3.
ツァイツラー博士は、外見や経歴を見事に裏切る性状の持ち主だった。
写真の中の彼は、フレームの細い眼鏡が知的な雰囲気を演出していて、木の芽色の瞳はいかにも優しげに目尻が下がっている。
教科書で彼を見る大半の人間は柔和な科学者だと思うだろう。歴史に名を刻める成果を少なくとも二つ――ときにそれは二つを組み合わせた一つとして数えられるが――挙げているのだから、間違いなく天才だ。
が、本人と接したことがある者には「狂人」もしくは「悪魔」と呼ばれることも多かった。
「もし、ツェットが彼女を守れなかったら、それは今の僕が五年前の僕を越えたってことだ。結構じゃないか」
博士は研究所のエントランスにある応接スペースのソファにだらしなく座って、叱られた子供のように不貞腐れていた。
部屋にはローテーブルを挟んで向かい合わせになっている一人がけのソファが四つ。空間としては広いのに、息苦しいほど密集していた。
ソファにはそれぞれ博士と助手、女軍人とその上官が座っている。
ツェットは博士の背後、壁際に立っていた。両眼は閉じている。死角が多い状況での警戒態勢なのだろう。アウレーリエはエントランスに残りたがっていたが、追い出されていた。
フリーダの現在の事実上の上官は髭面の老人だ。サンタクロースのようにたっぷりした髭で覆われていてもわかるほど窶れている。
上官、ランク・フェーベルは兵器の研究開発を軍から請け負う民間兵器会社、RW社の上役だった。死の商人と呼ぶには優しい印象なのは学者寄りの人間だからだ。かつては大学で教鞭を執っていて、ツァイツラー博士と助手のユリアーナ・エッカート共に元教え子である。
彼はどっぷりとため息をついて額を押さえた。
「結構なものか。彼女が怪我でもしていたら、どう報告すればよかったか……。私は何も聞いていなかったんだぞ」
「マルクスには話した。死んでも困らない人ってリクエストもした。そこの彼女の同意書だってあるよ。見る?」
ランクは疲れたように頭を垂れて手を振った。眼だけが隣で涼しい顔の部下に向けられている。部下と言っても取引先から預かっている若者である。マルクスというのはフリーダの本来の上官で、ツァイツラー博士の旧友でもある。ランクだけが何も知らなかったのは意図的なものだろう。
穏健なランクにとって、武装した機械や壁いっぱいの機関銃の中に人間が放り込まれているのを、手出しのできない場所からカメラで見せられたのは、かなり胃が痛い体験だったようだ。顔色が泥のようになっている。
プレイルームで行われていたのは、戦闘特化型アンドロイド――ツェットの定期試験だ。
彼が三原則違反を犯す『兵器』ではなくく完全な『ロボット』であることを証明するため、年に一度、軍の依頼でランクが立ち合って行われている。
『人間の危機を看過してはならない』という三原則の第一条を守っていては戦うことができず、第三条を守って人を殺さないために自らが壊れるのを良しとされては、脅威になどならない。
にも関わらず、ツェットが『ロボット』として開発されているのは、博士が頑として譲らなかったからだ。
「僕は完璧主義でね。失敗した課題があるのに、別の課題に取り組む気にはなれないな」
獄中のセリフを真に受けたのか、博士の言う課題――人を傷つけない完全なロボット作りも、対ロボット戦闘に活かせば無駄にはならないと計算したのか。
いずれにせよ、国は『人を殺さないロボット兵器』の制作を許可した。
地下深く、博士のために研究施設を設け、施設ごと監視下においたのだ。
(なんだかなぁ)
フリーダは、書類から目を上げた。ズブの素人でツァイツラー博士のことも名前しか知らなかった彼女のための説明資料だった。
「もちろん僕はいつだって、隙のない実装をしてるつもりさ。でも、本当に反例が無いかはわからない。医薬品だって、マウスの後は人体実験するだろ? 何が悪いの?」
ツァイツラー博士は納得がいかないらしく、まだぐちぐちと不平をたらしている。目の前のランクに対してというより、助手に対して言っているようだ。どうも、助手――ユリアーナもフリーダのことは聞いていなかったらしい。ずいぶんと怒っていた。
(この人を何としてでも罪人にしたかった理由は分からなくもないな)
フリーダはそっと息をついた。
言っていることはおかしくはないのかもしれないが、倫理観は欠如している。天才という呼称とはかけ離れた、甘ったれて子供じみた喋り方も、どこか不安にさせるものがある。
場を区切るようにランクが咳払いした。
「えー……、今回の試験の結果だが、まぁ、概ね良好だろう。そろそろ――」
実用化に向けた話し合いをしないか、と、続けようとしたのだろう。試験の目的は、常に博士の満足を得ることだ。一応、博士が三原則を守ったロボットの開発を終えたら、エーデル回路人工知能を用いた対人兵器の開発に協力してくれることになっている。
しかし、博士は面白くなさそうに遮った。
「良好なもんか」
言葉を継ごうとしない博士の代わりにユリアーナが補足する。
「余裕がありすぎる、と考えてるみたいなんです。今回のテストでは、ヴェリースさんとアウレーリエまで巻き込んで、ツェットの、緊急時の対応を見ようとした、らしいです。……私は知りませんでしたけどね」
