197_竜と聖者
さる貴族邸。
当主の男が、自室で執務卓に向かっていた。
名をエリアスという。
若い男だ。その外見からは、三十歳に満たないであろうことが窺える。
かつ端正な顔立ち。目鼻立ちのくっきりした好男子であった。
しかし憂いの似合わぬその顔に、今はハッキリと苦悩の影が差している。
「ふう……」
溜息を吐く。
彼は、領地を運営するに際して、中央との繋がりを見直そうとしているのだ。
それは王国貴族にとって重大な決断である。
迷っているわけではない。答えはもう出ていた。
どうすべきか、何を選ぶべきか、もう分かっている。
だが、選択の結果、好ましくない事態になることも分かっているのだ。
分かっていながらも、そうせざるを得ない。
いや、そうしなければならない。
信義に従った選択をただ誇ることが出来れば良いのだが、エリアスにとっては難しい。
自身がさして強くもないことを、彼は自覚していた。
「はぁ……」
またも溜息。
そこへドアをノックする音が重なる。
入室を許すと、年かさの男が入ってきた。
この貴族家の家臣である。
「旦那様。中央からの使者が来られました」
「分かった。応接にお通ししたか?」
そう問うと、家臣は頷いた。
来て欲しくない使者が、しかし約束の時間をまったく違わずに現れた。
額に浮いた汗を手巾で拭い、エリアスは椅子から立ち上がる。
招かれざる客であっても、中央の使者を待たせるわけにはいかない。
「お心は変わりませんか?」
「ああ」
「お悩みのご様子ですが」
エリアスという当主は人柄に優れ、家臣からの信望も厚い。
ゆえにこそ、苦悩が滲むその姿を、家臣は見過ごせなかった。
しかしエリアスの考えは変わらない。
「やはり断るよ。当家はこれ以上、戦費を負担しない」
エリアスが決心したのは、戦費の拠出を撥ねつけることであった。
中央から要請された支出要請を断るのである。
これまで彼は、自領への騎士団の駐留を拒否していた。
自前の領軍でこの地を守れるからだ。
これについては、領内の戦力を整え、この地の魔族の戦力を調査し、それらを中央へ対して充分に説明することで理解を得ている。
論拠に基づいて国土を守り切れると主張し、それを認めさせたのだ。
事実上、騎士団の駐留を"謝絶"したかたちであり、表向きには問題になっていない。
しかし、これが自領に対する中央からの影響力を抑えるためであることは明白なのだ。
かつ国の防衛計画に異を唱えたのも事実であり、中央との間に軋轢を生んでいる。
ゆえに現在、エリアスは中央と緊張関係にあった。
その状況で中央からの要請を拒否するのは、およそ穏当とは言えない。
そもそも、この支出要請が中央から与えられた歩み寄りの機会であることは、まともな政治観を持つ者にとって明らかであった。むろん、エリアスにも分かっている。
そして同時に、これも明らかなことに、この要請は最後通告なのだ。断れば、いよいよ叛意を疑われかねない。
要請されている支出額は莫大で、それを受け入れるなら領民からの税を増やさなければならない。
だが中央との関係を悪化させれば、それも当然、領民に迷惑をかけることになる。
どちらも選べない。
だが選ばければならないのであれば、せめて阿るとは別の道を選びたい。
苦悩しながらも、エリアスはそう決断したのだった。
「…………」
しかし、それを中央の使者に伝えるのは、やはり怖い。
強くありたいと願う者は、つまり強くはないのだ。
足取り重く、応接室へ向かうエリアス。
そこへ、後ろを歩く家臣が最も気になっていることを問う。
「宜しいのですか? 当家が中央の信用を失えば、いよいよ……」
「分かっている。姉上に迷惑がかかると言いたいのだろう」
それこそ、エリアスを何より悩ませていた事実なのだ。
姉は彼にとって、ただ一人残された肉親である。
決して迷惑をかけたくない人であった。
「だが、これで良い。これで良いんだよ」
自身へ言い聞かせるように答えるエリアス。
その足が、応接室の前で止まった。
家臣がドアをノックし、先に入室する。
そして中で待っている使者に、当主が来たことを伝えた。
「…………」
数秒の沈黙を挟み、エリアスは入室する。
王国の使者たちが、起立して彼を迎えた。
振る舞いは儀礼に則っている。しかし表情には明らかに険しさがあった。
その表情のまま、使者のうちの一人が挨拶をする。
「ご機嫌麗しく。ティセリウス伯爵」
◆
俺はリーゼと共に蔵書院へ来ていた。
以前も彼女とここへ来たことがある。タリアン領の戦いの少し前だ。
あの時、竜について話したことを覚えている。
今日は、改めてその竜に関する知識を求めて来たのだ。
立ち並ぶ書棚を見上げながら、リーゼが言った。
「実在したのは間違いないんだよね、竜って」
「その存在を疑う言説もあるにはあるけどな。だが実在しているという説が主流だ」
実際、学術面において竜の存在は証明済みとされている。
多くの記録や口伝に加え、物理的な痕跡が世界中に認められているのだ。
時代や地域を大きく違えつつも尽く符合するそれらは、どのような学理的解釈を経ても竜の存在に行き着くのである。
「"実在している"なの? "実在した"じゃなくて?」
「そこは少し難しいんだが……時代によって居たり居なかったりするんだよ」
明らかに竜は、幾度となく地上に現れている。
だが、誰にも確認されていない期間の方が圧倒的に長いのだ。
その凄まじい存在感により、ひとたび現れれば世界に大きな爪痕を残すが、現れることは非常に稀なのである。
「たまにしか現れないってこと? でも山みたいにデカいんでしょ? どこに居ても見つかると思うんだけど」
「海の底で眠っているとも、溶岩地帯に棲み処を持つとも言われるが、そのあたりは分かっていない。普段は幽世に居て、数百年に一度、この世界に来るのだという説もある」
「何だか途方もないね、スケールが」
そう。途方もない。
あらゆる面において破格なのだ。
「これ、ロルフ怒るかな。言っていい?」
何やら遠回しな物言い。
この手の問いに駄目と答えてみたら、相手は本当に黙すのだろうか?
