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煤まみれの騎士  作者: 美浜ヨシヒコ
第五部
179/198

179_男爵家四男の述懐

[ホーカンソン男爵家四男 アンドレ述懐す]


 平和は貴重だ。

 誰だってそう言う。当たり前だよ。

 いや、別に誰もが幸せであれなんて全然思わねえよ?

 嫌いな奴にはヒドい目に遭ってほしい。


 たとえば俺ん()に居た侍女長。

 いつも俺を見下してやがった、あの女。

 石ころを見るような目を俺に向けてた、あの行き遅れ。

 そのまま行き遅れ抜いて欲しいと切に願うね。


 何の話だっけ。

 そうそう、平和の話だ。平和が貴重だって話。

 俺が言いたいのは、その貴重さを本当に理解してる奴が、どれほど居るかってこと。


 ガキのころ、親父に言われたもんだ。

 お前は一度、痛い目に遭わなきゃ分からない、って。

 あれな、真理だったよ。

 そう、真理。俺だけじゃねえの。人類にとって不変の、こう、ほら。真理。


 ピンとこねえか?

 逆に言った方が分かり易いかもな。

 つまり、痛い目を見たら分かるってことだよ。


 ガチのマジで恐ろしい目に遭った時。

 本当の本当に命の危機を味わった時。

 その時にこそ分かる。

 平和がどれほど貴重なのか。


 こんな世の中だけどさ、まあなんか、ヤバいことには巻き込まれず生きてきたわけ、俺は。

 でも、よりにもよって戦場に蹴り出されちまってさ。

 もう本当に、身の毛もよだつような経験をしたわけよ。


 思い出すだに震えがくるぜ。

 何って悪魔(セイタン)だよ悪魔(セイタン)

 いや説明したくねえよ。

 世の中にあんな恐ろしいものが居ると考えただけで、世界を嫌いになっちまいそうなんだから。


 まあ、だから。

 本物の恐怖を知ってる俺にしてみればさ、平和を本当に貴重に思えるわけ。

 いや、兵隊としてここに居るんだけどね。

 でも、少なくとも何事も起こってねえからさ。

 それに勝ることは無いって。


 ちなみに兵隊と言ったが、一応、大事な講和会談の警護だぜ。

 もっとも別に嬉しかないけどな。出世欲とか無いし。


 いくらかの聴取を経て、なんか選ばれたんだ。この役目に。

 俺、済生軍をクビになってるんだけど、それが良かったらしい。

 意味分からんだろ?

