5話 少女のくちづけ
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「きみは……」
まったく、わけがわからなかった。
突然、奇妙な岩が砕けて、なかから女の子が現れたのだ。
混乱するのは当然だった。
数秒、呆気に取られる。
この状況で、それは致命的な隙といえた。
「ガァアアァアア――ッ!」
直後、雄叫びをあげて、オーガが飛び込んできたのだ。
「しまっ……!?」
仕方がないこととはいえ、突然の出来事に意識を奪われていたせいで、対応が間に合わない。
盾をかまえる暇さえなかった。
振り下ろされる棍棒を、僕は呆然と見上げて――
「邪魔をしないでください」
――しっとりとした少女の声が耳に届いた。
「な……っ」
僕は目を見開いた。
自分の頭をかち割る寸前だった強烈な振り下ろしを、割り込んできた人影が受けとめたからだ。
岩のなかから現れた、あの謎の少女だった。
手にした薙刀の柄が、太く重い棍棒を苦もなく受けとめて――。
「え……えええっ!?」
次の瞬間、オーガの巨体が突っ込んできたのとは逆方向に吹き飛んだ。
筋骨隆々の身長3メートルの巨体が、まるで投石器で飛ばした小石みたいに広間を横切った。
巨体が壁面を爆砕して、立ち昇る土煙のなかに消える。
「……」
その場に残されたのは、装束のすそを割って長い脚を突き出した少女の姿だった。
しなやかな曲線を描く少女の脚に目を奪われながら、僕は呆気に取られてしまう。
まさか蹴り飛ばした……?
あのオーガを?
ありえない。
オーガはダンジョン下層のモンスター。
それも、肉体強度に特化したタイプだ。
上位冒険者である黄金級冒険者でも、こうもあっさりと蹴散らすことはできないだろう。
とすれば、上位冒険者でもさらに上。
国にひとつかふたつしかパーティがない魔法銀級冒険者クラスか。
だけど、彼女はこの迷宮に鎮座していた大岩から現れた。
とすると、むしろもうひとつの可能性のほうがありえる。
「まさか、モンスター……?」
人型のモンスターというのは、非常に珍しいが存在しないわけではない。
これまでも、どこかの迷宮で見付かったとか、討伐されただとかという話を、何度か聞いたことがあった。
目の前の彼女も、その一体だというのなら、この無茶苦茶な力も納得がいくのだ。
だけど……だとすれば、これはまずい。
そんなの、自爆覚悟で刺し違えることさえ不可能じゃないか。
「……」
蒼褪めた僕の姿を、少女の琥珀色の瞳が捉えた。
それだけで、まともに息もできない。
思考も体も硬直してしまっている。
だから――ほとんど、それは不意打ちと言ってよかった。
「……え?」
こちらを見詰める少女の整った顔に、微笑みが広がったのだ。
いかにも、嬉しそうな表情。
親しさだけを示して、笑顔の花が咲く。
そして、彼女は言った。
「お久しぶりです、主様」
……わけのわからないことを。
「なんだって?」
そう尋ね返したのは、当たり前のことだと思う。
主様?
なんの話だ?
というか……話しかけてきた?
そういえば、さっきも「邪魔をしないで」とかなんとか、オーガを蹴り飛ばしたときに言っていたような。
モンスターと会話が成立するなんて話は聞かない。
だったら……。
「言葉を話せる……きみはモンスターじゃなくて、人間なの?」
「私がモンスターかどうか、ですか?」
少女はいかにも不思議そうな顔をした。
変なことを訊かれたという反応だった。
ということは、やっぱりモンスターじゃないのか。
そう思った僕だけれど、結論から言えばそれは違った。
むしろ、逆だった。
「いいえ。私はモンスターですけれど」
「は?」
当たり前のように、少女は言う。
「先程のオーガのような怪物の残骸とは違う、真性の怪物。その一体が、この私ですもの」
胸を張ってよくわからないことを言う彼女は、凍り付いた僕に対して首を傾げてみせた。
「ですが、そんなこと、主様はよくご存知じゃありませんか」
知っている?
僕が?
なにを?
僕は戸惑い、少女も戸惑う。
なにかが噛み合っていない。
というか、さっきからどうしてこの子は、僕を知っているような口ぶりなんだろうか。
どうして親しげに、「主様」なんてよくわからない呼び方をするのだろう。
これではまるで――僕のほうが、なにかを忘れてしまっているみたいだ。
「どうかしましたか、主様。なにか様子が……あら? そういえば、主様ったら、よく見たら縮みました?」
「縮んだ……? いや。だからきみは、なにを」
「あら? あらあらあら? というよりは、これはむしろ……」
少女の美しい顔立ちに、理解の色が宿った。
「なるほど、そういうことですか」
どういうこと?
僕には、なにがなんだかわからない。
けれど、彼女のほうはいまのやりとりで、なにかを掴んだらしかった。
オーガを一蹴した身体能力で、すっと距離をつめてくる。
「主様」
「……っ」
気付けば、すぐ目の前に少女がいた。
お互いの吐息が混ざる距離だ。
現実味がないくらいに綺麗な彼女が見つめてくる。
琥珀色の瞳は、まるでこちらの魂まで見通すかのようだ。
おかげで、逃げるタイミングを失ってしまう。
「……」
いや、違う。
そうじゃない。
なぜだか、逃げようという気が起こらないのだ。
まるで、その必要がないと知っているみたいに。
だからもう、彼女の行為はとめられなかった。
「大丈夫です」
そう言って、少女は最後の距離をつめたのだ。
「いま、思い出させて差し上げますから」
「……っ」
こんなの予想もしない。
予想できるわけもない。
少女の唇が、僕の唇に重なっていた。
とけるような柔らかさ。
どこか清涼で、懐かしい彼女の匂い。
そして、脳の奥底で光が弾けた。