いや、それでもリーゼは気にせず言いそうだ。
腹筋固そうだよね。ちょっと叩いてみていい? と言うのと同時に腹を殴られたことがある。
そのあと、どう? どう? などと訊いてきたが、どうもこうもないし単に驚いた。
そんなことを思い出していると、案の定、俺の答えを待たずに彼女は言う。
「大昔から居て、もの凄い力を持つ存在って、それはもう神様なんじゃないの?」
「ふむ、そういう話か」
俺は神を信じぬ男。
しかし竜の存在は肯定している。
そこに矛盾があるのではないかと言うのだ。
「まあ大昔から居るとは言っても、竜が創世したなどとは思えないし、そんな説も無い。竜は神とは違うと思うぞ」
竜こそ地上に現れた最初の生命であるとも言われる。
だがそうだとしても、ほかの生命や、そして世界を創ったのが竜であるという言説は無い。
高い知性を持つとされるが、全知全能というわけでもない。
俺の感覚では、竜は神と言われるものと異なる存在だ。
竜を指して、世界をその目に映す"観測者"だと表現する者も居るが、俺の意見はそれに近い。
「そうなんだ」
「あくまで個人的な考えだけどな。神の概念や信仰の捉え方は人それぞれだ」
"観測者"だとして、それでも人によっては充分に信仰の対象となり得る。
事実、そういう向きもあるのだ。
「たとえば魔族の精霊信仰の中には、竜を強力な霊魂と捉えて奉ずる考えがあるだろう?」
「え、そうなの?」
「そうなのって……どうして俺が知っていてリーゼが知らないんだ」
俺でもヘンセンに来る前から知っていた話だ。魔族の間では、ごく一般的な知識である。
リーゼは族長の娘として真摯に責務と向き合っているが、どうも時々抜けている部分があるようだ。
彼女が美しい顔で静かに佇んでいると、何か深いことを考えているに違いないと兵たちは囁き合うが、実際は何も考えていないことが多い。
「えい!」
「腹を殴るな」
何かを察したらしく、抗議のパンチを見舞ってくるリーゼ。
学術院で負った傷が癒えたばかりだというのに、遠慮の無いことである。
「だって竜を奉じるなんて聞いたこと無いわよ」
「ここに動かぬ証拠があるだろう」
俺は、腰の剣に手をやった。
オオカミ鋼が炭化したと言われる黒い刃。
古竜グウェイルオルの炎に灼かれたこの剣は、元々このヘンセンで、祭壇に祀られていたのだ。
「あ、そういえばそうだね」
……煤の剣。
今までに何度か、この剣からの声を感じたことがある。
あれこそまさに、竜の声ではないのか。
何処かから精神へ呼びかけるような声は、俺に信仰があれば、それこそ神のお告げにも聞こえただろう。
だがその声に、俺は神性を感じなかった。
そしてメルクロフ学術院での出来事の中で剣から感じたのは、およそ神からかけ離れた激情。
それは間違いなく、怒りであったのだ。
「竜。何を識り、何に怒れるのだろうな」
目の前の書棚から、一冊を取り出して開く。
そこに竜が図示されていた。
古竜グウェイルオルと熾竜ジュヴァ。
存在したと言われるのは、この二柱のみ。
竜とは、グウェイルオルとジュヴァを指すのだ。
「…………」
二柱。二柱か。
竜を数える時、一般に使われる"柱"という単位。
竜のほかに、神像、あるいは神そのものを数える際の単位だ。
こういう点からも、竜が信仰の対象となり得ていることが分かる。
だからこそ、ああいう伝説も長く語られるのだろう。
俺は、書棚の上段を見上げる。
そこにあった。
今日の目当て、竜人伝説の本である。
「上の方にあるね。ロルフ、それ届く?」
「ああ」
腕を伸ばしてその書物を引き抜き、手元で開いた。
傍らでリーゼが覗き込む。
書かれているのは、竜と人の間に生まれた子の話である。
「半ば以上が創作とされているが……」
熾竜ジュヴァが、人間との間に子を生したという言い伝え。
それが竜人伝説である。
その子供が様々な冒険へ乗り出す話は、人々から大いに好まれてきた。
王国では舞台の演目にもなっているのだ。
