浜野坂 海風が吹く喫茶店
大気がすっかり冷え切ってしまった。私は、ずっと家に籠っている。こういう時は温かい緑茶やカフェオレを飲みながらゆっくり執筆するのが良い。
そうして私が過ごしていると、志保が私の前に現れて、こう言った。
「最近、コーヒーを自分で淹れるようにしてるんだ。」
そうして志保は私の前にコーヒーカップを出した。それには、香ばしい匂いの真っ黒な液体が並々と注がれている。私はそれを一口飲んだが、砂糖もミルクも入っていないブラックのコーヒーというのは飲みにくかった。台所には、志保がいつの間にか買ったのだろうか、見慣れない道具がある。コーヒーミルにポット、それからドリッパーと一式揃えられていた。志保は自分のコーヒーを注いだ後、片付けて自分の部屋に戻ってしまった。
私は、先程のコーヒーをマグカップに入れ、砂糖と牛乳を足してレンジで温め直した。緑茶の苦味は平気だが、コーヒーの苦味はどうしても苦手だ。だが、コーヒーが嫌いではなく寧ろ好きな方だ。銭湯のコーヒー牛乳やカフェオレを飲むのが子供の頃から好きだった。
コーヒー好きならブラックが飲めなければならないという風潮が何処かにあるようで私はあまりコーヒーの話はしない。人の好みや楽しみ方はそれぞれなのだから、決めつけてはならないと思う。
そんな事を考えながら執筆していると、あっという間にそのカフェオレを飲み切ってしまった。そして、次の締め切りと打ち合わせの日時を思い出し、執筆の続きをした。
翌日、鬼門さんとの打ち合わせがあった。鬼門さんは青波台で用事があるようで、家ではなく青波駅前のコーヒースタンドで行った。こういう小洒落た店は私というより志保が行きそうな場所だ。
初めて行ったのもあって、注文にかなり手間取ってしまった。普段、カフェオレかミルクコーヒーというものを選んで注文しているが、このコーヒースタンドのメニューにはそれがない。私は店員さんに勧められたカフェラテというものの一番大きなサイズを注文し、鬼門さんが居る席に移動した。
このコーヒースタンドは横文字の専門用語が多く、注文に苦労しそうなのだが、その割には老若男女問わず人が集まっている。
カフェオレはフランス語でカフェラテはイタリア語らしい。どちらもコーヒーと牛乳の混合物である事に変わりないが、カフェオレはドリップコーヒー、カフェラテはエスプレッソを使っているそうだ。
コーヒースタンドのカフェラテは、初めて飲むはずだが、何処か懐かしい 味がした。私は鬼門さんと仕事の話をした後、こんな事を聞いてみた。
「そういえば、鬼門さんは喫茶店でアルバイトしてたんだってね?」
「ええ、前にも話しましたが、『喫茶浜風』でアルバイトしてました。それでコーヒーには少し詳しいんです。そういえば、いつか行きたいって言ってましたね。」
「ああ、いつか行こうと思っているのだが、中々向こうの方へ行く機会がなくてね。」
「そうなんですね、また訪ねてくださいね。」
その日の打ち合わせはすぐに終わった。私は執筆を進めた後、『喫茶浜風』について調べた。そして、次の休日に志保と優太と一緒に出掛けた。
『喫茶浜風』は潮見台から更に山の方の浜野坂という場所がある。都会的で整備された港側と異なり、山側は異国情緒が漂う街になっている。この辺りはかつて外国人居留地になっていたらしい。そんな場所に『喫茶浜風』はある。
その看板はすぐに分かった。中を開けると、そこは昔ながらの喫茶店になっている。カウンターにはサイフォンが並び、壁には手作りの本棚や写真立てが飾られている。私達は、テーブル席に座り、注文をした。
「ここのスフレパンケーキが名物なんだって。」
志保はそのスフレパンケーキとホットコーヒーを注文した。私はその横でホットカフェオレとカツサンドを注文する。
メニューは食事もスイーツも充実している。それもあってか純喫茶という名目だが若者にも話題になっており、中にはレストランとして利用する者も居るようだ。私は、用意されたカツサンドを食べ、カフェラテを飲みながらその様子を眺めていた。この店のカフェオレは牛乳が多めで、サイフォンで淹れた苦いコーヒーがかなり飲みやすくなっていた。
その本棚の中には、私の本もあった。私の本を読んだ事がある方は何人か会ったが、こうして本棚に並んでいるのは初めて見た。
「こちらの本はどなたの趣味なんですか?」
私がそう尋ねると、鬼門さんと同い年くらいの男性の店員さんがやって来た。
「ええ、僕やマスターの趣味もそうなのですが、知人に編集者が居らっしゃるので、その勧めで置いている本もあります。僕自身はあまり本は読まなくて、読んでも漫画くらいなのですが…。」
言われて見ると、その本棚の一列には漫画が置かれていた。中には、その漫画を目当てに来る客も居るようだ。だが、漫画だけではなく、私や、その他の小説家の文庫本もあり、読んでいる客も居た。
