれば、私たちはとても歓待されているように見えなくもないが…………果たして真実はどうなのか。あぁ、恐ろしくてワイングラスを持つ手が震えそうだ』
確かにその通りだな…………とは思ったものの、セイリオス殿の態度と表情では説得力の欠片もない。
それどころか、ワインの芳醇な香りを優雅に楽しんでいる気配すらある。
さらには、『それで、一体何に対して乾杯をするのかな?』などと、その気もないくせにわざとらしく問いかけ、スハイル殿下もまたそれを承知の上で、さらりと返す。
『ここはありていに、王家と東西南北の公爵家の揺るがぬ結束に――――でいいだろう』
まさに、紳士然とした(いや、二人は正真正銘の立派な紳士なのだが)、腹の探り合いならぬ、化かし合いだ。
だが、そんな二人の会話に割り込む者がいた。“読心”の能力者でありながら、まったく空気を読まないレグルス殿だ。
『いやいや、ここは王弟殿下の帰国祝いと、さらに今夜の夜会で、素敵な婚約者候補が見つかることを祈って――――――じゃないの?』
『レグルス――――――――ッ‼』
いつものように、レグルス殿がスハイル殿下の心の柔らかい部分を踏み抜いたらしい。
とはいえ、このやり取りもまたいつものことなので、特段驚きもない。
ただ改めて、つい先程まで獲物と化していた己の状況を納得しただけだ。
『なるほど。だから、スハイル殿下は早々に夜会の席を立たれたのですね』
そう生真面目に返したサルガス殿と同様に――――――
しかし、それにしても………と僭越ながら思うことは、国王陛下やスハイル殿下にしても、そして我が兄たちにしても、己の結婚に対して消極的すぎるだろう………ということだ。
この国の安寧を思うならば、我が国のツートップには、是非とも率先して結婚していただきたい。
我が兄たちには、後々両親の目を私から可愛い孫へと向けるためにも、一刻も早く妻を娶り、子宝に恵まれてほしい。
冗談を抜きにして、本当に明日は我が身なため、そこは切にお願いしたい…………と、そこまで迫りつつある両親からの催促と、舌なめずりしながら私(獲物)を見るご令嬢方を思い出し、身震いとともに心底思う。
そんな我が身の保身やら、日々の心の平穏やらを考えているところへ、それは唐突に来た。
『それもあるけど、一番の理由はあの会場に、お目当ての白金の君がいなかったからだろ?』
『な、な、何を言ってッ…………』
やはり空気を読まないレグルス殿の台詞。
そしてそれに慌てるスハイル殿下。
普段なら、ただただこの光景を眺め、右から左へと聞き流しているだけなのだが、この時ばかりは違った。
私は無意識にもソレを口にする。
『白金の君?』
そこからの私は、周り目にも滑稽として映るほど必死だった…………と思う。
正直なところ、あまりに必死すぎて、自分でもよく覚えていないくらいだ。
だが、感情の揺れ幅が少なく、いつ何時でもほとんど無表情である私の食い付きように、スハイル殿下は確実に驚いているようだった。
しかし、そんなことは知ったことではない。
あの日から探しに探したあの少女の手がかりが、今そこにあるかもしれないのだ。相手が王弟殿下であろうが、必死になるのは当然のことだろう。
そんな私を、はじめは怪訝な表情で見つめていたスハイル殿下だったが、私もその“白金の君”と思われる少女と会ったことがあると告げると、どうやら合点がいったらしい。
元々面倒見がいいスハイル殿下は、渋ることなく“白金の君”について話してくれた。
名前も知らない一度会ったきりの少女ではあるが、スハイル殿下も彼女をずっと探していたらしいこと。そして、今夜この夜会である可能性を一つ潰すつもりでいたことを。
しかしそれが示唆するところは、名前は知らないが、彼女はこの夜会に招待されるだけの身分にあるということに外ならない。
