126_寂寥に喘ぐ
堕胎に関する描写が含まれます。
ご留意ください。
霊峰ドゥ・ツェリン。
次の戦いの場。
ロルフたち魔族軍が間もなく攻め入ってくる地である。
山肌には岩が多く、木々は少ない。荒涼とした灰色の山である。
そこに濃い霧が立ち込める光景は神秘的で、ここが神の御座であることを人々に信じさせる。
礼拝の時期には、神の息吹に触れたいと願う多くの信徒たちが訪れるのだ。霧に覆われ、谷もあるが、標高は低く、勾配ゆるやかな山であるため、正しい道を通れば危険は少ない。
信徒たちがその道の先に目指すのは、山頂に建つ大神殿である。
その大神殿で、いま会合が持たれていた。
ある者は神事と対極にあると捉え、またある者はそれこそ神事と言うであろう会合。
軍議である。
「第一騎士団、第二騎士団、ともに到着しております」
その報告を受け鷹揚に頷くのは、この地の領主であり、またヨナ教の司教でもある男。
バルブロ・イスフェルト侯爵である。
「済生軍の状況はどうか」
「は。編制は予定どおり完了しました。全軍投入可能です」
同じ動作で頷くイスフェルト侯爵。
戦いが始まろうとしているこの状況にあっても、態度に乱れはない。
その様に、部下たちは安堵を覚える。
攻め入る敵は大軍で、三方から霊峰を落としに向かってきている。
その敵は魔族軍ばかりではない。
事前に予想されていたとおり、王国の反体制派も挙兵したのだ。
迫る大兵力。イスフェルト領が始まって以来、大神殿が建てられて以来の異常事態である。
にもかかわらず、イスフェルト侯爵に焦りは見られない。
事態を軽く見ているのではなく、十分な備えをしたうえで、この状況を迎えているからだ。
その態度は部下たちにも伝播する。
大きな戦いを前にしても、狼狽える者はこの場に居なかった。
彼らの済生軍は精強で、兵数も多い。
全軍を糾合すれば、騎士団ひとつ分より多いほどだ。
そして今回は、まさに全軍の糾合に成功している。
そこへ王国の最高戦力。
第一騎士団および第二騎士団である。
王女が約定したとおり、彼らはすでに到着している。
さらに霊峰は要害である。
低い山だが、越えられぬ谷が幾つもあり、山頂へ至るルートは制限されている。
地形が、攻め入る側に大きな不利を強いるのだ。
それらを思えば、この場に居る幹部たちに恐れは無い。
神の名のもと、愚か者たちを断罪するのみである。
「信徒の立ち入りは禁止していような」
「は。元より礼拝の時期には遠いこともあり、もうこの地に一般信徒は居りません」
侯爵の問いに、幹部のひとりがそう答えた。
今、霊峰に人の姿は無い。
これから戦う者を除いて。
一般信徒を遠ざけることは、王女セラフィーナから、固く申し渡されていたことだった。
侯爵としても否やは無い。
今回の敵の中には、人間も含まれている。
魔族だけではなく、人間も斬り伏せることになるのだ。
信徒たちに見せたい光景ではなかった。
「足止めの方はどうか」
侯爵が問うたのは、敵が霊峰に至る前にこちらから接敵し、進軍を止めるという策についてだ。
要害である霊峰に引き込んで戦うのは良いとして、正直に三正面作戦を許す必要は無い。
三方いずれかの軍を足止めし、敵が霊峰に攻め入るタイミングをズラしてやるだけでも、良い状況を作れるはずだった。
「反体制派なら足止めも可能かと思われたのですが、敵の進軍も巧みで。難しいようです」
幹部が、やや申し訳なさそうに答える。
狙っていたのは、霊峰の外での会戦ではなく、工作で敵の進軍速度を抑えることだ。
最も兵数の少ない、東から来ている反体制派に対してならそれも叶うかと思われたが、そうもいかないようである。
だが、侯爵に失望した様子は無い。
概ね予想どおりだったのだ。
「敵もそのあたりは予想して進軍計画を立てている。警戒も十分だろう。やむを得ん」
済生軍の最高司令官であるイスフェルト侯爵は、軍務においても優れた知見を持っている。
情報の重要性を正しく理解しており、敵に関するデータも詳細に集めてあった。
したがって反体制派のリーダー、デニスが頭の回る者であることも心得ており、足止めが難しいことも織り込み済みなのだ。
「だが、この報告によると反体制派の兵数は想定より少ないな。兵力を秘匿しつつ進軍しているのかもしれん。気をつけろ」
「はっ。魔族どもの兵数は想定どおりですが、やはり大兵力です」
「ああ、油断できん。だが警戒すれども萎縮はせぬように。御山におけるこちらの有利は変わらない。そのうえ神器もある。必要なら禁術の使用も辞さぬ」
女神ヨナによってもたらされる、様々な奇跡。
魔力を持たぬはずの人間が魔法を行使することもそのひとつ。
そしてこの大神殿には、ほかにも神の御業が存在するのだ。
それを向けられた異教徒に、生き延びる術は無い。