「実はこの本を書いたのは私なんです。」
「そうなんですか?という事は鬼門さんの担当作家さんはあなたなんですね!」
その店員さんは目を輝かせて私を見た。そういえば、この店では昔、鬼門さんが働いていた。今も訪れては私や仕事の話をするのだろうか。
その時だった。私の前にマスターと思われる老紳士が現れた。身体を悪くしていたと聞いたが、今も現役で働いているのだろうか。
「初めまして、あなたがマスターでしょうか?鬼門さんがいつもお世話になっています。」
私が鬼門さんの名前を出すと、マスターは大層驚いていた。
「鬼門君の知り合いかね?」
「ええ、怪奇小説家の渡辺茂と申します。鬼門さんが私の担当をしております。本日は休日で、妻と子供と一緒にこちらを訪れました。」
「そうだったのか、もし良かったらこれに」
マスターは何処からともなく色紙を取り出した。私は、それにサインをしてマスターに手渡す。折角ここに来たのだから、記念に色紙だけではなく、本にもサインを残した。
そして、店員さんは別の客の所に行った。その代わり、マスターは横に居る。
「息子は元々店に興味なくてね。一時は学生アルバイトだった鬼門君に店を任せようと考えた事もあった。ところが、嫁さんに出会ってから急に心が変わってね、店を手伝いたいと言ったんだ。」
「お嫁さんって、どんな方でしょうか?」
「パティシエールの修行をしていたんだ。学生の頃にコンテストで入賞して、有名店からスカウトされていた。だが、それを断ってうちで働きたいと申し出たんだよ。とても良い環境とは言えないが、彼女のお陰でこの店は繁盛しているな…。」
マスターの目線の先には、若い女性の店員さんが居た。恐らくだが彼女がマスターの息子のお嫁さんなのだろう。
「今や看板商品になっているスフレパンケーキや、テイクアウトのケーキは彼女が作っているんだ。」
その方は、配膳や注文を行いながら、店の奥で作業をしていた。アルバイトと思われる方とも業務内容を話していたので、随分忙しくしているようだ。先程話していた店員さんは彼女の旦那さんだろうか。私とゆっくり話していたのが嘘のように慌ただしくしていた。今が昼時なので一番忙しいのだろう。
私は、マスターとの話を終えた。そして、席に戻ってそのケーキを注文した。ケーキには様々な種類があるが、芋のモンブランを注文した。
「茂がケーキ食べるなんて珍しいね。」
志保が優太にスフレパンケーキを食べさせながらそんな事を呟いた。そうなのだ、私はケーキ等の洋菓子や脂気のある洋食は食べない。何故ならすぐに胃がもたれてしまうのだ。だが、この芋のモンブランは食べられそうな気がした。
そして、運ばれたケーキは、パティシエールが作った芸術作品というよりは、家で手作りしたお菓子のような素朴な雰囲気が漂っている。私は、それを運んできた店員さん、恐らくだがマスターの息子のお嫁さんに話し掛けた。
「毎日大変ではないですか?」
「はい?」
彼女は私を不思議そうに見つめていた。
「マスターから聞きました。とても良い環境とはいえないはずのこのお店で頑張って働いていらっしゃるそうですね。キャリアを利用して有名店で働く方が良かったのではないでしょうか。」
「ええ、確かにパティスリーで働いた方が自分の実力を発揮できるかもしれない。でも私はこの『喫茶浜風』のような環境の方が好きなんです。ここでも忙しいですが、それでも楽しくやってます。」
そして、他の客が呼ぶのを聞いて、彼女は行ってしまった。
店に飾っている写真には、マスターが奥さんと写っているものや、息子夫婦の休日やコンテストのものもあった。この店には、家族の思い出が詰まっているのだろう。
そして、私達は立ち上がって、レジでマスターにお代を支払った。
「ありがとうございます。」
「こちらこそありがとうございます。それと、鬼門君によろしく。」
マスターは息子と同じくらい鬼門さんを気にかけていた。何故今も、鬼門さんは『喫茶浜風』が好きな理由が何となく分かった気がする。今度はここで打ち合わせてしてみようか。マスターとの思い出話も聞いてみたい。店から出た後はずっとその事ばかり考えていた。打ち合わせのような堅い話は苦手だが、その中で楽しみを見つけると、不思議と待ち遠しく思えるのだった。
それと、志保のように私もコーヒーを淹れてみようか。執筆のお共は緑茶と煎餅が多いが、時にはコーヒーと別のお菓子にしてみようか。
志保はちゃっかり『喫茶浜風』のレジでコーヒー豆とお菓子を買っていた。また家で淹れるつもりだろうか。優太はそのお菓子が食べたいのか紙袋をじっと見つめていた。
「優太には後でホットミルクを作ってあげるからね。これは家で食べましょ?」
志保は優太を抱えながら、寒い都会の空を眺めていた。私は、そんな二人を見ながら、一緒に帰った。