“ルークス”という放蕩者と思われる父親のこともあり、彼女の家庭環境を心配していた身としては、内心で安堵の息を吐く。が、すぐさま、いやいやちょっと待てよ―――――と、新たに頭を擡げた不安に内心蒼白となった。
あれ程の愛らしくて美しい少女だ。
“ルークス”という父親に、強欲で色欲にまみれたどこかの貴族へと売り飛ばされてしまった可能性も大いにある。
あぁ……なんてことだ…………
と、頭を掻きむしりたくなるが、ここは己の鉄面皮な無表情に感謝だ。
いや、いつもより若干豊かになってしまっているが、気になどしていられない。
そんな私にスハイル殿下はとても淡々とした口調で、そう思い至った理由とも言うべき持論を展開した。
『私が彼女に会ったのはこの王城で八歳の時だ。その日、王城では特別な催し事もなく、諸外国からの要人も招き入れてはいなかった。つまりだ。そんな日に登城できる者など限られてくる。東西南北の公爵家の者。それに準ずる爵位を持つ者と城勤めの者たちだけだ。しかも私が出会った少女はおそらく五、六歳だった。その年代の少女ともなればもっと絞られてくる。そして、その一人である西の公爵家ご令嬢、サルガスの妹君であるシャウラ嬢には何度か会ったことがあるので、彼女が“白金の君”ではないことはわかっている。それ以外の高位のご令嬢たちもまた然りだ。ただ一人、高位のご令嬢の中で私が一度も会ったことがないのは…………』
『殿下が、お会いしたことがないご令嬢は…………』
スハイル殿下の推察から、彼女は父親に売られたわけではなく、元々高爵位の貴族という可能性が出てきたことに、私の心は再び安堵に浮上する。
我ながら、気持ちの浮き沈みが激しすぎる。
自他とも認めるところの、感情の揺れ幅が少ないこの私がだ。
しかし今はようやく示されようとしている答えを前に、もはやそんなことは瑣末事にすぎない。
面白いように食いついた私に、スハイル殿下はふんと鼻先でぞんざいにある人物を指し示した。
『そこに不機嫌面で座っているセイリオスの妹君、ユーフィリナ嬢だ』
『……………………えっ?』
南の公爵家のご令嬢ユーフィリナ・メリーディエース嬢――――――――――
もちろん、知っている。その名前を知らないはずがない。
この国の公爵家の一つであり、現“言霊”の能力者である私が、同じ公爵家のご令嬢の名を知らないなどあろうはずもない。
いや、それよりもなにより、私の記憶違いでなければ…………いやいや、記憶違いなどと言っている時点で、相当おかしな話なのだが、ユーフィリナ嬢は学園で同じクラスだったはずだ。そして私はクラス代表をしている。
なのに………………まったくと言っていいほど顔が思い出せない。
挨拶ぐらいはたぶん…………したことはあると思う。ただ、必要以上にご令嬢には近づかないと決めていることもあり、女子生徒に対する挨拶もとても儀礼的だった自覚はある。
とはいえだ。クラス代表として、クラスの女子生徒の顔くらいは覚えている。いや、そのつもりだった。自分で言うのもなんだが、記憶力だって悪くない。なんなら、むしろいい方だと自負している。
だというのに、そのシルエットでさえも思い出せない。その声も、座っている席も、何もかもだ。
これは一体どういうことなのだ?
私は、あれほど恋焦がれた少女が自分の目の前にいることにも気づかず、毎日を過ごしていたというのか?
もしかしてこれは、あれか?
幸せの青い鳥が、実は自分の家の鳥かごの中にいました的なやつなのか?
探し求めた少女は、実は同じ教室内にいました的な?
いやいや、それはあまりに愚鈍すぎるだろう…………
あぁ……でもそれが事実なら……昨日までの私を殴ってやりたい…………
ユーフィリナ嬢………
ユーフィリナ嬢………
あぁ、ユーフィリナ嬢………
できることなら、今すぐ君に会って確かめたい!
今も尚、私の胸を焦がし続けるあの日の少女が、本当に君なのかどうかを―――――
こうして私は、まったく予想だにしない形で、ユーフィリナ嬢の名前を深く心に刻みつけることとなった。




