169_メガトン・パンチ
背後の敵たちは、まだ動き出せずにいる。
俺は尖塔へ向け走った。
煤の剣は、地上から十数メートルほども高い場所にある。
走りながら俺は、ヘンセンの戦いで井戸をよじ登ったことを思い出す。
バラステア砦の兵、カールによって井戸へ落とされた俺は、そこから登って脱出したのだ。
あの時は、僅かな石の継ぎ目を爪で噛むように、時間をかけて登り切った。
今度は状況が違う。
背後に敵たちが居る状況で、時間をかけてなどいられない。
だが、登るのは半壊した尖塔の内壁だ。
井戸の内部とは違い、階段の残骸など、多くの取っ掛かりが存在する。
俺は走りながら内壁を観察し、煤の剣まで登り切るルートを頭に描く。
そして速度を緩めぬまま尖塔へ到達し、瓦礫の一つを強く踏みつけて上へ跳躍した。
それから、内壁に残った階段の残骸へ左足をかけ、また跳躍。
すかさず内壁のへこんだ箇所に右手をかけ、腕の力で体を持ち上げる。
次の瞬間、左手が別の取っ掛かりを掴んだ。
よじ登るのではなく、跳躍を交えながら駆けるように尖塔内を登っていく。
この時点で地上から三メートルほど上がっていた。
「見ろ! 奴の狙いは、あそこにある剣だ!」
「やらせるな!」
俺の目指す先に黒い剣があると、敵も気づいたようだ。
彼らは声を張り上げながら尖塔に駆け寄ってくる。
その声を背に、俺は左腕を畳んで体を引き上げ、頭上にあった窪みを右手で掴む。
その右手を支点に体を揺らし、振り子の要領で横合いへ跳んだ。
そして、内壁の少し離れた場所にあった亀裂へ右足を蹴り込み、勢いのまま上へ跳躍。石壁の突き出た箇所を左手で掴んだ。
「くっ! もうあんな所へ!」
「でかい図体で猿のような奴め!」
最近知ったが、人の登攀能力は、動物の中でかなり上位にあるそうだ。
走るのも跳ぶのも、人は獣に一歩を譲るわけだが、四肢を駆使して木や壁を登る力には、見るべきものがあるらしい。
それを知った時、少し誇らしく思ったものだ。
身体能力を動物と比べて喜ぶというのも、何か幼いようではある。
しかし、どんなことでも、人の可能性は尊ばれるべきだ。
事実、俺は数秒で石の壁を六メートルほども登っている。
そして視線の先には黒い剣。
あの剣があれば、この場に居る敵たちは、物の数ではない。
「おい! あったぞ! 使え!」
敵の一人が叫んだ。
俺は壁に捕まったまま振り返り、下を確認する。
その男が手にしていたのは、一振りの短剣だった。
そういえば、彼らは短剣を探しにこの講堂へ戻ってきたのだった。
俺も剣を回収しに来たわけで、目的は同じということになる。
気が合うとは思わないが。
「よし、貸せ!」
男が短剣を受け取り、振りかぶる。
嫌なことを思い出した。登攀能力以上に特筆される人の能力。それが投擲能力なのだ。
全生物のうち最も正確とされるその能力は遺憾なく発揮され、短剣は、俺の背の中心へ飛んできた。
「く!」
がつりと音をあげ、刃が石に食い込む。
俺は左手一本でぶら下がりつつ身を捩り、すんでのところで短剣を躱した。
半身になった俺の眼前で、剣は石壁に突き刺さっている。
幸運にも、刃は石壁の亀裂に食い込んでおり、刺さったままだ。
敵に二投目のチャンスは与えられなかった。
だが、幸運とセットで不運も訪れる。
俺の手が掴んでいる箇所の石壁が崩れたのだ。
ぶら下がったまま身を捩ったことで負荷がかかったらしい。
「うぁっ!」
ここで落下すれば、下で待ち構える敵の一団から逃れられない。
しかし手は石壁から離れ、俺の体は重力に絡め取られる。
だが、それも一瞬のことだ。
目の前に、石壁の継ぎ目を認めた俺は、そこへ突き込むように手をかける。