 どうも、教会から遠い奴を選んでるっぽいんだよな。


 一体どうしてだろうか。気になる。

 なんてな。嘘だぜ。

 余計なことを気にしちゃいけない。鉄則だ。

 俺みたいなもんにとっちゃ、詮索は命取りになりかねない。

 知らなくていいことは、知らないままでいい。

 これこそ賢者の処世術さ。

 無知を肯定する賢者なんて、我ながら哲学的だな。


 まあそんなわけで俺は、当たり障り無くつつが無く、警護をしてるわけ。

 場所はメルクロフ学術院。

 ここが講和会談の場所なんだってよ。


 その学術院の構内を、ぶらぶらと巡回中。

 当然っつーか、王女サマを直接護衛するような役回りじゃないからな。

 会談は講堂に隣接した尖塔でやってるらしいけど、その講堂には近衛やら騎士団の精鋭やらがちゃんと居る。

 それ以外の下っぱは見回りが仕事だ。

 こっちとしても、お偉い連中と関わりたいとは思わんし、これでいいのよ。


 ま、何事も無いし、歩いてりゃいいんだから楽なもんだ。

 学術院は人払いが済んでるから、今日は会談の関係者以外、誰も居ない。

 静かだ。そして天気もいい。

 なんとも穏やかな日だよ。


 だから改めて思うわけ。

 平和だな、と。

 かつて味わった、あの途方もない恐怖。

 あれを知ってるからこそ、この平和の貴重さが俺には分かるのよ。


 日射しは暖かく、そよ風は心地いい。

 青い空を、真っ白な雲がゆっくりと流れていく。

 ああ、何にも脅かされることなく、日々を生きてゆける。

 それはすごく幸せなことだ。

 いつの間にか、こんな当たり前のことを忘れてたんだな、俺は。


 何も起こらない日常。

 何も無いという幸せ。

 安穏とした感情が、じわりと暖かく胸を満たす。

 これを安らぎと言うんだろう。


 世は()べて事も無し。

 空を振り仰ぎ、優しい陽光に目を細める。

 少し離れた場所に、会談場所となっている尖塔が見えた。

 古いが風情のある、その塔。

 青空によく合う佇まいだ。


 俺は立ち止まり、何となく尖塔を見あげていた。

 ぽかぽかと心地よい陽気に、つい笑顔になってしまう。

 ああ、平和だ。

 平和だなあ。





 その時。


 轟音が響いた。

 同時に尖塔の上部で外壁が弾け、爆炎が舞いあがる。


 ……………………。


 世界がスローモーションに見える。

 俺の視界で、ゆっくり、ゆっくりと塔に穴が開く。

 そして炎をまき散らしながら、外壁が崩れていった。


 がらりがらりと凄まじい音をあげ、瓦礫の群れが落ちていく。

 それが講堂の屋根を直撃し、やはり大きな音をあげた。

 屋根は崩れ、尖塔の下半分を隠すほどに巨大な土煙が舞い上がる。

 続いて、燃えた木片が一帯にばらばらと降り注いだ。


 半壊した塔。

 充満する煙。

 舞い散る炎。


 今なお、すべてがスローモーションだった。

 視界の中で、世界がゆっくりと姿を変えていく。


 俺の思考はどれぐらい固まっていたのだろうか。

 数秒なのか、数分なのか。

 土煙の焦げ茶色に脳を塗り潰されたかのような感覚。

 何も考えられなかった。考えることを拒否したかった。


 しかし、目に映る情景はあまりにリアルで。

 疑いようもなくこれは現実で。


 やがて俺の喉から、絶叫が迸る。


「ちょっと待てえええぇぇぇェェェェェェェェェェェ!!」


 ◆


 なんとも偉そうなおっさんの彫像。

 まあ実際、偉いんだろう。彫像になってるんだから。

 きっと初代学院長とか、そんなだ。知らねえけど。


 知らねえけど感謝するぜ、初代学院長に。

 こいつの裏がいい感じの死角になってて、俺はそこに隠れることが出来たんだ。

 つっても気が気じゃないけどな。


 どこから湧いてきたのか、武装した連中が、そこら中に居やがる。

 あれ多分、教会の人間だ。

 そんで、まあ、味方ではないわな。状況を見るに明らかだわ。

 あの爆発、あいつらの仕業だろ。


 俺のお仲間の警護隊連中が押さえようとしてたけど、返り討ちに遭ってた。

 隠れる俺の目の前でな。

 名も知らぬ仲とは言え僚友は僚友。

 俺に責任感があれば、仲間の危機に飛び出していっただろうけど、でも俺だからな。

 すまんが悪く思うなよ。


 それに敵の中には、済生軍っぽいのも居た。

 俺も済生軍に居たし、装備から何となく分かるのよ。

 連中、霊峰でがっつりやられてるけど、生き残りは居るからな。

 そんでやっぱり強えわけだし、立ち向かってもいいこと無いぜ。


 かくして俺は初代学院長の威光の陰に隠れ続けてるわけだ。

 さっき、門が閉まる音も聞こえた。

 外にも逃げらんねえ。

 どうすんだよ頼むよほんと。

 泣きそう。


 うお!?

 今また爆発音が聞こえた!

 このすぐ近く、中央棟の内部からだ。


 ヤバい!

 このへんに敵が集まってくるぞ!

 くそ! ここを離れねえと!


 ああもう!

 何なんだよ!

 何なんだよもう!


 見まわして敵が居ないことを確認すると、俺は脱兎の如く駆けだす。

 名残惜しさに彫像をちらりと見ると、前面のプレートには二代目出納長と書いてあった。

 すげえ微妙な人の彫像を作ったもんだな。どんな功績を挙げたんだろうか。

 いや重要な仕事なんだろうけどよ。


 違う! それどころじゃない!

 隠れ場所を探さないと!

 世話になったな出納長!


 ◆


 物陰から物陰へ移動していく俺。

 どれほど逃げただろう。

 気がつけば、よりにもよってあの講堂の傍に来ていた。

 敵を避けて逃げてたら、こっちに来ちまったんだ。

 マズいだろここは。


 ん?