最後の一言は恨みがましげだった。実験について何も聞かされなかったことを根に持っている。人命に関わることとあれば無理もない。
「本当は、そこの人がちょっと怪我するくらいまで追い詰めたかったんだけど」
博士はそこの人、でフリーダを指す。
「そうすれば、そこがツェットの限界でしょ? どこまでのことができるのかわからないのに実用化なんてムリムリ」
「つまり、今回の試験は意味がなかったと?」
フリーダが聞くと、ツァイツラー博士は意外そうに眉を上げた。
「うん。全くないとは言わないけどねー。せっかく、人命一人分、使い潰していいよって言ってもらえたんだから、普段はかけられない特殊な負荷をかけてみたかったんだ」
使い潰していい命。
(この人にとって、私は本当に、実験に使うマウスと同じなのか)
不思議と怒りは感じなかった。
「特殊な負荷、ですか?」
尋ねた声には硬さが残っていたが、博士は気にしなかったようだ。嬉々として答える。
「今回はお試しで、赤の他人である人間と、可愛がってるアウラとを天秤にかけさせたかったんだ。アウラ――ああ、ライフル持ってたアンドロイドの名前なんだけど。あれはツェットの次に作った機体でね。スペックもコンセプトも全然違うんだけど。日頃から仲良しでさ。アウラを壊して無力化させないと君が死ぬ、って感じにしてみたかったんだ。でも、結局アウラも君も無傷だったじゃない? 取捨選択が成立しなかった。どうせなら、もっと本気でアウラを壊しにいけばよかったな。そうしたらもう少し面白い反応が見れたかも。今回の反応もあれはあれでツェットの中の優先順位の重みについてなかなか面白い――」
「博士」
ユリアーナがたまりかねたように口を開いた。
「あの子達を玩具みたいに言わないでください」
博士は不服そうに口角を下げた。「だっておもちゃだし……」と呟いたのが聞こえた。
ギーゼルベルト・ツァイツラー博士がロボットの産みの親であるならば、ユリアーナ・エッカートは育ての親だ。学習する人工知能に「倫理」「人情」「情緒」といった、博士からはおよそ学べなそうなものを教えて、人間らしくしたのが彼女だ。「壊せばよかった」というセリフは「殺せばよかった」と同義に聞こえるのだろう。
おもちゃ呼ばわりされたツェットはわれ関せずといった様子で平然としている。傷ついた様子もない。
言葉が途切れ、沈黙が満ちる。
「あの、質問なんですけど、試験が年に一回なのってどういう理由なんですか?」
静寂を破って、フリーダはランクを向いて尋ねた。
答えたのは博士だった。
「一番は人工知能の学習には時間がかかること。それに僕はエーデル回路の軍事利用はやりたくない。あとは予算の都合もあるよ。派手に壊すからね」
悪びれない博士に、ランクはがっくりと肩を落とした。
「お前、やっぱり軍事転用反対なんだな!?」
「そりゃーそうさ。僕、ツェットのことはユリィのお陰で優しく育ったと思うし信用してるけど、量産して戦争に使うことまで想定してないもん。変な学習して思いもよらない行動を取ってたくさん人が死にましたー、とか言っても責任取らないよ?」
博士はへらりと笑った。
対して、ランクの表情は険しく、ユリアーナが気遣わしげな顔をしている。
「だったら止めてしまえ。人命をなんだと思ってるんだ」
「兵器会社のボスが言うことかい?」
ランクはむっすりと黙り込んだ。
博士は全く気に留めていないようで、変わらず人を食った笑みを浮かべている。フリーダはそっと息をついた。博士に開発をやめられては困る。
「一つ提案なんですが、私にこの研究所に出入りする権限を貰えませんか? 今回のテストで博士に満足してもらえなかったのは、私が持っている情報の少なさも一因でした。限られた機会を有効に使うためには必要なことだと思うのですが」
滑らかに言い切ることができたのは、奇跡に近かった。
博士はじっとフリーダを見つめている。汗が滲んでいないか気になった。動揺を見せてはならない。
「俺は反対だ」
ツェットの発言が、首筋を蛇が這っているかのような緊張から彼女を救った。
博士が後ろを振り仰ぐ。
「なんでー? 僕は悪くないと思うよ」
「保安上の理由だ。部外者の頻繁な出入りは認められない。十五年前のこともあるだろう」
どきりとする。
十五年前のことというのは、博士のロボット犬が人を噛み殺した事件のことだろう。
あれはそもそも、博士に対する強盗殺人未遂が先にあったのだということを、世間は忘れがちだ。
噛み殺された男は銃を持っていた。犬に向けて発砲もしている。身の上としてはエネルギー開発会社の経営者かなにかで、アイテールの普及により職を失っていたらしい。
また、本人の性格が性格なので、他にもいろいろと恨みを買っていたという話もあった。
「忘れてないけど、今はツェットがいるし、まぁ大丈夫でしょ」
「しかし……」
いつまでも渋い顔のツェットに対して、博士はひらひらと手を振る。
やがて、研究所の番人はため息でもつきたそうな顔で承諾した。主人の許可があるのに従属する側のロボットの許可も要るのは不思議な気がしたが。
博士は彼に「必ず連絡を入れてから来るように」と言わせしめた。
とにかく、フリーダの第一目的は果たされたようだった。