継ぎ目は、長さ五センチ、深さ五ミリほどの薄い線だった。
右手の人差し指と中指、薬指の三本で、その継ぎ目を捕らえる。
指先五ミリに全身の体重がかかり、腕がびきりと嫌な音をあげた。
「ぐ……!」
だが、俺は落ちない。
三本の指に全力を込め、体を支えている。
「くそ! しぶとい!」
「生き汚い背信の徒めが!」
下から、悔しがる声が聞こえる。
その声に優越感を感じる暇は無い。
いま俺の顔は、さぞ険しいものになっているだろう。
「……!」
石壁を彷徨う左手が、深さ一センチほどの窪みを見つけた。
全力で腕を伸ばし、ようやく届くその窪みに手をかけ、指先で石壁に食らいつく。
「ふっ!!」
声とともに肺の空気をすべて吐き出し、左手で体を引き上げた。
ぐい、と体は大きく持ち上がり、その先にあった亀裂を足が捕らえる。
それを蹴り上げ、俺はさらに壁を登った。
両手で掴めるほどの、階段の残骸に到達する。
そこに掴まるが、いま筋肉を回復させることは出来ない。
下の敵たちに動きがあったのだ。
上位兵たちの後ろからもう一人、敵が現れた。
血まみれの顔は、その血のみでなく、怒りによって赤く染まっている。
鬼の形相でこちらを見上げるその男は、硝子の雨を受け、倒れていた魔導士だった。
彼は杖をこちらに向ける。
ぞくりと、俺の背筋を冷たいものが走った。
「『火球』!!」
ごう、と音をあげて火の玉が飛来する。
俺にとって、短剣などより遥かに危険なその攻撃は、右側に一メートルほど離れて着弾し、石壁で爆ぜた。
「が……あぁっ!!」
その余波だけでも激甚である。
体中を攪拌されるかのような、皮膚と言う皮膚を焦がすような痛苦に見舞われ、俺は悲鳴をあげた。
一瞬、前後不覚に襲われ、上下の感覚も消失するが、石壁を掴んだ両手だけは放さず、耐える。
そして感覚が僅かだけでも回復した数秒後、腕を伸ばして別の窪みを掴む。
体を引き上げ、いま両手が掴んでいた階段の残骸に足をかけた。
そして全力で蹴り上がり、さらに上部の石壁を掴む。
「はっ! はぁっ!」
呼吸は乱れに乱れている。
それを整える間は与えられない。
「逃がさんぞ! 『火球』!!」
二回目の詠唱。
それが聞こえると同時に、俺は両腕に力を込め、懸垂の要領で上へ跳ぶ。
そして上方にあった次の窪みへ手をかけた。
その瞬間、両足のすぐ下に火球が着弾する。
「があぁぁぁーーっ!!」
魔力の波が全身を襲う。
痛みが蓄積したままの体に、さらなる激痛が注ぎ込まれた。
溢れた痛みが目の中で爆ぜ、視界が明滅する。
四肢を引き千切られるような感覚のなか、しかし両手は放さない。
「おのれ! おのれ! 醜い背教者がぁぁーー!!」
怒りに満ちた魔導士の声。
危機は去っていない。
基本魔法の『火球』なら、さして力の無い魔導士でも連発は可能だ。
その予想のとおり、彼は三度、火球を放ってきた。
「落ちろ! 『火球』!!」
痛みで体が動かない!
手を放して落下してしまえば火球からは逃れられるだろう。
だが、それを選択するわけにはいかない。
俺は全身に力を込めた。
込める魔力は持ち合わせていない。
だがせめて、持てる力を体に漲らせるのだ。
炎の爆ぜる音が、熱をもって耳朶を刺す。
火の玉は、右側に約五十センチ離れて着弾した。
魔導士は全身を激しく負傷しているうえ、怒りに自失している。
結果、魔法は正確に制御されず、直撃は避けられたのだ。
だが、それでも衝撃は恐ろしく強い。
吹き飛ばされぬよう両手で石壁に食らいつく俺の、脳天から爪先までを激痛が駆け巡る。
すべての神経が痛覚に支配され、俺を苛んだ。
「ぐぅ!! ぐぅーーっ!!」
無様である!