 今、半壊した尖塔から何かが飛び降りた。

 ように見えた。

 その跡をなぞり、空中に黒い線がまっすぐ引かれてる。

 墨を流したような線が。


 どこかで見たことがあるような黒い軌跡。

 俺はそれが気になり、慎重に講堂へ近づいて、入口から中を覗き見た。


 ………………。


 最初、その一角だけが、美麗な点描画のように見えた。

 誰かが戦っている。

 たぶん美しいが、あまりにも苛烈だ。

 しかし、それだけに惹きつけられる。


 現実離れしているような、だがそこには生と死があって、つまりは現実の極地でもあるような。

 点描画を為す黒い点たちは、意思を持つかの如く舞っている。

 煤。

 そう、あれは煤だ。


 そして煤を描き出しているのは黒い剣だった。

 講堂の屋根は崩れており、中には陽光が射している。

 だが剣は光をまるで反射していない。

 黒い。

 艶の一つも無い、どこまでも黒い剣。

 闇が躍っている。


 その闇を手にする男も、漆黒の出で立ちだった。

 いかにも腕っぷしの強そうな大男で……。


 ………………。


 ………………。


 ヒイイイィィィィィィィィィィァァァアアア!!


 手で口を押さえて、悲鳴を押し留めた。

 悲鳴の代わりに、冷たい汗が全身から噴き出す。


 あいつは!

 あの剣士は!!

 恐怖という概念が顕現したかのようなあの!!

 あの男は!!


 霊峰で見た悪夢!!

 悪魔(セイタン)だ!!


 た、確かに奴は将軍らしいから、講和会談に出席しててもおかしくない。

 でも、じゃあ何で戦ってんだよ! 講和はどうした!

 信じよう! 明日を!


 そんな俺の声なき叫びを余所(よそ)に、奴は敵のほとんどを倒した。

 残った敵と何か話してるようだが、そんなのどうでもいい!


 逃げるんだ!

 急げ!

 生存本能のすべてが大音量の警鐘をかき鳴らしている!

 葬送曲のように!


 その葬送曲をバックに俺は走る!

 とにかくここから離れるんだ!


 ◆


 足をもつれさせながら、何度も転びながら、俺は走り続ける。

 酸素が足りず、目が回るが、それでも走った。


 やがて講堂から遠ざかり、僅かながら思考力が戻る。

 すると、前方の角の向こうから話し声が聞こえてきた。

 敵だ。二人いるっぽい。

 ヤバい! 引き返さねえと。


 ……ダメだ!

 引き返せない!

 この方向には足が動かない!

 俺の心が、奴に、悪魔(セイタン)に近づくことを拒否している!

 哀れにも慟哭している!


 どうする!?

 どうする!?

 俺は涙目になりながら周囲を見まわす。

 滲んだ視界に映ったのは、近くに置かれた荷車だった。

 荷台には布がかけられている。


 もうここしか無い!

 俺は荷台に乗り込み、布の下へ身を隠した。

 そして低く伏せ、息をひそめる。

 やがて二人組が近づいてきた。

 緊張に、心臓が早鐘(はやがね)を打つ。


「荷車は……これか」


「なるほど、目立たないな。こうやって武器をあらかじめ持ち込むとは、味方ながら巧みだ」


 ヒョッ!?

 荷車!?

 いま俺が積載されてるこれか?

 いや、きっと違う!

 これじゃありませんように!


「よし、行くぞ」


 俺の願いもむなしく、がたりと音がしてこの荷車が動き出す。

 そうだよな。

 これのほかに荷車なんて無かったもんな。


 くそ!

 こんなことってあるのかよ!

 もう最悪だ!

 本当に本当に最悪だよ!


「どこへ運べば良いんだ?」


「向こう。北側だ」


 荷台が揺れる。

 その荷台に伏せる俺の横で、がしゃりと荷物が音をたてた。

 そこにあったのは何本もの戦棍(メイス)。何本もの槍に剣。

 武器とか言ってたもんな。

 この荷台には、殺しのための道具が大量に積まれてるわけだ。

 それと人畜無害な俺が。


「あの魔法、認識を阻害しているのか? 誰も地下に立ち入れないんだろう?」


「ああ。秘された魔法の一つだろうな。隠し玉だよ」


 え、なに?

 それって俺が聞いてもいいやつ?

 よくないんじゃないの!?

 知った人間は消される方向性のやつなんじゃないの!?


「それにしても、爆発で王女を仕留められなかったのは痛いな」


「逃がさんさ。時間の問題だよ」


「連合側のやつらも殺し切れるか?」


「問題ない。増援も向かって来ているしな。袋のネズミだ」


 陰謀の中身をべらべら喋るのはやめろぉ!

 聞かせるな! 俺に!

 陰謀をやるなら、もっとちゃんと暗躍しろ!

 自覚が足んねえぞ畜生!


「そうだな……。このまま片付ければ良いだけの話だ。講和など、世界に対する冒涜でしか無いのだから」


 だから聞かせるな! そういうのを!

 世界がどうとか、そんな話は余所(よそ)でやってくれ!

