203_温かい紅茶と花々と
時は少し遡る。
ロルフらの居るヘンセンから南東へ大きく離れた地、大陸東部の戦線は、膠着状態にあった。
この地の魔族領は、大陸の東端部を南北へ貫くように広がっており、つまり王国との領境が長距離に及ぶ。双方にとって難しい戦線であった。
戦線に接して南北に並ぶ複数の王国領は、各々領軍を持つものの、それだけでは厳しい。
そのため、この地の戦いは、長く騎士団によって支えられていた。駐留していたのは、第二騎士団である。
しかし現在では、第二騎士団は解体されている。
解体ではなく瓦解──と見る向きもあるが、とにかく霊峰での敗戦を経た今、第二騎士団はもう無い。
代わって今日、この戦線を支えているのは第一騎士団であった。
王国最精鋭たちの強さは、この地でも発揮されている。
その力は、第二騎士団が消えて勢いづく魔族の大軍を押し返すに充分なものであった。
何より団長ティセリウスが非凡な軍才のもと、領を跨いだ指揮で戦いをコントロールし切っていたのだ。
領を接する貴族らは、しばしば反目する。少なくとも親密というケースは稀だ。この地が難しい戦場であることの、一つの理由であった。
しかし英雄ティセリウスは、自らを旗印とし、この地をまとめ上げたのだ。
そんな地から、第一騎士団が離れることとなった。
これは、人間、魔族を問わず、多くの者たちにとって予想し得ぬものであっただろう。
実際この地の領主らは反対した。第一騎士団に去られては困る。
現在、戦術的勝利を重ねて魔族側の戦力を損耗させ、小康を得た状況ではあるが、しかし油断は出来ない。
これに対し王女セラフィーナは、騎士団の駐留を含む中央からの支援継続を確約し、領主らを引き下がらせた。
いずれの領主も納得こそしていなかったが、中央に対してなお難色を示していても、状況の好転は無いのだ。
代わって駐留する騎士団が第三騎士団であることは、王女と一部の高官、そして団長のエーリク・リンデルしか知らない。
もし第三騎士団が、第一と同様にこの戦線を維持出来れば、第三の、そしてリンデルの名望は更に高まるだろう。
そこに期待した中央の差配でもあった。
そして東部を離れた第一騎士団は、西へ向けて進軍する。
目指すは、ダオハン族の支配地域である。
◆
第一騎士団は進軍の途中で王都に寄った。
だがティセリウスは高官らへの挨拶を最小限に留めている。
かなりの長征であるため、王都に滞在する期間は長めに取られていたものの、難しい任務であるからこそ些事にかかずらっていられないのだ。
もっとも、高官や有力貴族との誼は、常識的に考えて些事とは言えない。
しかし今回の滞在で、それらを一顧だにしないティセリウスであった。
彼女は決して傲岸不遜な戦人ではなく、儀礼や形式、そして政治を、必ずしも軽視したわけではなかった。その領域にも自身の義務があることを、正しく理解していたのだ。
だが近年のティセリウスには、そういったものを遠ざける傾向が見られる。
一方で、王女セラフィーナとは長く懇意にしている。
ティセリウスは王都に来た際、セラフィーナとは必ず会っているのだ。
その点は今回も例外ではない。
「それでは失礼致します」
そう言って侍女が退室する。
テーブルの上では、侍女の持ってきた紅茶が湯気を立てていた。
王女の私室、今そこに居るのは、セラフィーナとティセリウスだけである。
「エステル。ご機嫌は如何ですか?」
ここしばらく、笑顔の無かったセラフィーナ。
しかしこの日は、柔らかい笑みを見せている。
「殿下にお会いして良くなりました」
「ふふ。そういう社交辞令が言えるなら、高官たちとも上手くやれるでしょうに」
言って、セラフィーナは紅茶を口に運んだ。
それだけの所作にも麗しさが漂う。
武断的性格の強いロンドシウス王国にあっては、ティーカップの似合う王侯貴族は思いのほか少ないが、彼女は別だ。
後ろの窓からの陽光が、セラフィーナに白い輪郭を与えている。
対面に座るティセリウスは、一瞬、目を奪われた。
同性の彼女から見ても、優美な人であった。
もっとも、美しいのはティセリウスも同様であり、本人はあまり頓着していないが、その造形美は平均を大きく引き離している。
向き合う二人は、絵画の世界に居るようであった。
「弟御のこともあります。有力貴族と渡りをつけて差し上げることも出来ますよ?」
セラフィーナが、気づかうように言う。
現在ティセリウス伯爵家は、中央と緊張関係にある。
そして厳しい立場にある当主エリアスを、その姉であるエステル・ティセリウスが常より大事に思っていることは、セラフィーナも知っていた。
だからこその言葉であったが、しかしティセリウスは謝絶する。
「有り難い仰せですが、弟には弟の考えがありますゆえ」
「そうですか」