俺は家守のように壁にへばりつき、首を竦めて耐えている!
しかし醜態を晒すことを恐れはしない!
俺が恐れるのは、約束を守れぬことだ!
あの会談で、豪語したばかりではないか!
いま交わされている約束を守ると!
ならば手を放すわけにはいかない!
上方へ目を向け、明滅する視界にそれを捉える。
もう、すぐそこだ。
あと一メートルという場所にそれはある。
壊れた階段の上。
煤の剣がそこにある。
お前が来い!!
俺は胸中にそう叫んだ。
あまりに道理に合わぬ、そして恥ずかしげも無い叫び。
だが思わずにはいられなかった。
俺たちは対等である筈。
俺ばかりが、こうも苦労するのは納得がいかない。
俺は剣へ向けた視線に力を込めた。
その視線の先、壊れた階段の上で不安定に横たわっていた剣が、ぐらりと揺れる。
俺の思いに呼応したのか。
或いは、三度に渡って魔法が着弾したことによる衝撃のためか。
普通に考えれば後者であろうが、果たして。
とにかく煤の剣は、高い尖塔の上部から落ちてきたのだ。
俺は、力を振り絞って石壁を蹴り、空中へ身を投げ出した。
そして手を伸ばす。
その手の中に、黒い剣は真っすぐ飛び込んできた。
掴む。
同時に、腕が下に引っ張られた。
ぐん、と。剣は俺を地上へ連れていく。
いくら比重が大きい剣でも、それを空中で掴んだところで、こうはならない筈だが……!?
剣はまるで、何かに逸っているかのようだ。
「!」
こいつは……。
怒っている?
お前、それは怒っているのか?
激怒しているじゃないか。
お前が何者かは知らないが、しかし、常に滲ませる僅かな怒気には気づいていた。
だがそれにしても、ここまで怒り、猛るとは。
そうも憤怒を極めるなら、真っ当な理由があるに違いない。
多分だが、お前はそういう存在なんだろう。
今日、何が起きているのか。
実際のところ、俺にはよく分かっていない。
今の俺では、とても理解へは至れないのだ。
裏にある何かが悪辣を極めると感じてはいるが、それ以上は知る由も無い。
だがいずれにせよ、お前がそこまで猛るなら。
お前がそこまで肩を震わせるなら。
乗った。
そうとも。俺も一口乗ろうじゃないか。
「 『火球』!!」
「せいっ!!」
またも火球が飛来する。
空中に居ては躱しようが無い。
だが躱す必要は無い。
黒い刃は一瞬で火球を斬り裂き、消滅せしめるのだった。
剣を握る両手が、じわりと熱を帯びる。
怒り。
怒りだ。
こいつをどうする?
この怒りをどうする?
「…………」
そうだよな。
分かっているじゃないか。俺もそう思っていたんだ。
嫌いじゃない。
実は俺も、そういうのが好きだ。
そんなふうには見えないだろう?
何せいつも、分別ある紳士たれと心がけているからな。
だが、ここはそれで行こう。それしかない。
叩きつけるんだな? このまま真っすぐ、ぶち込むんだな?
よし……心得た!
「お」
「お……!」
喉から声が漏れる。
叫びだった。
魂が叫びたがっている。
それを理解した俺は、腹に力を込めて怒号をあげた。
「雄ぉぉぉぉぉぉーーー!!」
空中を駆け降りる。
血液を沸騰させるような怒りは、手のひらから体中に伝わっていく。
瞬間、俺は炎を幻視した。
俺の体を包むその炎は真っ黒で、しかしやけに澄んだものに感じる。
「ぜぇあああああ!!」
重い音がずどんと轟き、講堂がぐらりと揺れた。
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