 巻き込まれたくねえんだよ!

 コオロギはなあ、物陰に居たいんだよ!

 大きな舞台に踏み出したいとか思ってねえんだよ!

 考えろ! コオロギの気持ちを!


 ああダメだ。

 感情が、ぐちゃぐちゃになっていく。

 どうしてこうなった?

 どこでしくじった?

 答えの出ない問いを繰り返しながら、それでも死ぬ気で息を潜める。

 そんな俺は荷台に揺られながら、ただ運ばれていくのだった。


 ◆


「よし、この辺りで良いんだな?」


「ああ。ここに置いておけば、仲間が回収に来る」


「あそこの書庫は誰がカバーする?」


「間もなく別の班が配置につく。ここに哨戒網を敷けば、西棟へのルートを塞げるからな」


 そんなことを話し、奴らは去っていく。

 計画に対してよほど自信があるのか、連中は荷台を(あらた)めなかった。

 まだ俺には運が残ってるのかもしれん。


 布の下から這い出て、俺は荷台を降りた。

 しかし上手く立てない。

 膝がガクガクと震えてる。

 くそ。

 深呼吸だ、深呼吸。


 落ち着いて、肺の中の空気を入れ替える。

 とにかく冷静にならなければ。

 脳に酸素を送るんだ。


「ふぅーーー……。はぁーーー……」


 少しずつ膝の震えが収まっていく。

 危険から遠ざかれば、冷静にもなれるというもの。

 どうにか、まともな思考力が戻ってきた。


 さっきの連中、書庫と言ってたが、じゃあここは西寄りの北側だな。

 少し離れたところに建物が見えるが、確かにあれは書庫だったはずだ。


「…………」


 それにしても。

 世界だの冒涜だの、何だかな。

 ま、世の()くすえを決める講和会談だからな。邪魔したい奴も出てくるか。

 くっそ下らねえことで得しようとする連中って居るもんな。


「うーむ……」


 なんか、落ち着いたら少し余裕が出てきたな。

 度重なる危機を乗り越え、俺も成長したと見える。

 問題はこれだよ。この荷車。

 このままここに置いといていいのか?

 積まれてる大量の武器、奴らが使うんだろ?

 あの二人の話を聞く限り、明らかにいけ好かねえ連中なんだよな。


「……隠しちまうか?」


 武器を手に立ち向かえと言われたら断固御免(こうむ)るが、隠すだけなら別にな。

 ええと……おっ。

 植栽が途切れてる箇所がある。

 あそこにこの荷車がすっぽり入りそうだ。


 決めるが早いか、俺は荷車を引いた。

 重いなこれ。

 よくもこれだけの武器を揃えたもんだ。


 よいしょ、よいしょ。

 ごろごろと車輪を鳴らし、植栽と植栽の間へ。

 そこに荷車を押し込むと、一つ息を吐く。


「オーケー。これでいいだろう」


 さて、俺はどうする?

 上手く隠れたいが、どこへ行けばいい?

 あの書庫は敵が配置につくって言ってたしな。


 ん、この植栽。

 中に入れそうだな。

 こりゃあいい。

 植栽の中まで探す敵は居ないだろう。

 冴えてるな俺は。

 やはり成長してる。


 よしよし……。


 ◆


 植栽の中は、思いのほか居心地がよかった。

 外の様子も分かる。

 あの後、奴らが言ってたとおり、敵がやって来て書庫に陣取っていた。

 あそこに隠れてたらヤバかったな。


 連中、窓から外を監視してやがる。

 王女サマや魔族どもは元より、目撃者は全員逃がさんって(はら)だろうな。

 おっかねえ話だ。

 だが、ここに居りゃあ見つからんだろ。

 やり過ごすとするさ。


 なかなか冷静なんじゃねえか? 俺。

 戦場を知るだけのことはあるな。

 おっと、一応ほかの方向も確認しないと。

 状況の把握が大事だぜ。


 ん?

 誰か来た?

 書庫と反対の方角からだ。

 あれは……。


 ………………。


 ………………。


 ホギャアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァ!!


 悪魔(セイタン)!!

 何でだよ!

 何でまた現れるんだよ!


 分かるぞ。

 奴のお仲間である死神が、いま俺の背後に居る。

 そんで長い人差し指で、長い爪の先で、俺の背筋を撫でてる。

 つーーー……って。


 ぞくぞくと全身が震えた。

 間近に迫った絶望を、ありありと感じる。

 ダメだダメだ!


 頼むよ悪魔(セイタン)

 近寄ってくるな!

 どっか行ってくれ!