「実際、冒険譚は創作なんでしょ?」
「そうだな。近代になって成立した話だ。だが竜人の存在それ自体は、必ずしも否定されていない」
ジュヴァが人との間に子を生したという説については、幾つかの論拠が提示されている。
竜の血を継ぐ子は存在すると、一部の学者たちが主張しているのだ。
「……言ったんだよね。ロルフが会ったそいつは、自分のことを聖者だって」
「言った。はっきりと」
メルクロフ学術院の広大な地下室で出会った、あの男。
奴は自らを、聖者ラクリアメレクであると語った。
数百年前の伝承にある人物、その本人であると。
馬鹿げた与太話に聞こえるそれを、俺は事実と受け取った。
そしてリーゼら仲間たちも、俺の考えに同調してくれている。
俺たちの敵は、人智を越えて永い時を生きる存在なのだ。
そして、知り得る中でそんな存在を肯定する唯一の言説が、竜人伝説である。
竜の子も永きを生きると言われている。
世に実在を主張される、竜と人の間に生まれ落ちた者。
聖者ラクリアメレクは、それなのだろうか?
「こっちのも竜人に関する本だね。あと、口伝を集めた本にも何か書いてあるかも」
言って、何冊かを手に取るリーゼ。
俺も目ぼしいものを書棚から引き抜いていた。
そして、それらを卓上に広げる。
「やはりここの蔵書量は素晴らしいな」
「本、ちゃんと読むの久しぶり」
その後、二人で多くの書物に目を通した。
竜の子が為す、様々な冒険的行動に関する記述は書物によってまちまちである。
やはり、この部分は創作であるように見える。
だが、熾竜ジュヴァと人の間に子が生まれているという点には、論証を交えた冷静な記述が多く見られ、信憑性が感じられた。
また創作の部分にも、事実に根差しているように思える点がある。
それは、竜の子を扱ったあらゆる物語や詩曲に共通する舞台設定。
竜の子が、長命と、そして人智を越えた力を持っているとする点である。
「やっぱりそうなのかな。竜の血を継いだ人物が聖者で、そしてずっと、歴史の裏に居る……」
「確証は無い。だが」
だが、奴を竜の子と考える理由はもう一つある。
「奴と……聖者ラクリアメレクと対峙した時、この剣から感じたんだ。激しい怒りを」
「怒り? 剣から?」
「そうだ」
常より、この剣からは僅かな怒りを感じていた。
その怒りは、メルクロフ学術院で陰謀に直面する中、強く燃え上がった。俺はそう感じたのだ。
そして聖者と向かい合った時、怒りはまさに業火と化した。
腰に佩いた煤の剣は、赤熱するような激情を伝えてきたのである。
「それってひょっとして、古竜が怒ってるのかな?」
「そんな気がするんだ」
古竜グウェイルオルと熾竜ジュヴァは、互いに反目したことで知られる。
何度も激しく戦ったことが、多くの伝承に語られているのだ。
そして煤の剣は、古竜グウェイルオルに縁のある剣。
黒い剣の向こうに感じる存在は、ひょっとして古竜なのではないかと、そう思わずにはいられない。
「じゃあ、本当に相手が竜の血を引く存在だとして……」
「…………」
「どのぐらい受け継いでるんだろうね。竜の力を」
「分からない。その力を測ることは出来なかった」
「斬れなかったんだよね、ロルフでも」
「ああ。斬ったと思ったが、奴には傷一つ無かったんだ」
奴との間に戦いが成立するかも怪しい。
あれは、そういう相手だ。
力にも、悪意にも、まったく底が見えなかった。
「だから少しでも詳しい情報が欲しいんだが……」
「書いてないね」
俺たちは、ぱらぱらと書物のページをめくる。
奴が竜の子だとして、それを倒す方法とは言わずとも、何か踏み込んだ情報が欲しい。
しかし、これという記述は見当たらなかった。
竜の子は、創作話の中で常に勝っている。
そんな物語の英雄を倒す方法が、どこにあるのか。
見当もつかない。
しかし、いずれ必ず再び会う。戦うことになる。
そこにだけは、確信があった。
書籍版、最新第7巻が発売になりました!
↓バナー広告の下から是非チェックを!