教団に言わせれば、何人も、神の威光から逃れることはできないのだ。
「禁術まで? そんなもん無くても勝てるでしょう」
突如、場にそぐわぬ、くだけた口調で声を上げたのは無精髭を生やした黒髪の男だった。
周囲に居た幹部のうち何人かは眉を顰め、何人かは「またか」と言いたげに呆れた顔を見せる。
だが侯爵は表情を変えない。
「スヴェン。おいそれとは使わぬ。禁じられているから禁術なのだ」
「知ってますよ。魔族の生贄が百人ほども必要というアレでしょう」
スヴェンの言葉には、やや嫌悪感が滲んでいるようでもあった。
軽々に神威へ縋ることを良しとしないようだ。
「ではスヴェンよ。神器の方はどうする? お前が使うか?」
イスフェルト侯爵が問う。
スヴェンは、剣技については済生軍でも随一である。
神器と呼ばれる強力な剣を持つに相応しいのは彼なのだ。
その点は、彼の態度を快く思わない者も含め、皆が認めるところであった。
「んー、考えときます」
スヴェンがすげなく答えると、その態度を気にしたふうも無く、次にイスフェルト侯爵は別の者へ声をかけた。
侯爵の視線の先に居たのは済生軍最強と称される魔導の天才。
スヴェン以上の勇名を持つ者である。
「アルフレッド。戦う準備はできているか?」
「ええ、いつでも」
端正な顔立ちをしている。
耳まで隠れる美しい金髪が特徴的な男であった。
侯爵の息子、アルフレッド・イスフェルトだ。
「御山を荒らす者たちへ、罪を教えてやりましょう。女神ヨナの名のもとに」
怜悧なまなざしに、冷たい声音。
大きな戦いを前に、気負いも高揚も感じさせず、彼は答えた。
◆
神殿内にて幹部たちの軍議が行われているころ。
その神殿の脇へ設えられた花壇の前にしゃがみ込む、大きな背中があった。
背も高く、肩幅も広い。
その大きさからは分かりづらいが、それは若い女の背中だった。
茶色い髪は短くウェーブがかかったクセ毛で、面立ちはやや牧歌的。歳は二十歳前後。
その顔に汗を浮かべつつ、しかし口元に僅かな笑みを湛え、せっせと花壇の世話をしていた。
花がとても好きなことが見て取れる。
「お前さんら、綺麗な花を咲かすだぞ」
穏やかな声は、その声の主の心根もまた穏やかであることを表していた。
それに合わせるように名も淑やかで、女はマレーナと言った。
だが、彼女が名で呼ばれることは少ない。
「おいデブ!」
「あぐっ!?」
背中に強烈な衝撃。
蹴られたのだ。
そのまま彼女は、花壇に倒れ込んでしまった。
花に向けていた優しい笑顔が、たちまち痛みに歪む。
「二、三日のうちに敵が攻めてくるってのに、土いじりなんかしてる場合かよ! 防具の手入れは全員分終わったのか!?」
「お、終わってるだよ。ちゃんと倉庫に……あ、これ!」
「あん? なんだそれ」
「お、お守りだよ! 樫の木炭で作ったやつ! みんなの分もあるだ! おらの村ではよく……」
「いるかよ! そんなもんで勝てるわけねえだろ!」
「うぐっ!」
再度、蹴りつけられるマレーナ。
それから男は吐き捨てるように言って去って行った。
「暇なら剣でも砥いでろ! 言われねえでも動け!」
だが、勝手に剣に触れば、それを理由に暴力を振るわれていたに違いない。
男は嫌悪の対象へ、向けるべき嫌悪を向けただけなのだ。
「う……」
のろのろと起き上がるマレーナ。
マレーナが倒れ伏したことで、花壇が荒れてしまっている。
「あ……ごめんな」
そう言って再びしゃがみ込み、荒れた株を植え直す。
きっと綺麗な花を咲かせるはずなのだ。
その美しい花々を頭に思い浮かべ、笑顔を浮かべてせっせと花壇を整えるマレーナ。
だが笑顔は悲痛だった。
「ごめんな……ごめんな……」
一生懸命に手を動かしながら、マレーナは花壇に謝り続けた。
それは、酷薄な運命を押し付ける何かに許しを乞うているようでもあった。
マレーナは幸福ではなかった。
貧しい農村の生まれで、八歳の折、両親を病に奪われる。
だが、その地を教区としていたヨナ教の助祭に引き取られ、以後は教会で暮らすこととなった。
助祭の善行は必ずしも善意によるものではなかった。
名望を得て地位を高めるための児童養護である。
だがそれは珍しい話ではない。
マレーナは、食い扶持のため、歳にそぐわぬ労働を強いられたが、日々を生きることはできた。
親も頼るあても無い彼女にとって、寝床と食べ物を与えられるだけで十分に有り難かった。
だが、十四歳のある日、マレーナの人生はさらに不幸の度合いを深める。
彼女に魔力があることが分かったのだ。
神疏の秘奥を受ける前にである。
人間は魔力を持たない。
秘奥を受け、初めて授けられるのだ。
だがマレーナは、それ以前から魔力を持っている。
あり得ない話だ。
これは、優れた才能と讃えられる類のものではなかった。