 お願いだ!


 奴には連れが居るようだ。

 おのおっさん、確か近衛か?

 いや、それより悪魔(セイタン)だ!

 来るなよ!

 こっちに来るんじゃねえぞ来たァァァァァァ!!

 ぐおおおお! 何でだ!

 俺をイジめるのが楽しいのか?

 俺が何したってんだよ!


 どうやら奴は、書庫へ攻撃をかけようとしてるようだ。

 側面からの突入を狙ってるんだろう。

 植栽の陰に隠れながら、こちらへ向かってくる。


 そう。植栽だ。

 まさにその植栽の中に、俺は居る。


 鮮明に憶えてる。

 あの霊峰で谷へ落ちた時。

 滑落する中、俺の脳裏を埋め尽くしていたのは奴の黒い瞳だった。

 あの時、俺に刻み込まれたんだ。

 本物の恐怖ってやつが。


 そして今、近づいてくる。

 あの黒い瞳が。

 そこに。

 すぐそこに!

 荷車の後ろを通って、こっちへ来る!


 うおおおぉぉぉぉぉ!!

 居る!!

 目と鼻の先!!

 この植栽の陰に身を隠して、書庫の様子を伺ってる!!


 ダメだ!

 震えるな! 音を立てるな!


 カチカチと暴れそうになる歯の根を、死ぬ気で食いしばって抑え込んだ。

 そして逆流してくる胃液を、喉で押し留める。

 口の中は完全に乾き切り、全身を冷たい汗が覆っていく。


 くそう! 調子に乗っちまった!

 成長したとかワケわかんねーこと言ってたらこんなことに!

 俺みたいのが分不相応なことを考えたらこうなるんだ!

 荷車なんか放っときゃよかったんだよ!

 あああああもう!!

 居る! そこに居る!

 悪魔(セイタン)が!

 ヤバいヤバいヤバい!


 とにかく気配を消すんだ!

 いや、でもこんな達人から気取られないようになんて出来るのか?

 俺だぞ?

 そんで敵意を感知したらオートで剣が飛んできたりするんじゃねえのか!?

 絶対そうだろコイツおかしいもんよ!

 次の瞬間に、俺は死んでるかもしれねえ!


 落ち着け! 落ち着け!

 敵意なんか持っちゃいねえ!

 ただコイツとお近づきになりたくねえだけだ!


 気配を消せ!

 無になるんだ!

 俺は路傍の石!

 石だ!

 得意なはずだぜ!

 石ころみてえな人生を送ってきたんだからな!


 そう! 石なんだ!

 どうもこんにちは! 石です!

 無価値な石だぞ!

 分かるよな!?


 俺は全身の震えを抑え込みつつ、ひたすら自身の存在を消す。



 ………………。


 ………………。


 …………全力で石くれになり切った結果、目の前から奴は消えていた。


 植栽の中、振り返ると書庫の方で矢が飛んでいる。

 悪魔(セイタン)が突入していき、そこへ矢が射かけられてるんだ。


「ぶはぁっ!!」


 いつの間にか呼吸を止めてたようだ。

 大口を開け、俺は酸素を吸い込む。

 汗みずくの顔で、ぜひぜひと息をした。


 霊峰で一生分の恐怖を味わったと思ってたのに。

 手が、唇が、まだ震えてる。

 一方、奴は書庫へ入り込んだ。

 遅れてあのおっさんも入っていく。


 書庫を守ってる連中は迎え撃つようだが、正気なのか?

 あれと戦う気かよ。

 意味が分からん。


 呆然と見守る俺の視線の先、ほんの数分だろう。

 戦いは終わり、書庫は制圧された。

 そりゃあそうなる。

 言わんこっちゃねえ。


 悪魔(セイタン)は書庫を出て、おっさんと連れ立ち、歩き去った。

 西側へ向かったみたいだな。


 いや、どこへ向かおうと関係ない。

 関わっちゃダメなんだよ。

 動かず、ずっとこの植栽の中に居るべきだ。


 俺はもう、ここから二度と出たくない。

 このままここで生きていこう。

 今後は植栽として頑張っていくんだ。


 決意を固める俺だった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ヘタレの凡人くん、グッジョブ! [一言] なんか親近感湧く奴だな。 我々と同じ凡人だけど善人だからかな。
[気になる点] >植栽の中まで探す敵は居ないだろう。 植栽の中って、どういうこと?…樹の中ってこと? 幹に穴が空いてるとか? [一言] アンドレ、生きてて嬉しい…これからの述懐を期待。
[一言] 生きてたの!?
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