無理に説得しようとはしないセラフィーナである。
対面に座する旧知の顔から、曲がらぬ意思を読み取ったのだ。
「それより殿下におかれましてはご機嫌麗しく。臣としては愁眉を開く思いでございます」
「ふふ、何ですかそれは?」
「社交辞令のレパートリーをお聞かせしようかと」
宰相あたりが耳にすれば、英雄が相手でも強く咎めたであろう物言い。
二人しか居ないからこそ出来る、気安いやりとりであった。
だが、セラフィーナに対する愁眉、即ち心配事がティセリウスにあるのは事実である。
ゆえにこそ、元気づけるよう軽口を叩いているのだ。
そして、それが分からないセラフィーナではない。
やや申し訳なさそうな笑顔で、彼女は心情を吐露する。
「何事も、心配をかけずに済めば良いと……本当はそう思っているのですけれど」
ティセリウスと同じく、セラフィーナもまた苦しい状況にある。
講和の失敗以降、変わりつつある情勢。
権威と求心力の低下というものは、為政者──とりわけ若い指導者にとって、死活問題となり得るのだ。
「殿下。誰にも試練は訪れましょう」
「仰るとおりです。私も政治は不得手なことですし」
為政者として、あり得べからざる言葉。
しかし本音であった。
セラフィーナは優れた政治家であったが、その心根は政治に向かない。
そして私"も"と述べたとおり、目の前に居るティセリウスもまた、政治を好まない。
セラフィーナには、古い友人へ問いたいことがあった。
「お聞きしたいのです、エステル。何か心境の変化がありましたか?」
好まぬとは言え、政治を軽視することは無かったティセリウスである。弟の件においても、以前のティセリウスなら、中央へ何らかのアクションを起こしていたはずなのだ。
問われている意味を理解し、ティセリウスは小さく首を振った。
「心境の変化という程のものではありません。戦うに懸命で政治から遠ざかっているだけですよ」
まあ、リンデルのようにはいきませんから。という言葉を続けようとするが、思い止まる。
目の前の王女が、エーリク・リンデルを必ずしも認めていないこと、しかし高官たちの推挙もあって重用せざるを得ないことを、ティセリウスも知っているのだ。
そんな中、あえて話題にしたい名でもない。
「戦い、ですか」
揺れる紅茶に目を落としながら、美姫はぼそりと言った。
その声音には、戦いに対して自身の理解が及ばぬことへの、苦慮が滲んでいる。
矢の飛び交う戦場に身を置かぬ自分では、戦う者たちの心情を真には汲み取れない。
終わらぬ戦争の中、そこに引け目を感じている点から言っても、やはり彼女は政治に向いていないのだ。
対面のティセリウスは、そこを慮りつつ、しかし糊塗せぬ本音で答える。
「それが私の役目ですから」
「戦場を見渡すその目で、政局を見通す気にはなれない、と?」
「そんなところです。幼いとお思いですか?」
「どうでしょう。私には分かりません……」
消え入るようであり、嘆くようでもあるセラフィーナの言葉。
彼女の姿に、申し訳なく思うティセリウスであった。
若き王女は、不得手を自覚しながらも政務に励んでいる。それに比べれば、政治から離れたがるティセリウスの振る舞いは、立場にそぐわぬ自己満足だろう。
戦いを知らぬと恥じ入る王女に対し、英雄は英雄で負い目を持っているのだ。
「エステル」
「は」
「英雄にも、悩みは尽きないようですね」
言って、くすりと笑うセラフィーナ。
戦う者の心情は汲み取れずとも、古い友人の悩める姿には、ちゃんと気づける。
そう言っているかのような笑顔であった。
「悩み多き身、恥多き身です。お恥ずかしい限り」
「それでも私は、貴方が羨ましい」
セラフィーナは、ティセリウスの目をまっすぐ見つめている。
自身の言葉が、心からのものであることを伝えんとしているようであった。
その視線を数秒受け止めて、ティセリウスは、その端整な顔に小さな笑みを浮かべる。
「臣下に羨望を向けてはいけませんね。王女様たるもの、もっと厳格であって頂かなくては」
「ふふ。ご存じありませんでしたか? 私はずっと、貴方に憧れているのですよ」
「何と。存じませんでした。なにぶんファンは多うございますので……」
ティセリウスが肩を竦め、セラフィーナが柔らかな笑声をあげる。
それぞれ思い悩む二人であったが、しかし心から信頼し合っている。
いま部屋に満ちる空気は穏やかであった。
窓から射す陽光は暖かく、ここには平和な光景がある。
それは歴史を司る何かが皮肉を好むことの、証左であったかもしれない。
この日は、今生において二人が会う最後の日であったのだ。
書籍版『煤まみれの騎士』第8巻が、2026年5月17日に発売になります。
今回も大幅加筆でお送りします。
どうぞよろしく!