女神ヨナと繋がることで初めて与えられるはずの魔力を、何故か持ってしまっているという点は、教団のシステムの否定なのだ。
加えて、彼女の魔力に説明をつける、ある仮定が立ってしまう。
マレーナに魔族の血が混ざっているという仮定である。
魔族は生まれた時から魔力を持つ。
その血が流れているなら、彼女の魔力にも説明がつく。
数代前のどこかに、魔族が居るのかもしれなかった。
だが、この仮定を許容することは、教団にとってあり得ない。
ヨナ教では、魔族を滅ぼすべき劣悪種と捉えており、人間と同等とは見ていない。
人間と魔族の間に子が生まれることは無いとしているのだ。
とは言え、これは教義における建て前であり、現実は違う。
殆どの人間は魔族を性愛の対象としないが、魔族の奴隷を慰み者にする"好事家"が、意に反して子を生してしまうケースは稀にあるのだ。
しかし出産されることはまず無い。
王国も教団も、それを許しはしない。
そのような子を生かし、育てたことが知れれば只では済まないだろう。
混血を存在し得ぬものと位置づける以上、それを育てることに対する罰則も存在しないが、しかし見逃されることは無いのである。
それは、奴隷を孕ませてしまった者たちにとっても、分かり切っていることだった。
そもそも、彼らにも子を祝福する思いなど無い。
よって、人間と魔族の間にできた子は、一切の記録に残ること無く、堕胎されるのだ。
だが、中には例外も存在し得る。
網目を抜けたケースはあるだろう。
そんな、存在し得ぬ者の血がどこかで混ざった。
そう推測されるのがマレーナなのだ。
あくまで推測であることと、また、彼女を引き取った助祭がすでに遠地に赴任しており、彼女に関して何らかの責を負う者がすでに居なかったことから、マレーナは謀殺の憂き目に遭わずに済んだ。
だがそれもいつまで続くか。
見咎められることが無いのは、マレーナが路傍の石だからである。
教団や王国で強い権限を持つ者に彼女のことが知れれば、そのような危うい存在は摘み取っておくべし、という判断が為されることだろう。
それはそう先のことではない。
そして、その日が来るまでマレーナと共にあるのは、ただ差別と迫害のみである。
魔族の血が流れると噂される彼女に、教団内でまともな待遇が与えられるはずも無かった。
すでに魔力を持つ以上、神疏の秘奥は与えられない。
労働は苛烈になるばかりで、暴力も日常茶飯事。そして寝食は粗末だった。
にもかかわらず、体質ゆえか体は大きく育っていた。
そしてそれもまた、彼女が人間と異なる存在であることの根拠であるように捉えられ、迫害はより強くなったのだ。
数年前に済生軍へ徴発され、僻地で雑用に追われる日々を過ごしたが、ここでも迫害を受けるのみ。
今回の戦いへ招集され、この大神殿に来たのは数日前だが、やはり差別は変わらない。
共に招集されてきた旧知の者たちから、暴力を受け続けていた。
だがマレーナにとって、暴力は大きな問題ではなかった。
彼女を苛むのは、もっと別のものだったのだ。
ぼろり、と。
涙が落ちて、花壇に染みを作る。
「う……」
嗚咽が漏れた。
努めて作っていた笑顔が、ぐしゃりと崩れる。
「うっ……ぐ……」
彼女から十数メートル離れた場所を、何人かの兵が談笑しながら歩いていく。
涙の向こうに滲むばかりだが、マレーナにとって眩しい光景だった。
これまで何度も、楽し気に語らう者たちの輪へ、マレーナは近づいていった。
笑顔を浮かべ、自分も輪に入れてもらえると思って。
だが彼女を持っていたのは罵詈雑言だった。
そして暴力と共に追い返された。
最初はマレーナにも、何事なのか分からなかった。
皆の虫の居所が悪かったのかと思い、また何度か笑顔と共に歩み寄るが、そのたび叩き出された。
その度に泣き、そしてやがて理解する。
自分は嫌われている。
八歳まで居た農村には、優しい父母こそ居たが、同じ年頃の友達は居なかった。
教会に引き取られてからは、働くだけの毎日で、誰とも話すことが無かった。
そして軍に徴発されてからも、この状況である。
ぼろりぼろりと、大粒の涙が零れていく。
嗚咽と共に、大きな体が震える。
「さ……淋しいよう。お、おらぁ……淋しいよう」
マレーナはひとりだった。
だが不幸なことに、彼女は孤独が嫌いだった。
父母を失ってより孤独しか知らぬ彼女が孤独を嫌うのは、悲劇と言うほか無い。
「淋しい、淋しいよう…………。おっ父、おっ母。会いてえよう…………」
友達が欲しかった。
ただそれだけなのだ。
だが酷薄な世界は、それだけの願いすら叶えてはくれなかった。
少なくとも、今のところは。
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