94_背信者二人
俺は、大商人ローランドの伝説を思い出していた。
ローランド商会の創始者である彼には様々な逸話がある。
もっとも有名なものがローランドの山呑みという逸話だ。
材木の価格が高騰することをいち早く察知した彼は、幾つかの山の権利を買い取った。
だが、その地を縄張りにしている猟師たちが立ち退こうとしなかったのだ。
当時は山の所有権に関する意識が希薄で、猟師たちにしてみれば、そこで猟をすることは侵されるはずの無い権利だった。
ローランドは立ち退き料を払ったうえで職も斡旋すると確約したが、それで納得を得られるものでもない。
そこで彼は、対話こそが唯一の解決策と信じ、猟師たちの元へ足しげく通って交渉を続けた。
最初は邪険に追い返されていたが、根気よく通いつめるうちに、話は聞いてもらえるようになった。
彼らとの話には、酒が付き物だった。
猟師という職ゆえか、彼らは何を話すにも、とにかく飲んだ。
私は商いで来ておりますので、などと言って遠慮するのは悪手であろうと考えたローランドは、出された酒を片っ端から飲んだ。
ある猟師宅で五合飲み、次の猟師宅で五合飲み、次の猟師宅で一升飲んだ。
とにかく飲み続けた。
それを繰り返すうちに彼は猟師たちから信頼されるようになり、遂に山を明け渡してもらえたのだった。
そして材木市場での成功を経たローランドが興した商会は、今日では王国最大の商会にまでなっている。
酒の許容量は人の器とは無関係であり、その点から言えば、さして示唆や教訓を含むでもない話だ。
だが何故か印象に残る。
アルバンにばしばしと肩を叩かれながら、俺はその話を思い出していた。
「嬉しいぞロルフ! 俺とのサシ飲みに朝まで付き合えた奴は初めてだ!」
豪快に笑うアルバン。
自分に心行くまで付き合える者との出会いが嬉しいらしい。
俺としても楽しい酒だった。
しかしさすがに限界だ。どの酒も美味くて、つい飲み過ぎてしまった。
「じゃあ俺はこれでお暇する。あんたもだいぶ出来上がっているが、今日の仕事は大丈夫なのか?」
「なに、問題ないさ。だが一応、俺の名誉のために言っておくが、いつもは酒を食らって仕事などしないぞ。族長だからな俺は」
今日は特別だ、と言ってアルバンは笑う。
厳めしい顔つきに似合わぬ、人懐こい笑顔だった。
アルバンの屋敷を辞した時には、もう完全に日が昇っていた。
俺は赤ら顔で、居住区画へ向けて歩く。
俺には、軍の関係者が住む一画に平屋の一軒家が与えられている。
周りの住人は、人間である俺がここに住む事情を知る者ばかりだ。
だが、今日はその自宅へ戻る前に、立ち寄るところがある。
別れ際、アルバンに言われたのだ。
「ああ、それと、あの野生児もお前に預けるぞ。仲良くやれよ!」
◆
俺に与えられた家のすぐ近くに、彼の家があった。
俺のものと同じく、木造の小ぶりな平屋だ。
「おう、こいつは松か? 良いじゃねーか!」
家を与えられた時、彼はそう言っていた。
木造の家が随分気に入ったようだった。
俺はその家のドアをノックする。
中から、ややぞんざいな声が聞こえた。
「良いぜ、入りな」
ドアを開け、その男に挨拶する。
この町に、人間は俺と彼だけだ。
新参同士、仲良くやらなければならない。
「シグムンド、おはよう」
「ああ、そのへん座れ」
促され、アルバンのところでそうしたのと同じように、床の敷物の上に座った。
目の前に居るのは、ザハルト大隊に居た元傭兵、シグムンドだ。
死にかけていた魔族の少年を抱いて俺たちの陣営に駆けこんで来た彼は、その後、捕虜の救出に協力した。
そしてそのまま王国と袂を分かち、俺と共にヘンセンまで来たのだった。
「話に入る前に、それ、何やってるんだ?」
俺は疑問を呈する。
シグムンドは少年に纏わりつかれていた。
肩の上に乗った小さな少年が、シグムンドの頭に抱き着いているのだ。
「知らねえよ! こいつが勝手に引っついてんだよ!」
「えへへへ」
よく見たら、シグムンドが救ったあの少年だった。
実質初対面なので自己紹介をする。
「はじめまして。俺はロルフだ。君は?」
「ぼくはアルノーだよ!」
この少年、アルノーは、アーベル攻略戦の最中、辺境伯らに胸を刺されたのだ。
だがシグムンドに救われ、治療を受けて一命を取りとめた。
今ではすっかり元気になったようだ。
「アルノーはシグムンドが好きなのか?」
「うん! 助けてくれたから! 僕もシグ兄に何かしてあげたくて!」
「それは良いな。シグ兄という渾名も良い」
「……うるせえな。こいつシグムンドって上手く言えねえんだよ。だからシグにしろって言っただけだ」
「じゃあ俺もそう呼ぶぞシグ」
「チッ! 勝手にしろよ」
子供の前で舌打ちなんかするもんじゃない。
この男の振る舞いは子供に悪影響ではないかと一瞬心配になるが、当のアルノーは幸せそうだ。
彼は、自分を掻き抱くシグの手の感触を覚えているに違いない。
「お前もう下りろ! そろそろパウルが来んだろうが!」
「えー」
「パウル?」
「こいつの親父だよ」
アルノーの親は健在だったか。
それは何よりだ。
その後ややあって、ドアがノックされた。
そしてやって来たパウルに連れられ、アルノーは帰って行く。
パウルは好人物で、シグに甚く感謝していた。
「また来るね!」
「じぶん家で大人しくしてろ!」
アルノーは、素っ気ないシグを気にするふうも無く終始笑顔だった。
彼は大丈夫そうだ。
ああまでして自分を救ってくれた者が居るという事実は、彼の人生にとって大いに頼みになるだろう。
そしてアルノーが去り、静かになった家のなか、俺は改めてシグと向き合った。
「クソがぁ!」
「急にどうした」
「てめぇに負けたことを思い出したんだよ!」
まるで脈絡のないタイミングで思い出すんだな。
こいつの情緒は大丈夫なのか。
「いずれ再戦するとして、改めて自己紹介する。俺はロルフだ」
「知ってるよ。ロルフ・バックマンだろ」
「いや、ロルフだ。もうバックマンの姓は名乗っていない」
「はっは! お貴族サマの姓は捨てたってか! やるじゃねえか!」
貴族嫌いか。
見た目どおり、反骨の気質が強い男のようだ。
「今後について伝えるぞ。お前は俺の軍で一緒にやってもらうことになった」
「聞いてるよ。俺は戦えりゃあ何処でも構わねえ」
彼には色々と聞きたいことがある。
なぜ俺と同じなのか。
「シグ、教えてほしい。魔族の子供が殺されることに怒り、国を出るまでに至ったのは何故なのか」
「あァ!? そんなもん、てめぇも同じだろうが!」
怒鳴り声をあげるシグ。
どこに怒りのポイントがあるのか分からない。
まるで狂犬のようだ。
「俺も確かに、戦いと関わりの無い人たちを傷つけることは許せない。だが、そう考える人間は異端なんだ。普通は、子供でも老人でも、それが魔族であれば殺すことを厭わないんだよ」
「知るかよそんなもん。 俺が許せねえと思ったら許せねえんだよ」
浅いようで深い。
いや、浅いか? まあ良い。
それよりシグの行動原理。それを確認しておく必要があるのだ。
「シグ、神疏の秘奥は受けたんだよな?」
「ああ。モグリのやつをな」
「モグリ?」
「俺の居たタリアン領じゃ、路上のガキに秘奥なんて寄越しゃしねえんだよ。どうせすぐ死ぬんだからよ。でも俺は戦いたかったから、生臭がヤミでやってる秘奥を受けたのさ」
なるほど。そういうことか。
ワケあり相手にカネで秘奥を施すということだ。
神官の資格に満たない者や、破門された者あたりがそれをやるのだろう。
「よく費用があったな」
「貴族からスった」
十中八九、神疏の秘奥の正体は契約魔法だ。
魔法である以上、未熟な者が使えば、かかりが甘くなることもあるだろう。
いや、だがこういったヤミ秘奥のケースは幾らでもある筈だ。
それなのにシグのような者は他に見つかっていない。
やはり昨日アルバンに話したとおり、秘奥による思想誘導の効果は、元々の本人の気質に大きく左右されるのだろう。
ヤミ秘奥もトリガーの一つではあったのかもしれないが、シグは元々こういう考えを強く持っていたに違いない。
こうして向き合っていればよく分かる。この男は自力で神と決別したのだ。
「シグは女神ヨナを信じているか?」
「いや。昔は信じてたが、今はちっとも」
「そうか」
「あのよ」
「ああ」
「……あの二人はどうだった?」
目を伏せ、少し沈んだ声で問うシグ。
彼がエストバリ姉弟を指して言っている事はすぐに分かった。
シグは仲間を裏切った。
だがそれは、罪なき子供を殺すという無体を前にした行動であり、正当なものであったとシグも俺も思っている。
しかし、それで割り切れないのが心の不便なところだ。
姉弟と直接戦った俺に、二人の戦いぶりと、そしてその最期を聞きたいのだろう。
「強かった。風を纏ったヴィオラの槍は恐るべき威力で、テオドルのスピードも厄介だった。さらに互いが強い信頼で結ばれ、その連携は完璧だった。俺はかなりの苦戦を強いられた」
「…………」
「どうにかヴィオラを倒し、これで楽になると思った俺は、認識の甘さを思い知った。姉の死を経て、テオドルは凄まじい強さへ至ったんだ」
「そうか……あのお坊ちゃんがな」
「彼は姉の死に怒りながらも判断力を失うことは無く、鋭く速い攻撃を見舞ってきた。俺は脇腹に槍を受け、すんでの所まで追い詰められた。最後は剣が彼に届き、俺が勝ったが、紙一重の差だった」
「…………」
「テオドルは最後の力を振り絞ってヴィオラの亡骸まで這いより、そして寄り添って死んでいった」
「へ……最後まで仲の良いことだ」
「………………」
「………………」
満ちる沈黙。
シグの表情に、死者への思いが去来する。
彼は、戦う者が常に抱くべき敬意を心得ているようだ。
「おめえよ……殺した奴らのことは忘れるんじゃねえぞ」
「ああ」
それだけ言って頷いた。
それ以上の言葉は不要だった。





